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おれは脚本をどう書いているのか。

 気がつけば、だ。気がつけば2018年も残すところあと一日である。今年もだ、今年もおれは何もやっていない。部屋は散らかり放題、水槽もリセットできず、作りかけのプラモは色を中途半端に塗ったまま。ダメだダメだ、おれは何も

 いや、あった、あったわごめん。脚本書いてた。上演してもらった。たくさんの役者さんがいろんな役を演じてくれた。演出さんともやりあった、完成した舞台の装置と照明と音響に感動した。たくさんのお客さんにも見て感想をもらえた。ありがとうございます。

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 というわけで、本来ならば各々の作品について感謝の意を述べたりしたいのだが、どうにもその辺はうまくまとまらない。ツイッターなら140文字以内だからその中で表現を工夫したり絵を描いたりなどと腕を振るうこともできるのだが、どうにも文字数の制限がないとダラダラ書いてしまっていけない。今もそうだ、ちくしょう、おれって奴はいつもこうなんだ。だというのに過大な評価を得て、いまこうして感謝の意を述べることができる。公園のベンチの下で泣いてない、ありがたいことだ。

 舞台の感想は、会えたら言うよ。その時までお互い健康でいよう。

 今日は寒いから「これから脚本を書こうと思っているが思い通りに書けない、もしくは書いているが、なかなか思った通りの評価を得られない人」に向けた文章を書こうと思う。たぶん「なかなか思った通りの評価を得られない」ってところに関して言えば、脚本と関係ない職業の人にも当てはまるかもしれない。そこまで苦しまずに書けるようになるし、思った通りの評価は(少なくとも最低限は)得られるはずだ。

「これだ」と「いやまて」と「ひょっとして」

 まずは脚本を書き始めよう。登場人物は三人。「これだ」と「いやまて」そして「ひょっとして」。

 まず、言いたいことがある人は「これだ」と言うやつを出す。自分の言いたいことを代弁するやつ、放っておいても勝手に喋るやつ。だいたいの初心者で、脚本を書いて人に見せようなんて魂胆のやつなら、これは書ける。一人称で言いたいことを書けばいい。つまりは君が今読んでいるこの一人称のたわけた文章がそれだ。

 次に、言いたいことがない人は「いやまて」と言うやつを出そう。対象はなんでもいい、とにかく反論をするんだ。「たしかに正義の味方は人助けをしてるかもしれない、だが目の前の一人を助けている間に他の十人が死んだらどうする?」いいぞ、もっとあいつを追い詰めよう。

 そのどちらでもない、という人は「ひょっとして」と言う奴を出そう。そいつはどうも考え方が普通じゃない。「これだ」と「いやまて」が喧嘩をしている間に「ひょっとして」と、まっっったく別の解決法を考えついたりする。

 そう、勘のいい人は気づいたと思うが、これはハリウッド式脚本術の(影響を受けたさまざまにいろいろな)本には必ずと言っていいほど書いてある「テーゼ」「アンチテーゼ」「ジンテーゼ」ってやつを登場人物に置き換えたものだ。なぜ置き換えたかって? 脚本術の本にはだいたいこんなことが書いてある。

己の信じるテーゼに対し、敵対するアンチテーゼを配置し、その二つを対決させて、高次の解決法ジンテーゼを生み出す。それがカタルシスである。

 うん、わかった。では書き出そう。テーゼは、うん、自分の信じることだな、猫は可愛い、それは真実だ、少なくともぼくにとってはそうだ。ということは、アンチテーゼ、つまり敵は猫嫌いの奴だな。そして? ジンテーゼ? うん?

ジンテーゼ?

 確かにカタルシスのある脚本には、このジンテーゼってやつが必ず含まれている。観客として観ているときは、テーゼを信じ、アンチテーゼに脅かされ、ジンテーゼに救われる。このジンテーゼってのを考えつく脚本家はすごい、だってぼくにはいくら考えても猫好きと猫嫌いの対決を解決する素晴らしい考えなんて浮かばないから。

 そりゃ、いきなり浮かぶわけがない。ジンテーゼは偶然や奇跡で生まれたりしない。ものごとを考えるときには、料理を作るときのように、適切な材料と道具と場所、そして時間と心の余裕が必要なんだ。つまり? ジンテーゼを書くためには?

ジンテーゼを先に書けばいい。

 偉大なるジンテーゼを先に書いて、そのあとでアンチテーゼとテーゼを設定すればいい。これなら「どうしよう、思いつかない、おれには才能がないんだ」みたいな苦しみを抱えてコーヒーを何杯も飲む必要がない。いやいや、インチキじゃない、有名な作家だってみんなやってる。
物語の最後に何が起こるかを先に決めるんだ。

 自分の尺度で、最高だと思える「ひょっとして」を書いて、そのために必要な「これだ」と「いやまて」を考える。そうすれば「思いつかないから先が書けない」なんてことにはならない。えっ? そんなことをしたら、登場人物が自分よりも全員バカ、もしくはボンヤリしたのろまになってしまう、って? そりゃ仕方ない、それが身の丈ってものだ。おれたちがいつも思った通りの評価を得られないのは、おれたちが思っているよりも、おれたちはバカでボンヤリしたのろまだからだ。

 それでも、物語を書きたいと、物語を書けば今よりは少しはマシな自分になれるような気がしたんだ。だったら書こう、書かなかったときよりは少しだけマシになった今の気持ちで、ちょっと前のもっとダメな自分のために書こう。そうやって自分の身の丈って奴をしっかり見つめていると、意外と新しい「ひょっとして」がやって来て、新しいことを教えてくれることもある。

「君が猫を好きだろうが嫌いだろうが、猫は何とも思ってないよ」とか。

そして、エピローグ。

そんなわけで、今年も終わろうとしている。物語と違って人生は生きている限り続くが、こうして地球のひとめぐりを区切りに一幕が過ぎる。ジンテーゼを書けたら、あとはそんなに書くべきことはない。来年はもう少しマシな自分になれるだろうか、なんてことを思いながら眠りにつくといい。最後まで読んでくれてありがとう。おれたちの人生が、少なくとも昨日よりはマシになれますように。おやすみなさい。

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