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ちぐはぐ学入門 第2回で触れた本のお話。

本を介してあれこれ話す番組「ちぐはぐ学入門」をポットキャストで始めました。


毎週土曜の22時頃より、農家と建築とデザインをして暮らしている中嶋亮二くんとちぐはぐな会話をお届けしていきます。第1回放送分の本の紹介は相方の亮二くんのnoteにて紹介させていただいております。



ちぐはぐなだけあって第二回では早速本の話をあまりしてませんが、一部触れた話について書き残しておきます。

1冊目・哲学の誤配

・哲学の誤配 (ゲンロン叢書) 東浩紀

冒頭に話している「この土地にカオスが少ない」という部分で触れた東浩紀の”誤配”という概念についての追記です。

ゲンロンというメディアと、実践の場所としてゲンロンカフェを主催されている東さん。
”哲学の誤配”の中で東さんは、実践の場としてのゲンロンカフェでは”誤配”=偶然の出会いの中で様々な考えが混ざり合い活発な議論が巻き起こことを想定していたけれど、蓋を開けてみたら次第に予定調和な関係だけが残ってしまい、やがて社員もいなくなり会社が潰れそうになった経験について触れられています。そして現在ではカフェにおいて意識的に”誤配”が産まれる仕掛けを作っているそうです。


この誤配の話は、程度は違えどちまた溢れている”人材”が集まることを前提として作られたハコモノの全体の問題と同質のものだと思います。「こういう人が来たらいい」とか「こういう人が求めてる」というのは、大抵の場合誇大妄想です。そして誰もがこの妄想に簡単に取り憑かれます。それはなぜかといえば、現代はSNSを介して比較的簡単に”気の合う人”と選択的に繋がることが出来るからです。しかし、それはものすごく偏ったもので、しかもネット上での非接触的な関係性での話です。しかし、その経験がある人ほど、実際に箱を作った時にもそれと同質の賛同が得られると誤認してしまいます。実際は足を運んでお金を落としてくれる人は賛同者の半数にも満たないですし、予想していたのとは違う層の人に必要とされることもよくある話です。

考えてみると、優れた人材が”偶然”集まってくることは極めて稀なことで、それと同じように優れた偶然=”誤配”もまた発生し難いものです。
豊かな現代人は”まだ見ぬ偶然の素敵な出逢い”を求めています。まだ見ぬ出逢いとはつまり質の良い”誤配”のことです。知り合いが紹介していた。とか、偶然インスタのストーリーに流れてきたという偶然の物語性=誤配が重要なのです。


”100日後に死ぬワニ”というネット漫画が、電通案件と揶揄されて炎上しましたが、これはまさに誤配=素敵な偶然で見つけた自分だけの物語が、実は電通という広告メディアにコントロールされていたと感じた人が激しい嫌悪感を持ったという一例です。このような嫌悪感は現代の特徴でもありますし、TVもYouTuberでも同様です。やらせやステマは現代では大きな嫌悪感の対象なのです。

しかし、そうなると”誤配を作る"ということは実に難しいものだということになります。意図して作られたものは高度な情報社会の中では簡単に論破されてしまいます。そして、それが綺麗に仕上がっているほど、それが”狙って作られた”と感じた時に嫌悪感があるのだとしたら、そうならないものは一つしかありません。それは”本気で生きてる人間”だけです。「好きで好きで仕方ないから損得を考えず初めてしまった」そんな人はみんな楽しそうに笑ってます。その屈託のない姿に人は惹かれるんです。だって世の中は計算されたまがいものだらけなんですから。

そして、そのような人は周囲に良い”誤配”を産み出す震源地になります。飛騨に足りない”カオス”の正体は、そのような良い”誤配”だと思います。

2冊目・安川物語

個人出版の本でネット検索に引っかかりませんでした。ご興味のある方はやわい屋の私設図書館までお越しください。

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発行日:昭和62年
著者:浅野 吉久
発刊:大進社

自分の暮らす街のことを調べることは、自分の足元を調べることを直接的に指していることですが、それは正史としての事実を調べる行為というよりは、かつてこの場所に様々な事を考え、それぞれの営みをおくった人が確かにここにいた。という現実と向き合うことだと僕はいつも考えています。本業の歴史家ではないので無責任なことを言えているだけですが、僕らはそれぞれが語り部=吟遊詩人でいいと思うのです。脚色された冒険譚を生き生きと語る姿は、メディアが今日ほど多くなかった時代においてどれほどの人々をワクワクさせてきたのか、そんなことを思うとなんとも暖かで愛おしい気持ちになります。

安川物語はもちろん事実を丹念に調べて編纂された本であることは疑いようがありません。その膨大な労力と熱意を前にした時、感嘆と同時に愛おしさを感じる自分がいます。それは一途に愛を貫く人を目の前にした時の「こんなに一つの物事に熱心に打ち込めるなんてこの人は幸せ者だなぁ」と感じる感覚に似ています。

そんなこんなで僕は住んだこともない場所の町史や村史をちらちらと見るのがやめられません。愛しさは伝染するものなのです。

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