10回目の那岐登山

            (2018)

 私は卓球の経験は全くないが、高齢になってもできるスポーツと知って、やってみたくなった。一人暮らしになって、時間はたっぷりある。近くの公民館などに電話して、初心者でも入れるところを探した。
備前体育館でのコスモス卓球クラブは少し遠いが、少人数で皆とてもやさしく、何もできない私を丁寧に指導してくれる。

リーダーのWさんは山好きで、月に一度は山を歩きましょうと誘ってくれる。
 私も以前はハイキングクラブに入って近くの山歩きを楽しんでいたが、もろもろの事情ですっかり遠ざかっていた。特に最近膝を悪くして、山歩きなどとんでもないと登山靴も処分した。

 Wさんは、やさしくしつこく誘ってくれる。
私も次第にその気になり、卓球ができるのだから、時間に余裕ができたのだから、と思い切って熊山に連れて行ってもらった。膝にはサポーターをして恐る恐るの山歩きだったが、案ずるより行うがやすし、何とかついていけた。
 それから和気アルプス、日生の天狗山、坂出の飯盛山など、手ごろなハイキングコースを楽しむようになった。5月は県北新庄村の毛無山だった。
 
毛無山は以前からあこがれの山で、ブナの原生林で有名だ。遠いし標高もかなりあるので、不安はあるが、やっぱり一度は行ってみたい。
 準備をしながら天気が心配だ。予報では午後から雨らしい。
雨なら中止だろうか。雨の中を歩くなんて惨めだ。でも昔買ったゴアテックスのカッパがある。2万円以上して悩みぬいて買ったのに、その後、山に行かなくなり一度も使っていない。それも使ってみたい。

 車に乗り合わせて高速道路を走っていると、パラパラと雨が降り始めた。登山口に着くとかなりの本降り。
此の雨の中を? と思うけれど、一人で別行動をするわけにもいかず、カッパにレインハット、ザックカバー、足元の泥除け、装備を整えて歩き始めた。

 雨にもかかわらずブナの林は明るく、様々な緑に覆われていて、降りしきる雨は木々の葉が受け止めてくれるのだろうか、さほど気にならない。小鳥の泣き声、谷川のせせらぎ、空気は澄み切って風も心地よい。
 ただ20年前に買ったせっかくのゴアテックスはどういうわけかあまり役に立たず、雨が染みてくる。さいわい気温が低くないので、さほど寒いというわけでもない。

 道は緩やかなのぼりで危なっかしいところはない。ブナの新緑と谷を渡るさわやかな風をじっくり味わいながら頂上に着いた。
 頂上はちょうど雲の上に顔を出したのか、さーっと霧が晴れて、360度の眺望が楽しめた。これぞ山の醍醐味である。
 下りはぬかるんで滑る足元に全神経を集中させて、一歩一歩丁寧に足を運び、無事登山口の駐車場にたどりついた。あーあ、疲れた。全身びしょぬれだ。
 近くの蒜山国民休暇村の温泉に入って、酷使したふくらはぎを丁寧にマッサージし、着替えをすると、生き返った。

 6月は那岐山に行くという。那岐山は私の故郷の山で、10年くらい前、それまで3回登っていたが、季節ごとの楽しみに気づいて、生涯に10回登りますと宣言した山だ。
 体調を悪くして8回で止まっていたが、去年このグループで9回目を登った。今回私の為に、日程を調整して、特別に企画してくれたのだ。
 しかし私はスケジュール的にきつくて、体力的にも不安がよぎり、登れるかどうか心配になる。
「今回は自信がありません、雨なら辞めますよ」と訴えたけれど、
「大丈夫ですよ、ゆっくり歩きましょう。もしもの時は引き返してもいいですよ」と、私の不安を気にも留めない。私の為に計画してくれたこの山行、断るわけにはいかない。

 当日は絶好の登山日和、WさんとベテランのKちゃんの3人だ。私は両手にストックを持ち、荷物もなるべく少なくして、二人についていく。
 今日はたまたま、中学校の友人の息子さんたちが企画した「那岐山トレイルラン」の第一回目、のぼり口が47キロベテランコースの中継点で、ボランティアをしている彼女に出会った。
 10回目の登山だというと、「頑張って!」とエールをくれる。

 登り口で、「ノリウツギ」という札のある大きな木があり、葉っぱの上に白い小さな花をのせて、その周りに今日羽化したかと思える夥しい数の白い蝶が舞っている。ノリウツギの木を初めて見た。
 熊谷守一の「ノリウツギ」という絵は、緑色の画面の中に白い小さな花と白い蝶が描かれている。この蝶は特有のものだろうか。彼が描いたのはこういう情景だったのだと初めて知った。
 
 タニウツギもピンク色の花が可愛い。
足元に花びらのようなものが落ちているのに気がついた。見上げると、更紗ドウダンツツジが、鈴なりになってぶら下がっている。ちょうど今が盛りだ。
幻になりつつあるササユリのつぼみにも出会うことができた。

 9合目辺りからは、森林限界を超えて、一面クマザサに覆われ、一気に視界が開ける。
頂上に近い場所に広い原っぱがある。
 この地方の民話で、「さんぼ太郎」という大男がこの山に腰を掛けて、瀬戸内海で足を洗ったという。
 太陽はさんさんと降り注ぎ、風がさわやかにわたって、下界を見下ろしながら深呼吸。天空の楽園、私の大好きな場所だ。私が死んだら遺灰をここに撒いてほしいと、ひそかに願っている。

 頂上まではあと一息、ふーふー言いながら登る私にベテランの二人は歩調を合わせてくれて、3時間かかってやっと頂上に着いた。
那岐山1255メートルの石碑の前で写真を撮り、Wさんが持ってきた100円ビールとロールケーキで乾杯した。

 下りは私の大の苦手、いつも足指のつけ根が痛くなる。
 Kちゃんは「足の指に力を入れて、足の裏全体で大地をつかむように」と歩き方を指導してくれた。WさんとKちゃんは5月に行われた「岡山備前100キロウオーク」を完歩したつわものなのだ。
Kちゃんのアドバイスを心にとめつつ、一歩一歩ほんとうにゆっくり注意しつつ歩いた。

 那岐山は中国山地の一部、さすがに山が深くて、スギやヒノキの大木がまっすぐ上に伸び、見上げると葉っぱの間から青い空が透けて見える。この森閑とした空気感はここでしか味わえない。まるで自分がそのまま自然に溶けてしまいそうだ。
 もうここへ来ることはないかもしれない。この感覚をしっかり覚えておこう。

 人はなぜ山に登るのだろうか。
私の場合は「自然と一体になれるから」。
大きな自然に包まれ、眼耳鼻舌身意、感性のすべてを駆使して自然を感じ、そして自分を見つめる。頂上よりも途中の経過が好きだ。人生に似ている。
 帰りはなぜか内省的になり、何かを自問自答しながら、歩いている。

 スタートして6時間かかって駐車場にたどりついた。まさかできると思っていなかった10回目の那岐登山。
 二人のサポートのおかげで、達成することができた。
 Wさんの強引さのおかげ、Kちゃんのさりげない、しかし確かなアドバイスのおかげ。
 あらためて「ひとの絆」のすばらしさに、心がいっぱいになった。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?