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花様年華THE NOTES⑦



ナムジュン
21年12月17日


早歩きをしていた
足取りをゆっくり緩め
やがて立ち止まった。

バスさえあまり通らない
田舎の村の明け方。

夜通し降った雪に
村は白くかすんで輝いていた。

木々は白く巨大な獣のように
たたずんでいたが
風が吹くたびに毛をなびかせた。

振り返らなくても分かった。

村を横切るのは
俺の足跡しかなかった。

靴底が破れたスニーカーのせいで
とっくに足が濡れていた。

神が俺たちを寂しくさせるのは
自分自身にたどり着かせるためだ。

そんな言葉を聞いたことがある。

寂しいかと言えば
そうではなかった。

これは俺にたどり着く道ではなく
俺自身から逃げる退路だった。

俺たちの家族が
この村に流れ着いたのは
秋のことだった。

いくつかの都市を転々とする間
荷物は減りに減って
今では小型トラック1台あれば
どこにでも行けた。

住まいを決めるのに
条件にこだわっている立場ではなかった。

1つ、または2つ
条件が揃えば俺たちは動いた。

1つは父の病院で
もう1つは高校も
卒業していない俺を
使ってくれる職場だった。

その点でこの村は
申し分ない所だった。

1日に2回停まるバスが
近隣の郡立病院を通り
村の後方の川沿いに
飲食店が立ち並んでいた。

川で獲れる雑魚で
スープを作ったり
天ぷらを揚げたりする店は
夏が繁忙期だと聞いたが
近隣の都市から水遊びに
訪れる人出もかなりの数になり
尾根の上のサービスエリアが
ある村からは出前の注文が多かった。

川が凍る冬には、夏の間に
獲っておいた魚で商売をした。

夏ほどではないにしろ
出前の数は相当なものだった。

その出前こそ俺にできる仕事だった。

もちろん、ここにも競争はあった。

ほとんどが農家の人たちで
それほど裕福な家はなかった。

出前は村の若い子たちにできる
唯一のアルバイトだった。

店の主人たちは競争をさせた。

「俺の店の出前は
  俺の気に入った奴を使うんだ」

未成年であることも
免許がないことも問題にならなかった。

以前から出前のアルバイトを
していた同年代の子たちは
他の子たちをよそ者扱いした。

せいぜい2、3人ほどだったが
どこで覚えたのか、新入りは
名乗って挨拶しろと脅しをかけたりもした。

冬休みになると、競争は
もう少し激しくなった。

俺たちは誰にも頼まれていないのに
自ら探して雑用をしたり
ゴミを片づけたりもした。

店の主人の黙認はむしろ
けしかけているのに近かった。

面白いのは、そんなふうにある程度
時間が流れると、妙な絆が生まれたことだ。

競争を基本にしているが
相手への憐れみもあった。

姿が見えなければ気になった。

高校の倉庫の教室で過ごした
時間を思い出すこともあった。

本当にユンギ兄さんの
ような奴がいるかと思えば
どこかジミンのような奴もいた。

時々、こんなことも考えた。

もし、あの学校の友達と
この田舎の村で出会っていたら
競争し合い、勝ちたくて
先頭に立とうとしただろうか。

ここの同年代の子たちと
あの学校で出会っていたら
友達になれただろうか。

雪が降ったのは
そんなふうに競争と仲間はずれ
不思議な連帯感が最高潮に達した頃だった。

たちまち競争の熱が冷めた。

サービスエリアのある村に
行くにはスクーターを
運転しなければならないが
雪の降った山道に軽量バイクは危険だった。

出前にはスクーターを利用した。

サービスエリアのある村までは
曲がりくねった坂道だった。

そこを歩いて上ることはできなかった。

最終的に競争は俺と
"テヒョン"の2人に絞られた。

"テヒョン"は俺より2つ年下で
村の郊外、果樹園の境目辺りに住んでいた。

"テヒョン"は本名ではない。
そいつの名前はジョンシク
またはジョンフンだったと思う。

でも、そいつに会うたびに
"テヒョン"を思い出した。

バカっぽく笑うとか人がよすぎて
誰にでも心を許すといった
タイプではなかった。

どちらかと言えば
世の中に刃を向け
怒りに燃えていた。

その姿はユンギ兄さんに
似ているように思えたが
なぜか妙にテヒョンに近かった。

そんな"テヒョン"と俺は
危険を顧みず、サービスエリアの
村に出前に行くほど貧しい2人だった。

あの日もそうだった。

店に注文の電話が来た時
俺は川辺をぶらぶらしていた。

午後から大雪だという予報が出ていて
周囲には誰もいなかった。

"テヒョン"が現れたのは
それからほどなくしてだった。

普段とは違い、店に行って
無馱話をする代わりに
"テヒョン"は橋の近くにしゃがみ
そのまま黙っていた。

こんな日があった。

"テヒョン"が顔に傷を作って現れる日。

目が真っ赤で、裾に血が付いている日。

何があったのか。
誰に殴られたのか。
俺は聞かなかった。

雪が降り出したのは
まだ料理を待っている時だった。

冷たいものがうなじに
当たったと思ったら
すぐに雪が降り出した。

「出前に行けるか?」

店の主人が顔を突き出して聞いた。

"テヒョン"がその場から
勢いよく立ち上がった。

俺も主人の方を振り向いた。

「もちろんです」

2人が同時に言った。

「あんな空は雪をどれくらい
  降らすか、分からないな」

店の中にいた誰かが言った。

「今、降り始めたから
  すぐに行ってくれば大丈夫ですよ」

俺の答えに主人が何かを
察するような表情でじろじろ見た。

「でも、お前はまだスクーターに
  慣れてないだろ」

すると"テヒョン"が近づきながら
俺は何度も行ったと言った。

主人は"テヒョン"の
顔を見ると舌打ちをした。

「お前はダメだ。
  帰って休め」

俺はタイミングを逃さず、主人に言った。

誰にでも初めては
あるものではないかと。

今日は雪の中を出前に
行く初めての日で
俺は注意深いことにかけては
誰にも負けないのではないかと。

主人が言った。

「入れ。出前の注文が
  多くて何回か往復しないと
  いけないから気をつけろ」

店の中に入っていく間もずっと
背後から"テヒョン"の視線を感じた。

料理を包んで岡持ちに
入れている間も"テヒョン"は周りを
うろついていた。 妙なことだった。

"テヒョン"はプライドが高い方だった。

さっと振り向くと
"テヒョン"は話しかけるように
近づいてきたが、また戻っていった。

店の主人は雪道の
運転について小言を並べた。

俺は適当に聞き流したが
ずっとうなずきながら
分かったと言った。

スクーターに乗るのは
それほど集中して計算して
緊張するほどのことではなかった。

予想に反して、雪の降る坂道を
上るのは容易ではなかった。

雪はまだ積もっていなかったが
降りしきる雪に神経を研ぎ澄ました。

古いスクーターは
苦しそうに坂道を上った。

まるで自力でスクーターを
引いて上っているようだった。

寒気とは関係なく
汗が出て、体に力が入った。

汗が引く間は
背中と腰がぞくぞくした。

俺は心の中で繰り返した。
秋の間ずっと、そして冬が
始まった後も特に問題なく通った道だ。

まだ雪が積もっている
わけでもないし、滑りもしないと。

スクーターが為す術もなく滑ったのは
3回目の出前を終えて下りてくる時だった。

少しずつ自信がついたのか
雪道も大したことないと
思っていた矢先だった。

雪が降り始めてから
かなり時間が経っていた上
行き交う車もなく
あちこち雪の積もった所が多かった。
しかし、まだ道の真ん中は
大丈夫だったし、急勾配でもなかった。

ところがある瞬間
後ろのタイヤが滑るようにふらついた。

驚いてブレーキを強く握った。

ぎゅっと握り過ぎたかな。

そんな考えが頭の中をよぎった。
そうしたらダメだと
言われた気がするけど。

うわの空で聞いていた
店の主人の話がとりとめもなく浮かんだ。

スクーターは瞬間的に
制御力を取り戻したようだったが
息をつく間もなく、またタイヤが滑った。

すると次の瞬間
俺は道路に投げ飛ばされた。

スクーターが思いきり
はじき返すように地面を転がった。

スクーターはひとりで
道路を滑り下りていった。

そして何かにぶつかったのか
ドスンという音が聞こえた。

パッと立ち上がった。

どこが痛いのか、どこをケガしたのか
じっくり確かめている余裕はなかった。

道路の右側にある木の根元に
倒れているスクーターに向かって走った。
車体の上に木の葉が落ちていた。
起こしてみると、車体の下の方に
深く引っかいた跡がはっきり見えた。

キーを挿して回した。

エンジンはかからなかった。
うなじをつたって汗が流れ落ちた。
全身がビリビリしびれた。 怖気づいた。
賠償する金はなかった。
もう一度、キーを回しながら
エンジン部分を足でガツンと蹴った。
カタカタと音を立てて
エンジンが回ったかと思ったが
すぐに止まってしまった。

悪態をつきながら、
ぎゅっと目をつぶった。
足で地面を蹴って背を向けた。
キーを握った手がぶるぶる震えた。
両親と弟の顔がよぎった。
気持ちを落ち着かせようと空を見上げた。

拳をぐっと握っては開いた。
もう一度、キーを回した。

エンジンがかかったのは
そんなふうに3、4回
繰り返した後だった。

スクーターは死んでいく
動物のような音を出しながら生き返った。
俺はその場にしゃがみ込んだ。
急に全身の力が抜けた。

しゃがんだ時の視線が届く先に
引っかかれた跡があった。

勢いよく立ち上がり、スニーカーで
引っかかれた部分を強くこすりまくった。

古いスクーターだった。
擦れたり裂けたりした箇所が
すでに無数にあった。

主人は気づかないかもしれない。
体を起こすと、足首がずきずき痛んだ。

やっと体の状態を確かめた。
幸い、大きなケガはないようだった。

左のくるぶしの上の辺りが裂けて
血が出ている程度だった。

ひと晩、寝て起きたら
太ももや腰が痛むようにも思えたが
それくらいは経験済みだった。

"テヒョン"は、俺がスクーターを
止めて店に入る様子をじっと見守っていた。

ひょっとして勘づいたのだろうか。
俺は神経を尖らせたが
何事もなかったふりをして
さらに大声で主人に話しかけ、無駄話をした。

次の出前の注文がすぐに入った。

俺は体が温まらないうちに
また外に出なければならなかった。

「あのさ······」

スクーターの方に向かおうとすると
"テヒョン" が一歩近づいて言った。

もしかして引っかかれた跡に
気づいたのだろうか。

俺は先に大声で言った。

「何だよ」

ぐずぐずしていた"テヒョン"が
やっと口を開いた。

「頼みがある」

「頼み?どんな?」

電話の着信音が鳴ったのはその時だった。

俺は"テヒョン"の話を
手のひらで遮り、背を向けた。

母からだった。

父が1人で外に出かけて、転んだから病院に
連れていかなければならないと言った。

ぎゅっと目をつぶった。

怒りがこみ上げてきた。
歯を食いしばった。

腹の底から苛立ちがこみ上げた。
もはやすっかり大きな
かたまりになった雪片が
バサバサと顔に落ちた。

こんな天気でも出前に行き
わずかな金を稼ごうと坂道を上り下りした。

ケガをした足首がずきずきして
太ももがひりひり痛んだ。

それでもまたスクーターに
乗るために出かけるところだった。

そのわずかな金が、俺が今日
稼げる全てだったからだ。

1人で動こうとした
父の気持ちが理解できないわけではない。

それが家長としての
最低限のプライド
親としてのささやかな面子だろう。

しかし、貧しさの前で
そんなことは贅沢だ。

面子、プライド、正義感
道徳心はほとんどの場合
さらに大きな負担
さらに大きな支出につながる。

目を開けると
"テヒョン"が俺を見ていた。

俺は"テヒョン"に
スクーターのキーを渡した。
病院から戻り、再びバス停に降りた時は
すでに日が暮れた後だった。

雪片は大きくなり
やがて大雪になった。

バスはのろのろと這うように動いた。

病院に行ってくるのに
普段より時間が2倍かかった。
父をおぶって家に帰る途中
誰一人、傘を差してくれる人はいなかった。

すぐに頭が濡れ
父を支えている手は冷たくかじかんだ。

土手を通り過ぎ、ケヤキの木の下で
少し立ち止まった。

息を整えながら顔を上げると
村の全景が目に飛び込んできた。

雪に覆われた村は静かで平和に見えた。

あちこちの窓から
黄色い明かりが漏れていた。

ご飯のにおい、チゲのにおいに
腹が減ってきた。

橋を渡り、路地に入ると
前の家の犬が吠え出した。

この町内に根を下ろして
すでに数か月が過ぎたのに
犬は俺を見るたびに吠えまくった。

ドアを開けて入ると
母がパッと立ち上がった。

「これから3日間は通院して
  治療を受けないといけないって」

父を寝かせて外に出た。

雪は依然として小降りになる
気配が全くなかった。

「お前たちは、なんでそんなに
  俺が嫌いなんだ?
  さあ、その理由でも
  聞かせてもらおう」

必死に吠えまくっている犬に向かって
俺は大声を張り上げた。

"テヒョン"の事故の
知らせを聞いたのは
翌日になってからだった。

翌日、川辺の店を訪ねた時
主人は警察と話をしていた。

無意識のうちに足が止まった。

警察が来たのは
俺のせいだと思った。

前日、滑った拍子にスクーターに
大きな傷ができたせいだろう。

未成年、無免許をはじめ
いくつものことが問題に
なるだろうと思った。

家に帰ろうか。

しかし、まだバスが
来る時間ではなかった。

具合の悪い父を連れて
逃げる手だてが思い浮かばなかった。

「聞いたか?」

振り向くと、隣の店の主人だった。

"テヒョン" の事故が起きたのは
出前を終えて下りてくる途中だったと言う。

遺体は通りがかった車に
発見されるまで3時間以上
放置されていた。

サービスエリアの村の人と
店の主人が電話でやり取りをしたが
誰も探しに行こうとはしなかった。

警察は"テヒョン"の運転が
未熟だったと言った。

ヘルメットをかぶらなかったのは
"テヒョン"の落ち度だとも言った。

今まで 一度も見たことのなかった
ヘルメットが店のカウンターに置かれていた。

主人は出前に行けと
強要していないし
むしろ止めたと言った。

事実だった。

大丈夫、できると言ったのは俺であり

"テヒョン"だった。

近所の人たちもそれぞれ
ひと言ずつ言い添えた。
全員が全員を知っている村だった。

拳を振り回したとか
陰口をたたいたとか
裏切ったとか、良くも悪くも
互いの記憶の1つくらいは持っていた。

"テヒョン"に関する逸話が
せきを切ったように溢れ出た。

"テヒョン"には父親がおらず
母と妹だけだった。

"テヒョン"の母は店の前の
縁台に横たわり、転げ回って慟哭した。

私の息子を返せ、可哀想でやりきれない
悔しくて死にそうだと·····。

最初は近所のおばさんたちが慰めたり
味方をしたり、一緒に涙を流したりもした。

しかし、寒くて日が沈むのも早かった。

夕暮れ時になると
"テヒョン"の母は1人残されたが
普段と変わらず家々の窓から
ご飯のにおいが漂ってきた。

川沿いに立ち並んだ木から
風が吹くたびに雪の塊が落ちた。

そんな中、"テヒョン"の母は
1人で座っていた。

俺はその姿を父の
病院から帰る途中に見た。

無意識のうちに立ち止まり
事故現場を思い出した。

知らせを聞いた後
俺はサービスエリア付近まで
1人で上ってみた。

いつの間にか冷たくなった空気に
吐く息がそのまま凍りつき、道に落ちた。

白い線で描かれた"テヒョン"は
半分くらい消えたまま
道路に横たわっていた。

俺は"テヒョン"の足元に立ち止まった。

雪に濡れた落ち葉が転がっていて
塩化カルシウムの跡がちらほら残っていた。

あそこに横たわっているのは
俺だったかもしれないと思った。

もしあの時、俺が出前に行っていたら
"テヒョン"ではなく俺が行っていたら
俺が死んでいたかもしれない。

そして今、あの縁台で泣いているのは
俺の両親だったかもしれない。

父が続けざまに咳をすると
俺はようやく立ち止まった。

「ナムジュン」

父が俺を呼んだのは、橋を渡り
家に続く路地に入った頃だった。

歩調を緩めると
待っていたとばかりに犬が吠え出した。

父は話を続けた。

弱々しく衰えた声だった。

荒々しく吠える犬の声にかき消され
はっきり聞こえもしなかった。

俺は聞こえないふりをして
そのまま歩き続けた。

その日からさらに1週間が過ぎた。

村はすぐに元の日常に戻った。

"テヒョン"の母が時々
店の前で慟哭したが
一緒に泣いてくれる人はいなかった。

むしろ"テヒョン"の妹に
母親を連れて帰れと
きつい口調でたしなめた。

これはただの交通事故に
過ぎないと言う人たちもいた。
俺は別の店で仕事を始めた。

いや、サービスエリアの村に
行く全ての出前を引き受けることになった。

その後、ひとしきり、さらに雪が降り
道は凍ったり解けたりを繰り返した。

サービスエリアの村からの
注文はだいぶ減ったものの
出前の仕事をしたいと
名乗り出る者は誰もいなかった。

俺は1日に5、6回出前に行き
その分、収入も増えた。

ヘルメットをかぶり
体を保護するサポーターを
しっかり身に着けて出前に行った。

神経を尖らせ
少しもよそ見をせずに前を見た。

昨晚、最後の出前に行った。

その時は最後になるとは思わなかったが
今となっては、それが最後の出前だった。

冬の間、サ ービスエリアは営業をしないが
奥の運営事務室に数人、集まっていた。

サービスエリアを売却する
問題について話し合っている様子だったが
よそから来たのか、見慣れない顔もあった。

料理を下ろして代金を受け取る間
彼らのうちの誰かが"テヒョン"の
事故の話を持ち出した。

よその1人が、雪道をオートバイで
走るのがどれほど危険なのかを
話しながら舌打ちすると
"テヒョン" の話を持ち出した人が
俺に向かって、だから気をつけるに
越したことはないと注意を促した。

俺は心配してくださってありがたい
と言ってお辞儀をした。

しかし、それは本心ではなかった。

冬の坂道がそれほど危険なら
出前を取らなければよいのだ。

「本当に危険なのは何か
  知ってますか?」

よその人がそう言い出したのは
俺が背後のドアを閉める直前だった。

「雪よりも塩化カルシウムと
  濡れ落ち葉です。
  それなりの運転の腕がなければ
  踏んだらすぐに滑るんですよ。
  あの日は雪が降っていたそうですね。
  だったら、きっとそれを踏んで·······」

ドアが閉まり、最後の言葉が遮られた。

俺は誰もいない、みすぼらしい
サービスエリアを横切って歩いた。

軽食を出す狭いカウンターを通り過ぎ
地域の特産品の割引コーナーを
後にして出口に向かった。

一歩ずつ階段を下りた。
気温は氷点下だったが
あまり寒いとは思わなかった。

手にしたキーが空回りして
なかなかエンジ ンがかからなかった。
かじかむ手をぎゅっと握ってから開いた。

古物のスクーターは
カタカタ音を立てながら
エンジンがかかった。

ゆっくりサービスエリアを離れた。

サービスエリアの立て看板のある所から
すぐにカーブが始まった。

右側に大きく回ると
少し直線道路が続くが
また左側にカーブが現れた。

そこが俺の、そして"テヒョン"の
事故が起きた地点だった。

俺は事故現場に
目を向けずに通り過ぎた。

前方を注視するためでもあったが
罪悪感もあった。

生き残ったという罪悪感。

生き残ったことに安堵したという罪悪感。

人前に出られないことに対する罪悪感 。

"テヒョン"の運転が
未熟だったというのはウソで
店で一度もヘルメットを
見たことがなかったと
言えなかった罪悪感。

いや、もしかすると俺は
罪悪感に浸っているふりをした
偽善者なのかもしれない。

"テヒョン"の事故が起きた所。

その場に濡れ落ち葉を
振り轍いたのは俺だった。

意図したことではないが
結果的にはそうだった。

塩化カルシウムを撒いたのも俺だった。

善意だった。

道路が凍らないようにしようと。

いや、その時は次の出前も
またその次の出前も俺が
引き受けるだろうと思っていたから
俺自身のための行動だった。

「本当に危険なのは何か
  知ってますか?」

サービスエリアで聞いた話を思い出した。

「きっとそれを踏んで
  滑ったんでしょう」

もし俺が濡れ落ち葉を片づけていたら
塩化カ ルシウムを撒かなかったら
何の事故も起きなかっただろうか。

バス停には始発を待つ
人が数人来ていた。

俺は特に誰に向けてというわけでもなく
うつむいた後、土の地面を見下ろした。

できるだけ、誰とも目を
合わせないようにした。

遠くから近づいてくる
始発のバスが見えた。
バスがゆっくり止まった。
俺はずっとうつむいたまま
他の人たちの後からバスに乗った。

計画があるわけではなかった。

ある意味、当てもなく
逃げるのに近かった。

母の疲れた顔。
さまよう弟。
父の病気。

日増しに苦しくなる家計。

犠牲と平穏を強要する家族
何も知らないふりをしてあきらめ
適応しようと必死になっている俺。

そして何よりも
貧しさから逃げたかった。

貧しさは多くのものを
ズタズタにして飲み込んでしまう。

大切だったものが
何でもないものになる。

あきらめられないことも
あきらめるようになる。

疑い、恐れ、断念するようになる。

昨夜、サービスエリアを出て
店に寄ってから家に向かった。

その間、誰に会って
どんな話をしたのか
何を考えていたのか思い出せない。

体も心も何も感じないと
決めたかのように呆然としていた。
風が吹いているのかどうか
寒いのかどうか、どんなにおいがしたのか
誰に出くわしたのか、何も感じなかった。

思考も停止したようだった。
俺が誰なのか、これまで何をしてきて
何をしているのか、どんな考えで
生きているのか、全て忘れた
ゾンビのように、俺は機械的に動いていた。

我に返ったのは家に続く路地に入り
犬が吠え出した時だった。

その瞬間、麻痺していた全ての
感覚が一気に甦り、いくつもの場面が
またたく間に目の前をよぎった。

あちこちを転々とした生活
坂道で滑った瞬間、出前の仕事を
もっともらいたくて顔色をうかがったり
競争したり、へつらってペこぺこ
頭を下げたりしたこと
俺をあざ笑った同年代の子たち
制服を着てバスを待っている
同年代の子を遠くからながめたこと。

そんな場面の向こうで
死ぬほど吠え立てる犬の声
威嚇と敵対心に満ちて俺を見ている犬の目。

もうやめろ、俺にどうしろと
言うんだと叫ぼうとしたが、やめた。

父の声を思い出した。

弱々しくて衰えた声。
病院から戻った夜、父が俺に言った言葉
俺が聞こえないふりをして聞き流した言葉。

犬の吠える声の間から
鮮明に聞こえた言葉。

その日以来、今まで何度も
繰り返し考えた言葉。

考えるのを必死に
避けてきた言葉が浮かんだ。

「ナムジュン、行け。
  お前だけでも生きるんだ」

バスが出発した。

あと数時間後には、バスは
ソンジュ市に到着するだろう。

1年前、そこを離れる時
俺は何の挨拶も残さなかった。

そして俺は今、何の予告もなしに
そこに戻っていく。

友達の顔を思い出してみた。

誰とも連絡を取り合っていなかった。

皆は何をして過ごしているだろうか。

まだそこにいるだろうか。

窓いっぱいに付いた
霜のせいで外の風景は見えなかった。

その上にゆっくり指を動かした。


"生き残らなければならない"




……To be continued


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