見出し画像

OLD FASHIONED -記憶を訪ねて-

4日ほど断続的に降っていた雨がようやく止み、止んだ途端に気温が35度近くまで上がった日だった。暑くなるからよそうかとも考えたが、雷雨や強風で閉じ込められていた数日間の鬱々した気持ちを思うと、どうせ夏は暑いのだからと覚悟を決めて出かけることにした。
行き先は、私が2歳くらいから10歳までを過ごした地だ。幼少期といったら思い出すのはここで、その後再び引っ越した時は小学校高学年で、転校生として苦い思い出の印象が強かったから、余計にこの地での幼少期の思い出が美化されてしまったむきもある。とにかくお気楽で、毎日が楽しかった思い出しかない。
なぜ急に訪ねてみようと思ったのか、実はよく分からない。なにせ50年、半世紀が経っていて、その間一度も訪ねたことがなかったのだ。幼い頃の友だちというのは、本当に狭い範囲の中でのものだし、今のようにメールもなく電話すら滅多にしない付き合いだ。あの頃誰かが引っ越すということは、その日を境にその子は消えてしまう、世界に存在しなくなるという意味に他ならなかった。だから私は彼の地では、消えてしまった子どもなのだ。
実際出かけてみると、子供時代を過ごした場所は記憶していたよりずっと、なんなら毎日でも通えるくらい近かった。ローカルな電車で25分くらい揺られて着いた。当時も今も無人の、小さな駅で降りる。そよとも風が吹かず、アスファルトで舗装された細い道を歩くと、あっという間に汗だくになった。朧になった記憶を頼りにうろつく私は、傍から見れば怪しいことこの上なかっただろうが、日中の炎天下のせいだろう、誰一人として道で出会うことはなかった。
あえなく徘徊を諦め、駅へと引き返した。全てが完全に変わっていたが、この駅舎を出て数メートルばかりだけは、微かに名残を留めているように感じた。もうこれだけでいい、と思った。

私が住んでいた頃、住宅は2軒がひとつの棟で繋がったコンクリートの建物だった。それが何列も建っていて、間の道は全て未舗装だった。低い木の柵には柿渋が塗られていたが、年数が経つとシロアリが這った跡ができていた。ジャングルジムのあった大きな公園では、毎年夏になると櫓を組んで盆踊りをした。大急ぎでお風呂に入ってから天花粉をイヤというほどはたかれ、浴衣を着せてもらって出かけた。夜の公園には不思議な魅力があり、いつもの遊具もどこか違って見えた。
当時は停電はもとより、ちょくちょく断水にもなった。子供でもやかんや鍋、バケツを持って給水塔までもらい水に行った。あの給水塔も見ることはできなかった。駅舎の裏は昔は野原になっていて、子どもたちの遊び場だった。古い線路の枕木などが積んであったから、鉄道会社が管理していた場所なのかもしれない。ここもきれいなロータリーに変わっていた。毎日10円を握りしめて通った駄菓子屋ももちろん、よくお使いに行かされた商店街も姿を消していた。町はずれに在った銭湯も跡形もなかった。
当時10円で買えたおやつは、惣菜屋で揚げていたコロッケ(カレーコロッケは15円)たこ焼きが3個、駄菓子屋のくじが1回分、小さな最中の皮に盛ったわらびもちなど、他にもキャラメルやガムやチョコレートが1個5円から10円で買うことができたから、妥当な額だったと思う。 近所の友だち数人で毎日あれにしよう、これにしようと迷うのも楽しかった。私たち子どもの知らないところで母たちが結託していたのだろう、皆そろっておやつ代は10円だった。それを駅舎裏の原っぱで味わったら、そのままそこで遊んでいた。人数が多ければかくれんぼや鬼ごっこ、ほんの数人ならきれいな石や花をおしゃべりしながら集めたりしていた。 子どもだったせいでそう思えるだけだろうが、原っぱは広くどこまでも続いていて、衝動に駆られて意味もなく全力疾走をしたり、木の枝で高く伸びた草を掃って陣地を作ったりした。原っぱで見る夕焼けは美しかったが、何故だかちょっと物悲しいとも感じた。きっと帰らなくていけない時間が、迫っていたからなのだろう。
グーグルマップで事前に調べていたから、ショックや失望感はなかった。それでもやはり、なぜもっと早いうちに訪ねなかったのか、という後悔は残った。ほんの半日の小旅行の間、まるで夢の中にいたような気持ちになった。

●後記  他所に掲載していた2018/7/13の日記です。写真は上記住宅に越してきて間もない頃のもので、疾走してブレているのが私です。未舗装の小路の消失点に見えるのが給水塔だと思います。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?