楽しさというもの

 あなたはなぜ生きているのか。そう聞かれて、人生は底抜けに楽しいから生きない理由はないと答えたかもしれない小学生の時の僕は。
 頭の中には自分しかいなく、歯で人を傷つけ、目で人を睨み、妬み、そのような自らの歩の進め方を自覚した途端、楽しいという感情の自分勝手さに気付いてしまった。きっと盲目のまま、所構わずに楽しさを貪っていたほうが充実した生活を送れるという点では良かったのかもしれない。
 しかし、一度気づいてしまえば、この世界の残酷さに。全ての存在が等しく残酷に振る舞い、残酷に振る舞われ、初めの息から終わりの瞬きまで生命のルールに縛られ、本能に縛られ、理性に縛られる。この束縛の不自由さのままに、初めはそれを忌み嫌い、それでもなんだか愛おしくなってしまったときにはだいたい、お告げが来る頃だった。好きと嫌いは表裏とは言うけれど、やはり自分の思考、欲求、感情、肉体、傲慢、不遜、その諸々と長く付き合ってきたからには、この自分という存在に対してそのどちらともが混ざったものが、ミキサーによってさらに混ぜられる様子を檻の中から黙って見ている現状は、仕方のないことだと思うのだ。私は私によって好かれ、嫌われ、ときには関心を持たれないこともあるが、とにかく私によって見られた私の振る舞いの予測は、たまに当たり、たまに外れ、それは信用なるのかならないのかよくわからない朝の天気予報のようだった。
 話を戻そうと思うが、つまりは私への洞察、世界への洞察をするようになってからというもの、私の罪深さ、人間の罪深さ、動物の罪深さ、植物の罪深さ、存在の罪深さを痛感することが多くなったということである。誰もが欲望のまま、逆らえぬ物としての生き様のまま、ときには申し訳ないと思いつつも正当化して、拳に握ったナイフで、抵抗できないようにするのだ。その暴力を知っても、知らずとも、変わることはない。存在は暴力無しでは生きられないからだ。そしてそれに係る罪もまた、自分によって自分に与えられる以外の意味を持たない。
 誰のためにもならない罪は、自覚とともに現れた。しかし、この罪こそが、私の生を生たらしめるものだとも思うのだ。楽しさとは逆に位置する罪こそが、私が生きる意味だと思うのだ。罪による苦しさこそが、生きる実感だと思うのだ。きっと誰かに首を絞められながら薄れつつある意識の中で数十年と生きる私たちは、陽だまりの中で息絶える夢を見る。

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