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平沢進という火

 平沢進のインタラクティブ・ライブ「ZCON」の初日公演へ行ってきた。
 人生初の「ミュージシャンの音楽ライブ」なるものに参加した衝撃たるやすさまじく、しかもそれがインタラクティブ・ライブであり、さらに平沢進の、という特殊な状況下に置かれた私は、あまりに多くのことを一度に考えさせられ、貧弱な脳を爆発させてしまった。これはその残骸をかきあつめて焚き木にし、いつどこに現れるかもわからない自分の片割れのために灯した灯台である。

 ライブ「ZCON」のストーリー、テーマは一貫して「世界によって自分にかけられた呪いから解き放たれよ」というものだった。あれほど難解な音楽、文章、世界観を通して放たれた一言としては、あまりに爽快かつ明快である。どこにも欠けのない生き物の骨格のように、過剰も過少もなく、すばらしく整っている。 
 私はその事実にまず感服してしまった。優れた芸術家のコンセプトは常に一貫しており、あっけないほど簡単だが、それでいて独創性に満ちている。今さら平沢進という人物を指さして「優れた芸術家だ」と叫ぶのは非常に恥ずかしい。恥ずかしいことだが、言わざるを得ない。

 平沢進の音楽がいかに技法として異質であり特殊か、といった話題は私には向かないので割愛する。私にとって音楽の製造過程は得意分野ではない。音楽とは作り方を知るものではなく、常に与えられるものだった。これからもそうだろう。

 私はもともと読解力が低い。映画、漫画、小説、音楽、どれをとっても、まずテーマ性や作者の意見、主張というものに気付かない。とりわけ、音楽に至っては、音楽を聴くことに専念しているので、初めは歌詞カードすら読まないこともザラだ。
 だからアルバム「BEACON」を7月の発売日ごろに買ったにもかかわらず、そのアルバムのコンセプト、テーマ、メッセージに気付くことができなかった。私がやっとそのメッセージを理解したのは、ライブの特設サイトが開設され、インタラのストーリーが平沢の朗読と共に公開されたときである。

 アヨカヨとアンバニ。ZCONとBEACON。ZCONITEとデュンク・アン。

 なるほど、と思った。そしてライブに参加して、確信した。平沢にとって、世界は二元なのだ。善か悪か。支配か奴隷か。生か死か。嘘か誠か。
 そして平沢は、世界の呪いは「常識」そのものであり、それは私たちヒトが本来持っているすばらしい能力を縮め、押し殺し、支配者に都合のいい奴隷を大量生産するために造られた、「ウソ」だと伝えたいのだ。その呪いが解けた時、ヒトは長らく聴くことのできなかったBEACONの音、デュンクを聴き、アンで応えることができる。
「人々が劣ったままでいますように」と支配者によって分断されていたものが1つになった時、すなわち常識によって固定化されていた既成概念が打ち砕かれた時、我々は幸福で優れた人々の世界そのものを知ることができるようになるというのだ。

 常識も社会も突き放して己の道をひた走る「平沢」が唱えるコンセプトの、なんと純然たることか。

 このテーマについて、カルト的であるという人もいれば、希望的であるという人もいるだろう。
 そして私は、平沢進を羨望し、尊敬する一個人として、そのどちらも肯定し、否定する。

 私は常々思う。真理と呼ばれるものを語ろうとする人は、往々にして、陸で喋る魚のように不気味だ。それは胡散臭がられ、面倒臭がられ、気味悪がられて打ち捨てられる。なぜなら私たちは、真理など存在しないということに薄々気づいているからだ。さながら、サンタクロースは保護者であると気づきつつも24日の夜を待つ思春期の子どものように。
 科学と物理を信仰する私たちにとって、世界にたった1つの、燦然と輝く方程式のような真理は虚偽にしか見えない。誰も触れられず、誰も見ることができないのなら、無いのと同じだからだ。ゆえに、まるでそれを見たかのように語る者は胡散臭い。この世にたった1つの真実があり、私はそれを知っている!と唱える者は、たいてい金欲に塗れた宗教家か、詐欺師であると考えられている。

 けれど私はこうも思う。私には、誰かに支配された、個人的な歴史がある。きっと誰でもそうだろう。ある人は顕在的に、ある人は潜在的に。

 私たちは、ただ世界に生まれ社会で生きているというだけで、その時代、その社会、その人間関係の「常識」を浴びている。

 それを浴びせるのは保護者かもしれない。学校かもしれない。常識という概念かもしれない。学歴かもしれない。優秀な他人かもしれない。そして、世界に圧倒的普遍な真理は存在しないが、「誰もが踏襲するべき普通の道」と信じられているものは存在する。不思議なことだ。

 大学に行くべき。新卒で就職するべき。普通科の高校に行くべき。スカートは巻かずに履くべき。ツーブロックは不良の特権であるべき。就職面接では黒いスーツを着るべき。女は化粧をするべき。男は常に強くあるべき。学校で着けるヘアピンは地味であるべき。東京に行ったらスカイツリーを見るべき。大阪に行ったらタコ焼きを食べるべき。年上には従うべき。年下はへりくだるべき。自分のミスは自分で責任を取るべき。負けないよう頑張るべき。勝てるよう頑張るべき。優秀でいるように努力すべき。良い成績を取ったら、良い企業に入るべき。お金をたくさん稼いで良い暮らしをするべき。余計なことは言わずにいるべき。べき。べき。べき。

 これらが呪いでなくて、何だというのだろうか。幸いなことに、社会における不当な呪いは、一部の人たちのたゆみない努力によって解かれようとしている。しかしその道の上に、一体どれほどの人生が犠牲となって横たわっている事だろう。それは歴史とか、遥か昔の事に限らない。私の人生の一部も、その呪いに殺され、もう永久に消えない痣となって、確かにその犠牲の山のひとかけらになったことがある。そんな記憶は誰にだってあるはずだ。本来の自分の気持ちを殺し、社会に従属しないと生きていけなかった時間の記憶が。

 BEACONは、そんな屍をよみがえらせ、再び私たちの人生へと取り戻すための音楽だ。そして平沢進は、その犠牲の先頭に立ちながらも、決して消えることのない灯台だ。決してどの社会にも呪われない、燦然たる炎だ。

 その灯火が不要な人間にとっては、炎はただ危険で鬱陶しいだけだろう。だが、社会に呪われ、常識に呑まれ、人生の時間を犠牲にされ、見えない痛みにもがき苦しんでいる人間にとっては、その灯台は希望の火となる。

 だからといって、その灯台だけが希望であり、目指すべき目標だと誰もが謳うならば、私たちは再び呪われることになる。今度は社会にではなく、平沢進という火によって。それでは無意味だ。(完全に私の個人的な推察だが)ゆえに、平沢進は過剰な信仰じみたファンを疎むのではないだろうか。つまり、自分自身が社会に取って代わる呪いにならないために。
 だから私は平沢進を師匠と呼ばないし、信仰もしないし、崇拝もしない。ただ何者にも呪われず、自分の信じた真理を発しつづける彼を、羨望と畏敬の念をもって見上げるだけだ。

 ひとまず、BEACONについての所感としては十分に記せたかと思う。いったん筆を置く。

 

 

 

 

 

 

 

 

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