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父の関ヶ原

 伊達政宗がメキシコとの交易を求めて、イスパニア(スペイン)国王やローマ教皇を訪問するために慶長遣欧使節団の派遣が計画されたことは、歴史の教科書でも書かれている通りだ。この仙台藩内で建造されたメイドインジャパンの洋式帆船建造のために、船奉行として選ばれたのが父の先祖であった。歴史に刻まれているファミリーヒストリーは、父にとって大変に強いプライドとなっていたのだ。

 伊達政宗の家臣である支倉常長や宣教師ルイス・ソテロ等が、サン・ファン・バウティスタ号で出帆したのは、関ヶ原の戦いから13年後にあたる1613年であった。

 そんな父を関ヶ原に連れて行ったのは、93歳になり認知症が進む生活が続いている中で、好きな歴史に触れることで思考する能力を回復し、生きる力を取り戻してもらいたいと思ったからだ。すでに歩くことが難しくなっていたので、車椅子で館内を回った。展示されていた武将の鎧などに目を輝かせて見ていたが、関ヶ原の合戦の中にいるような体験ができるという場所では、父の顔はすでに天下を狙う武将になっていた。当時吹いたであろう旋風が父の顔を吹きつけ、椅子から感じる地響きに、本当に合戦に参加していると思わせるくらいな真剣な顔つきで、大画面の敵と対峙をしていたのだ。父は戦国時代にタイムスリップして、馬上で戦いを繰り広げていたのだろうか。


 それから4週間と経たないうちに、母から「今、父が亡くなりました」とLINEのメッセージが入った。


 入院していたわけではなく、事故にあったのでもない。意識のあるまま母の運転する車の座席に乗り込み、そのまま天国に行ってしまった。少食になり体重が落ち、旅立ちの準備に入っていると覚悟はしていたが、もう少し、もう半年でも生きていてほしかったという後悔の念がある。それは父の先祖の伝記を本にし、自身が生きた証として読んで欲しかったからだ。

 父は東京に生まれ、少年期を南樺太で育ち、戦後の混乱期に食べるために親戚を頼っては地方を転々としていたらしい。晩年には、「闇米を運んで生き延びた。生きるのに必死だった。」と父は言っていた。

 波乱の人生を歩んだ父にとって、生きることは生き延びること、それは戦いだったのかもしれない。 


 随分前にアメリカから一時帰国した際に、サン・ファン・バウティスタ号を石巻まで見に行ったことがある。もちろん再現されたものだ。その時には、船の中まで見学することができた。不便なここまで来る観光客も少なく、館内ではほぼずっとひとりだった。父の祖先がこの船を作ることができたからこそ、日本人がアメリカ大陸にまで行けたのだと思うと、ずっとここを離れたくない思いが溢れていた。ふと、船を作った祖先も船に乗って、アメリカに行きたかったのではないかと感じた。なんの因果か、400年以上すぎてから、自分の子孫がアメリカに住むことになろうとは祖先も考えてもいなかっただろう。今では船体が損傷しており、修繕する予算不足のためか解体される運命らしい。父の死と共に祖先を象徴する船も無くなっていくのかと思うと、無念でもあった。


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