2.理学療法とスポーツ、その歩みを踏まえてこれからを考える 坂本雅昭(月刊トレーニング・ジャーナル2024年3月号、特集/スポーツ医科学のこれから)


坂本雅昭・高崎健康福祉大学保健医療学部、理学療法士、JSPO-AT

群馬県のスポーツ現場を長年にわたって支えてきた坂本氏に、その歩みをお聞きし、これからのスポーツと理学療法について話していただいた。

特集目次
https://note.com/asano_masashi/n/n2147fb5d0cbc

頸髄損傷した友人

 私は高校生のときにサッカーばかりやっていまして、そのまま大学でも続けていました。

 高校のときの友人がいて、別々の大学に進学したのですが、大学1年の夏になってその友人が入院しているという話を聞きました。プールに飛び込んで頸髄損傷をしたということでした。お見舞いに行ったのは1年後くらいになりましたが、再会することができました。それからサッカー部の練習がオフの日には友人のところに行くようにしたのです。

理学療法士の存在を知る

 大学4年の12月ごろ、「就職どうするんだ」と言われました。就職活動をしていませんでした。当時、サッカーの日本リーグのチームからも話をいただき、そちらに進もうと思ってはいましたが、膝のケガなどもあり、レギュラーになったり補欠になったりで、こんな状況で社会人サッカーをやっても先行きの見通しが立たなかったのです。

 その友人が、「坂本に向いている仕事がある」ということで、初めて理学療法士という言葉を聞きました。「動きのコツを我々に教えてくれるので、運動をやっていた坂本なら理学療法士の仕事は向いていると思うよ」というのです。その足で本屋さんに向かい、当時は専門学校にしか課程がなかったので専門学校のガイドで探したのです。国立と都立、そして私立が2つくらいで、夜間の課程があるのは社会医学技術学院(社医学)だけでした。ダメ元で訪問したところ、事務長さんがいらして、話をしました。「みんな高卒で入ってくるけれども、大学も卒業して、そういう経験をしているならぜひ」ということで受験しました。よく冗談で、理学療法士、略してPTを目指すんだと話すと、当時は映画の『E.T.』があって、「E.T.(イーティー)?」と聞き返されるくらいの時代です。理学療法も知られていなくて、「リハビリの関係なんだよ」と言うと「ああ、マッサージしたりする人?」という程度だったのです。

 事務長さんからは、「障害を持っている人たちが対象だから楽な仕事じゃないよ」、そして校長も「泥の中からひと粒の真珠を探し出すような仕事だよ。障害は残る、だけど社会にどう適応していくのか、そのお手伝いだからね」という言い方をされていました。なるほど、人のためになれるんだと思いましたし、もうやってみるしかないというところでしたね。

 解剖学や生理学の勉強はしていなかったので、前もって解剖などの書籍を買っていたりしました。大変だな、覚えることがあって、と思っていましたが、やっていくうちに、身体の仕組みがわかったらスポーツに応用できると思いました。スポーツとはまったく無縁になるというふうに思っていましたので、勉強が面白くてしょうがなかったです。

医療現場でも学ぶ

 授業は夕方からでしたので、昼間は親類のお店や近くの百貨店でアルバイトをしていました。私は知らなかったのですが、入学が決まると、全国各地から入ってくる学生たちは学校に相談していたようで、関連している病院でリハビリ助手などの形で働いているのです。驚いて相談に行くと、先生が「お前は大学を出ているし、ちょっと変わった病院がある。体育会でやっていたんだったら、受けてみるか。助手がほしいと言っていた」ということで、自衛隊中央病院を紹介されたのです。とりあえず見学に行きました。「みんな制服着ているからな」ということで、確かに自衛隊の制服でした。患者さんも医師も看護師も、みな自衛隊の人でした。採用試験を経てそこで働くことになりました。患者さんは、一般の自衛官はもちろん、自衛隊体育学校の選手もいましたし、総合病院であるのでいろいろな疾患をみることになりました。

 学校の先輩も働いていて、元レスリング選手やレンジャー所属の方で、午前中、毎日1時間は専門的なところの講義をしてくれたのです。たとえば物理療法など、操作説明だけではなくて、生理学的にどのような作用機序があるかといったことを必ず教えてくれたのです。また「少し早めに上がっていいよ」ということで授業に遅れないようにという配慮もしてくれました。

 もともと整形外科医でリハビリテーション部長だった医師が、当時はリハビリテーションが医師の間でもまだまだこれからという時代でした。熱意のある先生で「アメリカだとどの軍の病院でも、一般の病院でもPTを置いているし、リハビリテーションは重要なんだ」と言っていて、本当に勉強させていただきました。

 その部長が、心筋梗塞で倒れたことがありました。病室に呼ばれて「坂本君、図書室に行って心筋梗塞のリハビリテーションについて調べてくれ」と。調べると、当時は絶対安静1カ月、それから3カ月くらいかけて日常生活に戻すようなプログラムだったのです。「こんな感じです」と話すと、「ちょっと遅いな。文献を探してみろ」と言われ、文献検索は当時は大変だったのですがコピーを送ってもらったりして、「どうもアメリカはもっと早いようです」と話しました。「そのプログラムをどうにか手に入れろ」ということで、それに準じてプログラムをつくったのです。

 ベッド上で絶対安静、トイレも寝たままでとなっていたのですが、寝たままでいきむよりゆっくり起き上がってポータブルトイレで排泄したほうが心臓への負荷は少ないという文献がありました。「よし、ポータブルトイレを準備しよう。ベッドが低いと立ち上がりが大変だから電動で上げよう」。今から思うと怖いですが、私も「こうしたらいかがでしょう」と提案したりしていました。そんなことをしていると、ちょうど主治医の内科部長が入ってきて「なにやっているんだ。そんなことをしていたら、もう私は診ません」と患者さん本人(リハビリ部長)も怒られたこともありました。二人で謝りつつ、当時は心臓リハビリテーションという概念もなかったはずですが、アメリカのプロトコルに基づいて進めていきました。心筋梗塞からの復帰日数の基準が短縮されたのは数年後でした。

人とのつながりも

 あとは、毎週決まった曜日の朝に整形外科のカンファレンス(症例検討)が行われ、それにも参加させてくれました。病棟に行ってレントゲン写真を借りてきて、シャーカッセン(シャウカステン)に差し込む手伝いをしたりしていました。そのときの整形外科部長の医師が厳しい先生で、「あっちこち触るな、指紋がつく」とか、「腰痛の人だったら、正面、側面、斜めの順に差す」「前屈、後屈はこの順番だ」と教えてくださったのです。研修医に、頚椎の神経の何番がどこを支配しているかと聞いて答えられなかったりすると、PTを指名して尋ねるのです。我々は一応勉強していますから、何番は何筋ですと答えると、研修医がシュンとするのですね。そこから、若い医師の先生とコミュニケーションが取れるようになりました。研修を終えて後、いろいろと相談してくれたり、つながりができてくるのです。

 整形外科の回診にも一緒につかせてもらいました。膝の手術後の患者さんの脚はSLR(ストレートレッグレイズ)の結果がよくないのを、教授が「ちゃんとやらせないと駄目だよ」というわけです。医局長が「ちょっと見ておいて」というので、少し理学療法を行い、回診が終わったときに「何号室の誰々さんは、SLRができるようになりましたから」と話すと、若い先生方が「どうやったの?」と。そこでお医者さんたちと関われたことで、理解してくれたといいますか、こういうことができるということを理解してもらえたかなと思いますね。

大学で勤務

 社医学を卒業後、3年ほどを経て群馬大学で働き始めました。助手で入ったのですが、この頃は、スポーツと理学療法の結びつきは自分の中ではあまりありませんでした。大学は教育をするところですが、どう教えるとよいのかわかりませんでした。雑用はやっても、教育研究の指導については指示はなく、暗中模索でした。

 スポーツに関わったきっかけがあります。群馬県にはスケートリンクがあり、そこでスプリントの世界大会が開かれることになりました。群馬県体育協会(現在の県スポーツ協会)の方がいらして、国際大会のレギュレーションでフィジオセラピストのサービスを準備するよう書かれていると。「先生方のことを指しているようなのですが」という相談でした。「これは我々です」とお答えし、会場に物理療法機器、トレッドミル、自転車エルゴメーターを用意し、そこに理学療法士を配置するように指示がありました。「私のほうでメンバーを集めましょう」といってサポートが始まりました。1992年の頃です。卒業生も少なく、有志を募って研究会を立ち上げて、この世界スプリントスケートへの協力体制をつくりました。ここから、群馬スポーツリハビリテーション研究会が始まっています。30年が経過し、記念大会を催しました。

スポーツ現場へのサポート

 この研究会が始まった頃、前橋商業高校のサッカー部に関わることになりました。大学のときの私の先輩と、ここの監督の間につながりがあって、医科学的なことも入れていかなくては勝てないと思ったようで、そうした会話が先輩との間であったようなのです。「その方面に進んだヤツが群馬に行ったぞ」ということで、先輩と監督、私の3人で顔合わせをしたのです。「一度、練習の見学をさせてください」と行ってみたところ、高校生たちは元気よく挨拶してくれるのです。こんにちは、と土のグラウンドに入っていくと、監督がピーッと笛を鳴らして選手たちを集合させて「今日からうちのトレーナーの坂本さんだ」と。いやいや話が違うと思ったのですが、後で聞くとコーチもみんなそういった経緯でチームに関わるようになったらしいです。会社員をしていた人を、支店長と話をつけて「どうしても必要なので」と呼んでくるのです。ここには、20年間にわたって関わりました。

 その頃、近所でクリニックを開業した医師の方がいて、若い頃から知っていて、スポーツ選手もみてもらうようになりました。人のつながりで、恵まれて、本当に楽しかったと思います。

 国体(国民体育大会、現在の国民スポーツ大会)では、選抜チームに帯同でついていきました。ライバル校の選手ももちろんきちんとみますし、最後には報告書をファクシミリで送ったりしていました。すると、ライバル校の監督も、私が週に1回勤務していたクリニックに「悪いけどみてくれないか」と紹介してもらったりしました。そのような感じで、いろいろなチームの監督が信頼してくださって、私たちの存在が知られるようになってきました。

 県大会が行われる時期には、私たちも大会のサポートとして見に行くのですが、1回戦、2回戦ではレベル差が大きいのです。監督さんがほかのチームの試合のレフェリーをしながら、「アップしておけ」と自チームの選手たちに言うわけです。また、試合のときにも、ケガが発生したら、選手交代の紙に記入して、そのケガした選手は誰が見るのだろうと思うことがありました。そういう状況を見て、両チームに関わることができる理学療法士が1人2人、大会にいたらお役に立てるのではないかと思い、高体連に「ボランティアで各試合会場に理学療法士を配置しますよ」とメディカルサポートの提案したのです。試合前のテーピングや、試合中に何かあったときに応急処置をするというものです。ある程度、それが続いたのですが、現在はリーグ戦が始まって配置が難しくなり、現在は中断して、中体連のほうだけになっています。

 このようにして、群馬県の高校のバスケットボールと野球、中学のサッカーはサポート体制ができてきました。当時動いていたのが、群馬大学時代に私の大学院にいた学生たちがメインでした。皆医療機関に勤めていて、そういった活動に理解をしてくださるところばかりです。規模的にも群馬だからできたのかもしれません。つながりができてきた中で、群馬県のスポーツ協会からも、障害予防の講習会を依頼されるようにもなり、さまざまな競技でサポート活動を広めたほうがよいのではないかという話をしていました。私も「トレーナー部会」のようなものを県のスポーツ協会の医科学委員会の中につくってそこで活動を始めました。ただ、日本体育協会(現在の日本スポーツ協会)では、公認アスレティックトレーナーの資格取得に進めるのが年に1人(養成課程への推薦)という状況で、養成校もなかったものですから、県のレベルで講習会を行い、認定するようにしました。理学療法士に限らずスポーツ現場での活動経験のある者、という線を引いて受講資格とし、2日間の講習を受けてもらい、実技などをみて認定しようという制度です。

 その資格を持つ人たちと一緒に、メディカルチェックと体力測定を行いました。それまでも県のほうで行われていましたが、日程調整で融通がきかなかったり、フィードバックもデータを渡すだけにとどまっていたので、測定結果を持って出向いて、あなたたちの体力特性はこうで、ここが優れていて、ここが弱いです、というようにわかりやすく説明をしました。弱いところを補強するにはどうすればよいか、障害予防を含めて話にいくような「フィードバック事業」を立ち上げてもらいました。競技は多岐にわたって、ソフトテニス、ソフトボールなどから始まり、だんだんとアスレティックトレーナーも若手が参加するようになり、カヌー、体操、新体操、フェンシング、アーチェリー、馬術にも行きました。

 なぜメディカルチェックで引っかかるかというと、やはり柔軟性が低かったり、これだけ身体が硬いと身体の回転が止まっちゃうでしょ、とか、どこに負担がかかるかというと腰でしょ、股関節を柔らかくしないとバッティングが、というような話を選手たちの前でするのです。すると、単に「ストレッチングをやっておけ」では通じませんが、競技特性に合わせて求められる動きができるように、という視点で伝える、そういうことをやってきました。もう5年くらいは若手に任せてしまっています。


写真1 ソフトボール選手へのサポート活動の様子

派遣事業も

 新型コロナウイルス感染症が広がる前の5年間ほど、群馬県の教育委員会と一緒にやった仕事があります。県の「認定トレーナー」を派遣したのです。中学校に手を挙げてもらい、ニーズを聞きました。手を挙げた先生が陸上競技部の顧問をしていたら、その選手の状況をみてほしいとか、ある中学校では2年生全員に話をしてください、というようにいろいろです。吹奏楽部への派遣依頼もありました。

 アンケート結果もいただいて、ほとんどは続けてほしいという回答でした。一番嬉しかったのが、生徒たちの反応で、「自分の身体の動かし方がわかった」「初めて経験するような動きができた」「ストレッチングの大切さがわかった」「柔軟性がこんなに高まるとは思わなかった」と。よっしゃーと思いましたね。

 ある程度は経験のある認定者、ここでは理学療法士をバックグラウンドにした人たちに行ってもらいましたが、理学療法士は普段は医療機関で患者さんとマンツーマンです。1対多数に慣れていないこともあります。そこで勉強になったと言っていました。集団の統率をどうやってとっていくか、また体力など大きなばらつきがある中で、どのように把握して工夫するかという難しさがあります。

評価とは

 理学療法士がスポーツに関わる場合、理学療法の基本的な部分を応用することで必ず役に立つと思っています。これはスポーツに限らず、子どもでも高齢者でも、中枢神経の疾患でも同じです。理学療法士の見ているもの、あるいはやることというのは人間の身体の動きです。動作と言ったほうがよいかもしれません。動作をどう見るか。動作を評価する中で、異常な部分を見極めてその原因を探るというのが理学療法士だと思うのです。

ここから先は

5,033字 / 2画像

¥ 150

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?