センベェ

 「柔らかいお菓子ばっか食べてたら歯が無くなるよ。今の若い子はせんべいとか食べないのかね。」
 バス停の待ち行列、前のおばあさんが虚空に向けてそう話していた。手には個包装されたままのせんべいが握られていた。少し様子がおかしいさまを一歩くらい引いて眺めていたら、おばあさんは手に握っていたせんべいの封を開け、バリボリと齧り始めた。
 「入れ歯だとね、固いものをうまく噛めないのよ。お前にはそうなってほしくないからこんなに忠告してるんだ。」
 たしかに、食べづらそうに噛んでいるし、口元からはカスがボロボロとこぼれていた。僕もゆくゆくは老いてそうなってしまうのだと、ありもしない未来のことをふと考えていたとき、おばあさんはこちらに振り返った。
 「石、そこの石を、ちょっとだけ持ち上げてくれないか。困ってるんだ。」
 見ると持ち上げるのに苦労しそうな漬物石のような石が路傍に佇んでいた。見ず知らずのおばあさんの奇妙なお願いなんて、聞いてやることはないのだが、そのときは気まぐれというものが働いて、おばあさんの言うとおりに石を持ち上げてみた。すると、そこに堰 止められていた黒いものが四方八方に拡散して、消えていった。
 「ありがとうねぇ。お礼に、せんべい、食べるかい?」
 断る間もなく、僕の手にはせんべいが握られていた。おばあさんはいつの間にか水に解け、地面に吸収されてしまった。一週間たった今でもそのせんべいはなんとなく捨てられずに家のリビングのテーブルの上においてあるのだが、そのせんべいに付いた光る朝露に、生命の終わりと始まりとを見たような気がした。朝食の卵焼きにかけるケチャップがあたりに飛び散って、その飛沫によってせんべいが少し汚れてしまったときに、それは泥でできたおにぎりに変わってしまう。つまり今までの出来事は狐が僕を化かしていただけだったという事実を知って、してやられたーっとなったのはその後の話である。

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