おらんだのうま

           (2020、10,4)

 楽しみで毎日見ていた朝ドラの再放送が終わった。
「はねこんま」(1986年放映)、福島出身で明治から大正にかけて、女性新聞記者の草分けとして活躍した磯村春子がモデルだそうだ。

 元気いっぱいの主人公おりんは初々しい斎藤由貴、夫は渡辺健。
戊辰戦争で心の傷をおった父親は小林稔恃、相馬の生まれで朴訥だが芯の強い母親は樹木希林。
祖父母は山内昭と丹阿弥谷津子。そのほかそうそうたる芸達者たちが脇を固め、今から34年前のドラマは実に見ごたえがあった。

 時代設定は明治23年から大正元年。たぶん二本松藩の下級武士であった小林稔侍が禄を失って落ちぶれて、相馬に流れてきたという状況から見始めた。

 まず目を見張ったのは、とうとうたる見事な会津弁だ。
丹阿弥谷津子の上品な福島なまり、樹木希林の少しやぼったい、しかし気持ちのこもった福島弁。かと思えばやたら威張って命令しかしない小林稔侍と、若くてぴちぴちした斉藤由貴。それぞれじつに個性的で、どの場面も生き生きしている。

 明治という時代は私にとってなかなか想像しにくい時代だが、若いころ読んでいた本はほとんどこの時代のものだ。なんとなく心に描いていた場面がリアルにテレビ画面によみがえったような気がする。
 
 職業婦人として働きだしたおりんと夫渡辺健、その代理戦争を小林稔侍と樹木希林が演じるところがあり、両方の言い分が絡み合って、実に面白かった。そうだ、そうだ、ある、ある。

 一家のあるじとして不甲斐なさをかこちながら、男としてプライドばかり高い父親、その夫を必死で支える妻、息子をあくまで信じて今の苦労をいとわない祖父母。そんな中で、なんとなくおかしいと思いつつ、家族の愛情に包まれて育つおりん。
 
 画面の中で、見ているとおかしくて笑ってしまうほど、父親が突っ張っている。というより、そのようなモデルしか教え込まれていなくて、本人もそんな自分を持て余していたのかもしれない。
 女たちは、そんな男どもを掌の上で転がすように上手にあしらう。

 今では信じられないほど、当時の日本社会は家父長制度が支配していた。
長幼のけじめがはっきりしていて、一家のあるじがすべての判断を下す。女子供に発言権はない。すべての人が自分の立場と役割を自覚しているのだ。
とくに会津ではその傾向が強かったのかもしれない。
 (今は家庭内でそのような状況はほとんどなくなっていると思うが、組織の中では、そのような風土が残っているかもしれない)
 
 おりんが記者になりたてのころ、津田塾を作ったばかりの津田梅子に出会う場面があった。
そこで梅子はおりんに「all-round woman」という言葉を使った。
 感動したおりんは家に帰って母親にその話をする。
母親役の樹木希林は「おらんだのうま?」と聞いて少しも意味が伝わらない。笑ってしまった。

「all-round」という言葉を久しぶりに聞いた。
 私が津田塾に在学していたとき学長は藤田たき先生だった。でっぷりと太って、身なりも構わず、気さくで明るい人だった。
 何かあるたびに「all-roundな人間になるように」と言って私たちを鼓舞した。私も聞きなれないその言葉にすっかり洗脳されて、「all-roundな人間」になりたいと思った。
「all-round」な視野を持ち、「all-round」な価値観を知り「all-round」なものさしを持ちたい。
 
 人は何かで人間を測るけれど、それは長さを測る巻き尺ではなく、重さを量る秤でもない。持っているものの嵩でもなく、立場の強さでもなく、もっといろいろな能力に目を注ぐこと。それぞれの人のそれぞれの個性に、気を配ること。

 イメージとしては「ガサガサのうにの殻」である。みなそれぞれで、比べようがないのだ。
 人を見るとき、「ガサガサのうにの殻」が頭をかすめる。そうだ、みんな違ってみんないい。
 そのうえで、私はどうバランスをとるかを考える。
かっこいい「うにの殻」になりたいものである。 

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