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ああ、あれは昭和だったんだね!

朽ちかけた屋根の左下に引き戸がある。開けるのに苦労する引き戸だ。横にはリヤカーが立ててある。商売で使うものだが、子供の遊び道具にもなった。玄関を入ると土間があるのだが、跳ね上げ式の廊下があるので、廊下をおろせば、土間は消える。土間の右側に狭い部屋がある。家族5人が生活している。その奥の左にトイレ、台所があり、右に「工場(こうば)」がある。

父親が鍋一つで「あおねり」という米粉の青いかたまりを作ってから、工場(こうば)と呼ばれ始めたらしい。「あおねり」はとりあえず甘いので、和菓子ということだ。その後は3色団子を人力で作り続けていた。家族全員で「団子さし競争」をしていた。青白赤の順で団子をさしまくるのだ。家族製造の団子は割と儲かったみたいだ。

トイレの手前にある幅の狭い急な階段を上ると、何故か窓の外に小さな鶏小屋があった。祭りの屋台で買ったヒヨコが大きくなったらしい。鶏は日中に大きな声で鳴いた。産んだ卵を一つだけ見たことがある。

2階の部屋の中で、鶏小屋を見ながら、祖父母とその子供たちが暮らしている。どこが誰のスペースか分からない。

祖父母と一緒に二人の叔父と二人の叔母が住んでいた。上の叔父は発達障害なので、近所の子供たちと一緒になって遊んでいた。彼は市電の前にある網に掬われたことがあったが無傷だった。下の叔父から野球を教えてもらった。倉庫で働いていたので、マッチョだった。投げるボールは速かったが、酒癖が悪かった。大みそかの酒の席で祖父と父を筋肉が盛り上がった腕で殴りつけ、父は鼻血を出した。ボクサーは、俺の気持ちはわからん、と叫んだ。彼には賭けの借金があったと、後で聞いた。

上の叔母には中日ドラゴンズ対国鉄スワローズの試合に連れて行ってもらった。家の近くにあった中日球場で、巨大なシャーベットを食べたことを思い出す。試合は14対0で中日が勝った。下の叔母は、地元の商業高校を卒業したことを大きな自慢にして、子供たちに説教した。もっと勉強しなさいよ、と何度も言われたものだ。ちなみに、叔母の高校合格は、祖母の毎日のお祈りのおかげということだ。近所の人と毎日読経する祖母の姿は懐かしい。

家の右隣りには韓国人が家主のアパートがある。6畳一間に3人が暮らす部屋や一人暮らしの部屋があるのが見えた。部屋は、日が差すこともなく、ガスコンロが一つあるだけだった。時々、団子を蒸す音がうるさいと、住人が乗り込んできた。乗り込むと言えば、時々、やくざが一宿一飯の義理を求めてきた。お控えなすって・・・という言葉は何度か聞いた。やくざは饅頭製造業を金持ちと思うらしい。大きな勘違いだった。多分、菓子屋を貸し屋(金融業)と理解したのだろう。

左隣りは老夫婦と息子の家で、奥さんは優しそうだった。そして向かいの家は怪しげなラムネ製造工場だ。三ツ矢サイダーではなく、一ツ矢ラムネを製造していた。儲かっているようで、町内で唯一クーラーがあった。井戸水を使うクーラーから出る冷水が、家の前に置かれた一斗缶に流れ出ていた。子供たちは足を洗っていたが、見つかると叱られた。

家の前はかまぼこ型のでこぼこの道で、子供たちはよく転び、その度、家で赤チンを塗った。道幅は4メートルほどで、乗用車やミゼット(3輪の車)がたまに走った。その狭い道で、野球をした。テニスボールを素手で打つ野球だ。ラムネ工場の横にある家の塀をボールが超えていく度、ボールを返してもらうために謝りに行った。庭の主はひどく怖い顔をしていた。

家の北の方にはいくつか倉庫があり、夜は街灯もなく真っ暗だった。お化けが出るとか、殺人があるというので、夜になると、倉庫の前は全速力で走り抜けた。しかし、誰もお化けを見たこともないし、人殺しは一度も起きなかった。少しだけ、残念な気持ちが湧いた。

パンツ一丁で、近所の八百屋へ行って、パンと棒状のマーガリンを買ってきた時代だった。パンは火鉢の金網の上で焼いた。かまどで、米を炊き、煮物を作っていた。風呂もなく、行水をしていた。団子を蒸した後のボイラーの湯を再利用した。時折、銭湯に行くことはあったが。土間を上げて、トイレの汲み取りをしていた。家の奥から爆弾が出てきて、撤去してもらったらしい。爆弾の代わりに柿の種を埋め、芽が出るのを待っていた。


1964年。小学校1年生だった。
古い小さな黒い机で宿題をやっていた。
下の叔母の机で、引き出しが開きにくいので、ロウソクをこすりつけていた。いつから使っていたのだろう。
机にさえ戦後が残る、日本で暮らしていたのだ。

高度成長期にあった日本。
新幹線の白い車体が高架橋を疾走していくのを見上げた。
オリンピックで日本選手が整然と行進していた。

何もわからず、何も不思議とは思わず、生きていた。
すべてがそういうものだ、と思っていたが、何かが起こるのだろう、と予感だけが幼い心の隅にあった。
このままではないだろう、と白黒テレビの小さな画面を見つめていた。

(続く)

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