見出し画像

二十五歳 第二の人生が始まる

私は1999年1月生まれで、今年の1月で25歳になった。
25歳にもなると体力の衰えも感じるし、人生への焦りや不安なども感じる歳だ。
焼肉は重いし、コーヒーがないと甘いものが食べられない。
朝まで飲んでいた20代前半の頃が信じられないくらい、今では早く家に帰ってゆっくりしたい。1人の時間が欲しい。
周りの友達は徐々に結婚していき、いつの間にかLINEの苗字が変わっていて驚くし、友達の子供の成長が自分の楽しみにもなっていく。

現在の私はというと、約1年前に正社員で働いていた会社を辞め、そこから1年間リゾートバイトという住み込みの短期バイトを4か所で行ってきた。
福井県のスキー場、軽井沢の飲食店、山梨のホテル、箱根のホテル、それぞれ2ヶ月から3ヶ月ほど勤務をし、友達もそれなりにできた。いろんな職種も経験できた。行ったことのないところにもたくさん行けた。
それまで実家暮らししかしたことのなかった私にとっては、県外で1人暮らしをするということは、新鮮で自由で楽しくもあり、同時に孤独や寂しさも感じた。
地元を離れると地元の良さがわかるというが、それは本当だった。
地元に帰ってくると、その街の道路や空や山を見ただけで、本来の自分に戻れたという感覚になる。
実家で当たり前のように美味しいご飯が出てくることに感動するし、自分の部屋に敷かれた布団で寝る幸せを噛み締めながら眠りにつく。
数年前までは家族と一緒に住んでいることに不自由さや窮屈さを感じていたが、県外での一人暮らしを経験した今では、誰かの足音や扉を閉める音が聞こえることが嬉しいと感じる。私は1人ではない。

箱根での勤務が終わり実家に帰った時には、またそんな平穏な日常が待っていると思っていた。
しかし、先月母が交通事故に遭い、同じタイミングで父が肺炎で緊急入院をした。
母の交通事故は、車が大破し、あばらが折れ、おでこを数針縫うというかなり大きな事故であった。
父の肺炎は間質性肺炎という難病の肺炎で、最悪のケースだと検査結果が出る前に急速に悪化して命を落としてしまうかもしれないという病気だ。
幸い最悪のケースではなく、今では徐々に回復して行ってはいるが、一生治ることのない病気にかかってしまった。
父と母がこんなことになり、箱根で勤務していた私は、家族が大変な時に近くに居られないことにひどく辛さを感じた。
母は最初こそ顔が腫れたりして痛々しい様子だったが、数日経てば元気そうで、体も徐々に良くなっていた。
しかし父はビデオ通話をした時も声はか弱く、衰弱した様子にショックを受けた。
このまま会えずに死んでしまうのではないかという悪い想像に取り憑かれ、父の苦しがっている様子ばかりが頭に浮かんだ。
しばらくは1人になるといつも泣いてばかりいた。

箱根の残りの勤務期間は1ヶ月だったので、予定を早めてもらい地元に帰った。
地元に帰ると真っ先に父に会いに行ったのだが、今でも病院の面会ルールは厳しく、1日15分2人まで。
それでも会って顔を見れたことは本当に嬉しかった。
私にとっての幸せは自分1人で完結することではなく、家族の健康と幸せがあってのものなのだと実感した。
自分がやりたいこと挑戦したいことももちろん大事だが、大事な人の近くにいるということもまた大きな幸せなのだと、もう私は気がついている。

しかし、地元に帰ってきたからといって仕事が決まっているわけでもなく、しばらくは知り合いの飲食点でアルバイトで働かせてもらいつつ、今後についてはゆっくり考えようと思っている。
「第二の人生」といっては大袈裟かもしれないが、仕事や住居などの周辺環境が変わり、これからについて自分の責任で自由に選択ができるという幸せが今の私にはある。
自分にとって大切なものは何なのかを軸にやりたいことやできることを考えながら一つずつ選択していけばいつか何かにたどり着くのではないかと思っている。
毎日に大きな幸せを感じられなくたっていい。辛い日や落ち込む日があったっていい。それを受け入れ前に進めるように、小さな幸せが日々日常に感じることができたらそれこそが幸福なのだと思う。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?