暇と余白

 時間に追われているとき、私は次の余白のことばかり考える。カレンダーに何も書かれていない日、インクの染みたにおいとは無縁の日、四角に区切られたその数字の部屋にはけっして誰も踏み入れることができない。しかし、いざその聖域に踏み入れると、清純で清潔であるその日は一秒一秒齧られていって、気付けば少なくなり、無くなり、日を跨ぐ頃には落胆を首からぶら下げている自分が鏡にうつる。だが落胆こそが日々の事実だ。焦燥こそが事実を見ている証拠だ。ゾワゾワと身体に広がる不快感は正しく私が今を生きているせいなのだ。人は身体の一切の感覚を捨てることはできないから、諦めの気持ちとともに肌触りの悪い布を身体に掛けて寝てしまうのだが、瞼の裏、頭の中の現実の彼の呑気さに、目覚めてから気付き、怒り、出した拳をどこに振るえばいいかわからないことに気づいた頃には、その拳はとっくに垂れ下がっていた。太陽のご機嫌取りの合間を縫っていく、虫が一匹。

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