あれから10年これから10年(続)

          (2019,3,20)
 夫は50年前に医学を学び、「医は仁術なり」と教えられ、最高の医者であろうと、誠心誠意患者に寄り添ってきた。
徹底的に自然分娩にこだわり、休日でも夜間でも呼ばれたら飛んで行く。誰にでも気やすく声をかけ、若い妊婦さんと冗談を言い合う。
「よく説明してくれる」「よく話を聞いてくれる」「どんなことでも相談できる」。産婦人科だけに、言いにくい話も「井上先生には話せる」と患者さんには大人気だった。
 富にも名声にも無関心、お金には全く頓着なく、医師会では下働きはしても役にはつかない。採算を度外視して手作りのおいしい給食を提供し、分娩費用はどこよりも安い。
職員にもどんなに不況の時でもお産が減っても、給与もボーナスもたっぷり出してきた。それらは苦しみではなくて、夫の喜びであり、生きがいであり、彼のアイデンティティそのものであった。
 夫は全責任を負い、彼の一存ですべてが決まり、職員はただそれに従うだけだ。すべてのお産に立ち会うことを自分に課して、無理を重ねる夫に
「もっと自分を大切にして!」と何度懇願したことか。
 24時間待機態勢であったから、ゴルフや旅行に行くより、家で好きな音楽を聞き、本を読み、畑をいじり、キッチンで好きな料理をすることが楽しみだった。最高の材料を使ってのビーフシチュー、タコのやわらか煮、季節限定のいかなごのくぎ煮、サンマの旨煮は絶品で、山ほど作って皆に振る舞った。そんな生活が開業以来38年間続いている。
 
 しかし時代は移り、世の中のシステムは進化し、患者の意識自体がずいぶん変わってしまった。3Dの超音波の胎児の写真を見て大喜びする妊婦さん、帝王切開でも無痛分娩でも、昔とは違っている。
「赤ひげ」を自認していても、ここは「小石川療養所」ではないのだ。
 夫は自分の裁量で何でも決め、規則などあってないようなもの。それも患者さんのためとなると、誰も何も言えない。
息子は「うちの危機管理はどうなっているの」とぼやき、15年間大学病院で学んできたこととの落差に唖然とした。
 一方、頼りない息子に何とか自分の持っているノウハウを伝えたいと待ち構える夫は「セイジが何も相談してくれん」と不満をつのらせ、息子は「何も相談すること、ないし」とつぶやく。
 30年の年の差、医学の常識の変化に、私はただおろおろするばかりだった。
「私は医療のことは分かりません。お父さんのやり方もセイジのやり方も、どっちも正しいと思う。でもこれからセイジがやっていくのなら、セイジに任せましょう」と言ったら、それが気に入らなかったらしい。
 でも二年目になると、息子の実力がだんだん分かってきたようだ。「なかなかやるもんだ」
息子は夫の知らないところで技量を磨き、力をつけていたのだ。
 
 夫の方はというと、ワーファリンの服用でたびたび出血し、夜中鼻血が止まらなくて救急車のお世話になった。熱中症をおこして、「命に関わりますよ」といわれたこともある。間質性肺炎のためのステロイドでいろんなデータが亢進し、特に抗がん剤のアバスチンのせいで手足の指先が痺れ、感覚がなくなっていく。これは産婦人科医としては致命的なことだった。
それでも毎日、病院に行ってⅡ診の主になる。「そろそろやめてもらった方がいいんじゃないの?」と、周りの人がささやく。
 
「大先生は、これから午前中だけの診察にしてください」と言われたことは大きなショックだった。体調のことや全体的な視点から見て当然の判断だったと思うけれど、夫にとってはとてもつらいものだったのだ。
午後は炬燵にあたって、「鬼平犯科帳」や「相棒」の再放送を見たり、落語のCDを聞いたり、時には台所に立つことはあったが、もう畑仕事は無理だった。
私は気分晴らしにスーパーや道の駅に連れ出すのが、精いっぱいだった。
人好きの夫は生まれて初めて「孤独」と「疎外感」を味わっていたのだ。
 
3年目、新しい体制もようやく整ってきた。息子と一緒に帝王切開などして、その実力が分かってきたらしい。やっと「任せても安心」と思ったようだ。
時を同じくするように夫の体調はどんどん落ちていく。
「手足がしびれて感覚がないんだ」「息が吸えないよ」という。見ていても苦しそうだ。
私はむくんだ足を時間をかけて擦る。
それでも午前中は病院に行き、白衣を着て診察室に収まる。そうしている方が気がまぎれるのかもしれない。
 
 最期の最期まで医者であり続け、専門医会から帰って倒れ、入院。酸素マスクが離せなくなった。私は急いで親しい人たちに連絡をした。
長男から「早めに仕事をかたづけて、いつでも動けるように。もう何が起こってもおかしくない」というラインが来た。子供孫全員が集まり、「早くよくなってね」と一人一人手を握ってあいさつして別れた翌日未明、旅立っていった。入院して十日目だった。
 在宅酸素を用いながら、仕事のことを忘れて、ゆったりと穏やかに過ごす悠遊自適な生活を夢に描いていた私には、本当に突然の別れだった。
 
 次の日から怒涛のような日々が始まった。
何事も完ぺき主義で、落ち度なく運ぶことをモットーにしていた夫だったので、気を張って頑張ろうとする私を三人の子供が本当によく支えてくれた。力になってくれた。
 四国松山に住む長男は見事に喪主の役目をはたした。お通夜では、信じられないほど多くの人々がお参りにきて、夫を偲び、その死を悼み、心からの涙を流してくれた。式場に温かい不思議な空気が流れた。こんな雰囲気のお葬式は今まで経験したことがなかった。
こんなにも沢山の人がお父さんを慕ってくれていたのだ。こんなにもたくさんの人に愛されていたのだ。そう思うと、お父さんはあれでよかったのだ、最後までお父さんらしかったのだと、心に納得するものがあった。
 医者として自分らしさを貫いた生き方、あれ以外の生き方はなかったのだ。好きなことだけをして、私を残してさっさと逝ってしまった。
 
 葬儀の片付け、喪の挨拶、香奠は辞退したのでいくらか助かった。
以前から夫婦で考えていたお墓の移設も、長男を表に出してやりとげた。
私が携わっていた仕事の分担は、極力シンプルに分かりやすくまとめて、お嫁さんに引き渡した。期限の決まっている相続も、税理士に相談しながら考え抜いて決めた。
 
 大きな片付け仕事に目鼻がつくと同時に、虚無感に襲われた。
私一人だけ空虚な異次元の世界に投げ込まれたような気がした。他の人たちが、今までと同じ普通の暮らしをしているのが不思議でならなかった。
時間があっても、何をする気にもならない。テレビで、ニュースの繰り返し、ドラマの再放送ばかりを、ぼんやり見ていた。
 
 それから三年、眼の前のことをやりながら、やっとここまで来た。
私は運命に導かれるように京都造形芸術大学に入り、卓球を始め、コーラスの仲間にも入れてもらった。
 今は夫のことを思い出しながら畑仕事をしている。
初めて会った時、彼は眼を輝かせて自分の仕事のことを話す、まるで夢を語る少年のようであった。私もその夢を一緒に追いかけてみようと思った。
苦しいこともいっぱいあったし、楽しいこともいっぱいあった。おいしいものもいっぱい食べ、沢山の人に出会うことができた。
医療の現場でとんでもないことや、芝居じみた事件や、人間がらみの悲喜こもごもの出来事を、私もそばで見せてもらった。そしてお互いしっかり向き合い、ギリギリまで頑張ったと思う。
 
あれほど心配だった次男も今では、6人の助産師を使い夫の頃よりはるかに多い年間400件近いお産をこなしている。気が向くと、ふらりとペットボトルの水と花をもってお墓に行くという。今になって、お父さんと二人きりで話したいことがあるのかもしれない。
 
 さて、これからである。これから十年何事もなく過ごせるとは思えない。
どんなことが起こるか、年齢の壁もある、身体的変化もあるだろう。社会情勢だって変わるかもしれない。
 それは想像して待ち構えても仕方ない。そうなったときに考えるしかないのだ。
 ただ、命に限りがあることだけは身をもって教わった。
そうであるならば、今この時、二度とない今日という日を、いとおしんで大切に生きるより方法はない。
ぐずぐずしないで、人生の宿題を片付けよう。 

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