セクシュアル・マジョリティを考えてみる
1974年生まれの私の幼少期と思春期の世界には、性別といえば「男」と「女」しかありませんでした。
生まれた時にお医者さんが診断してどちらかに割り振って、その割り振りが出生届に、次いで戸籍に記される。私の性別はそうして「女」と書かれたものです。
私の体に備わった生殖腺や生殖器は女性のもので、それらは生物学的・医学的に「正常」とされる範囲内で成長・機能してきました。
周囲からは公私ともに戸籍記載の性別の人として扱われ、その扱いの色々に怒りや不快を覚えることはあったものの、「その性別の人」であること自体は、違和感を感じずに今日まで来ています。
性的な対象は現在までのところ、男性です。
私の性のあり方は、世間の大多数が該当するとされる「マジョリティ」にあたります。
……なのですが、こう書いていても、それが何を意味するのかが自分ではっきり分かっていません。
時代や世代の影響も大きいですが、私は自分自身を「セクシュアル・マジョリティなんだな」と、自覚したことがない。
自分ごととして、「セクシュアル・マジョリティとはなんなのか」を考えたこともなく、言葉で整理しようと試みたこともありませんでした。
このように自分自身を検分し、そのあり方を意識しなくて済んできたこと自体が「マジョリティ」の特徴なのだと、今は知っています。
社会とその構造の中での人間について学び考える中で、マジョリティとはそのような特徴があり、セクシュアリティにおいては私もそれに当てはまるなと自覚しました。
私はセクシュアル・マジョリティである。
今回のエッセイでは、その自覚の先に行ってみます。
自分の「セクシュアル・マジョリティ」としての体験と感覚を思い返し、捉え直し、綴ります。
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