「春の日」横光利一

 人が自分を見たときに、どんな模様に自分が見えてゐるのだらう、といふ面白さは、ときには忘れたり、甦つて來たりするものだ。
 日本には黑龍といふのがゐて、それが政治を動かしてゐるさうだが本當か。といふ質問は、よく外國人から受けた質問で私は答へに弱った記憶がある。ブラック・ドラゴン、といふこの想像の顯はす姿は、外人にいかなる像を映してゐるものだらうか、これも私らには不明瞭だが、おそらく奇怪至極な、 兇惡な相をしてゐたことだらう。善良な日本人を外國が救ってやるためには、この眞黑な龍を退治してやらねばならぬ、といふやうな素朴な考へは、馬鹿には出來ぬ力となって、絶えずどこかで動いてゐたのかもしれない。 全身に黑い鱗が生えてゐて、蛇腹をうねうねのた打たせてゐる姿、 ーーこれが私らの信じてゐた文化文明といふものであったのなら、そのままには通用しがたい、無念なものとなつてゐたこともあるだらう。
 しかし、たしかに自分一個の中を考へても、多くの鱗に似たものが生えてゐる。 擦り落さうと藻痒いても、落ちる後から後から、生えて來る片々を認める苦痛は、私の半生つづいてやまなかったものである。これを落すために私らは數々の藥品も用ひてみた。 研ぎ磨いてもみた。染め變へようともしてみた。 それでも落ちぬと、この鱗こそ美しいと信じようとした。また信じれば信じるほど、透明さを加へる鱗にもなりさうであった。比喩を止めよう。
 今、私らの鱗は剥ぎ落ちかかつてゐる。事實は刻々、脱落してゆく鱗の苦痛と、心身海水に浸り始めた眞皮のひりひり刺しむ希望が、希望か痛苦か、判明しかねる様子で巻き込むで來つつある。 國家ばかりの中から、親類の手足を人間と思って舐めてゐた舌端が、突然、 人類といふかつて見たこともない實體に觸れた混亂、狼狽、好奇、轉倒、――この亂調子の狂ひに病氣や、餓ゑや、空腹や、寒氣や、 ――しかし、秋が來ればまた米穀は實るだらう。私らは働きさへすれば良い。 どんな狂ひが來ようと、大切なことは働きの氣持ちであることに變りはない。
 ただ一本の均衡ある調子を見つければ、自由がそこに落ちて來て物をいふ。たとへ鱗が落ちなくとも、透明なものは射して來る。
 私は去年のある秋の日、一壜の醤油を携げて野路をひとり歩いて來た。歩きつつ、いったいどういふことが、忘れてゐた一番大切なことだったのだらうかと、考へたことがある。ただ一口で言へること、二口ではもう駄目だ、といふやうな根元の大切なことは 私の振り振り歩く配給の醤油の重さから、恩を忘れぬことだ、與へた恩は忘れることだ、と、壜が言ふ。 その拍子にふと、ゲーテが、忘恩の徒は知識階級ではない、と一言いつてゐたのを思ひ出した。 痛いね、なかなか、と私は思った。人ひとりも見えない半里の長い野路は眞直ぐで、遠山は美しく、稻の花房はよく垂れ、日は燿いてゐた。これを今より美しくするには、第一番に、どうすれば善いだらうとまた私は考へた。草をひくことだと思った。 日本の國のどこよりもの缺點は、雑草の繁殖力の激しいことだ。これを忘れて少しの暇のんびりとしてゐると、たちまちこの雑草は日本の特長の季節風のために、米も麥も野菜も、押しのけて枯らしてしまふ。 外國にはこれがない。それなら、女學校の教科書の開巻第一頁に、誰も一日に一回草ひきだけは忘れぬこと、と書くべきだと思った。
 家に着いて、私は錘形の醤油壜を傍に置き、胸や脇腹の汗を拭いた。もう鱗が白からうと黑からうと、二つのことを整へてみた氣樂さで、どっしりとした黑い壜の光澤を眺めてた。いろいろのことを考へさせてくれたその壜は、私にはもう壜には見えず、肉身の艶のやうに見えて來て、兩手でときどき撫手たりしたが、半ヶ月もするうちに、壜はだんだん空隙をひろげ透明になって來た。
 私は今は東京へ戻って來てゐる。 あの秋の日の野路で、私にそっと囁いた壜は、澤山ある同形に混じ、どれがどれだったか分らない。その透明さのために分らない。しかし、あの囁きだけは、今も私は覺えてゐる。 痩身には適當の重量で、氣持ちよく稻の中をぶらぶらと揺れた均衡ある搖れごこち、もしあの時野路でそれがなかったら、おそらく私は他の事を考へたことだらう。 菜あり米ありと申すべからず。菜まします米ましますと申すべし、とは道元の法言だが、私には壜ましますで、今は姿を明さうとしないその壜の透明度に、私の鱗も、どこからか啓示ある照明を射しこめられようとしてゐる。 春の日だ。


読書に朗読に、ご自由にお使いください。
出来るだけ旧字旧かなのまま、誤字脱字の無いよう心掛けましたが至らない部分もあるかと思います。ごく個人の物ですので何卒ご容赦下さい。

初出:1946(昭和二十一)年五月一日発行『婦人文庫』第一巻第一号
底本:河出書房新社発行「定本横光利一全集」第十四巻

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