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炎舞(2021年度織田作之助青春賞最終候補)

炎舞


 むせかえるような煤と灯油の匂いが、身体の表面を包む度に、後戻りできないことを思い知る。トーチ棒の先端から発せられる熱がちりちりと皮膚を刺激して、私は私の役割を実感する。瞳孔には黒と黒以外の全ての色がまとわりつき、心臓と呼応して拍動を繰り返している。
 熱気も規則的に頬をなぶる。頬の産毛が痺れて歪む。数分前にかぶったバケツ水は、早くも蒸発し始めている。
「火付け練始めまぁす」
 マネージャーの花村東吾はいつもどおり演台に腰掛けて、ビデオカメラと私たちの様子をせわしなく確認する。その姿はほとんどグラウンドの闇と同化している。大気を動かさないように空気を飲み込むと、鼻腔に無数の針が刺さり、その尖り具合に辟易する間もなく、ピアノの音が酸素を絡め取る。軽快であるはずの一音一音が、緊張で痒くなった喉の奥のあたりに響く、とてもよく響く。私は体内のメトロノームと体を対応させながら、火の灯ったトーチ棒を勢いよく振り上げ、練習のとおりに回転させる。
 ごう、ごう、ごう。ごう、ごう、ごう。炎が酸素を切っていく。各人のもつトーチの光は寸分狂いなくリズムを刻み、同じ図形が繰り返し夜空を食う。円、八の字、大円、複雑な曲線と単純な曲線が無限に連なり組み合わさる。
 全員揃っての基本技による前座が終わると、いよいよ「組合せ」とよばれる炎舞が始まる。通常の技に付け加えて、様々な種類のトーチ棒と色めく炎をふんだんに用いた、花形とも言うべきプログラムだ。ゆったりとしたジャズの間奏に合わせて、所定の位置に移動すると、さっきまで微かに見えていた東吾の姿は、すっかり闇に紛れてしまった。
 後輩たちがさっと地面にひざまずくのを見計らって、私を含む三年生五人はグラウンドの中央に飛び出した。普段より二回りも大きなトーチ棒を両手で掴むと、その重さに筋肉がひきつるのを感じた。両手の指に大きな大きな負荷がかかり、いよいよ今日が火付け練なのだと実感する。灯油の染みたタオルはいつの間にか火の塊へと変貌し、存在感と重量を私から奪い続ける。
「三年炎舞! はじめ!」
 炎は想像よりずっと重い。空気を切る度、風の音が辺りにこだまする。その音は、静寂な夜と今この瞬間とを、はっきりと区別している。私の周りに存在する感覚は、音と明かりと熱に集約され、それらが純度を増して揺らめく。絆創膏だらけの指は固く、軍手越しにトーチの熱さが伝わってくる。
「投げてえっ」
 東吾の掛け声と同時にトーチ棒を天高く放る。それはストップモーションのようにぎこちなく横回転を描き、夜空にバウンドした後、速度を増して地に落ちる。私は棒をつかみ損ね、砂と金属が交錯する嫌な音が響く。隕石もきっとこんな風に落ちてくるのだろうか、そう思いながら、脇の方へと移動する。
 次の曲は有名なロックバンドのデビュー曲、蛇のようにうねるベースラインを皮切りに、また一段階テンポが上がる。ソロ演技を担うのは副部長の佐原、両端に緑色の炎が燃えるトーチ棒を器用に回転させながら、難しいステップを踏む姿は、さながら大蛇を操る魔術師のようだった。脇をくぐり足の下を通る彼のトーチに灯った炎を、私は夢中で眺めていた。流石の演技というほかない。彼の運動神経は部員のなかでもずば抜けていた。炎色反応によるミステリアスな炎と相まって、佐原は自らの存在を主張した。さっきまでの集団炎舞と段違いのスピードで。
 拭いがたい心の油染みの存在を無視しながら、続く演技に注視した。まもなく組み合わせ炎舞のクライマックス、私と佐原のペア演技だった。下級生が両脇にはけるのを見届けて、グラウンドのチョークに足先を合わせた。軍手越しでも分かるくらい、両手が小刻みに震えていた。緊張ではなく、恐怖のために。炎はその温度と重みをもって、炎舞の間中、私の心を脅かしてくる。こればかりはどうしても慣れない。両隣でじりじり音を立てる火の塊が、一度でも皮膚に触れてしまえば、激しい苦痛がもたらされる。幾度にもわたる火傷で、その痛みを嫌というほど知っている。
 透明感のある電子音楽が、轟音でグラウンドを支配する。私はトーチ棒を勢いよく振り上げた。炎を見つめすぎないよう気をつけながら振り付けをなぞる。反対側から鏡写しのように同じ動きをしているのは、今さっきソロを終えた佐原である。入学当初から特訓してきたペアでの技は、規則正しく空気を刻む。耳の後ろを何度か炎が掠り、今まで冷えていた後頭部が佐原のトーチによって温められる。この瞬間だ、と私は思う。この瞬間においてのみ、私たちは夜の主役なのだ。
 いよいよ最後の仕上げに入ろうかという瞬間、佐原の黒い瞳が一瞬ゆらぐのを見た。
 私は声を上げようとしたが、熱気を吸い込んでしまったせいでそれは結局かなわなかった。彼がトーチ棒を取り損ねたと分かる頃には、硫黄の匂いが辺りに満ちていた。
 そう、硫黄の匂いだった。炎の塊は彼の頬をかすり、肩の方へ向かい、綿でつくられた真っ黒なTシャツが炎に照らされ、佐原の腕に巻き付いた。それはまるで太いナメクジのようだった。美術の授業で見た映画にこんなシーンがあった気がした。向こう側からバケツをもった下級生が駆けてきて、ようやくことの重大さを認識した。
「いかん、消火器、消火器」
 誰かの叫ぶ声がする。
 東吾がタオルを手にとって、佐原のもとに駆け寄ってくる。私たち部員もそれに続く。長袖の炎は彼の右腕を丁寧に包み込んでいた。決してかぐことのなかったはずの嫌な油臭さが辺りに満ちる。彼の顔はひきつっている、時折浅い呼吸の音が聞こえる。その間も、各人が地面に置いたトーチ棒の先端は、ごうごうと音を立てて燃えていた。空気を揺らして、自らの存在を主張していた。


「大変なことだぞ。分かってるのか」
 名ばかりの顧問の履き捨てた言葉はしばらく教室を漂っていた。私と東吾は思わず目を伏せた。
「あんな大怪我、マスコミのいい餌だ。どうやって説明する? 今も校門の前にテレビ局が陣取っている。危険なクラブ活動について、在校生に問いただすためだ」
「ご存知の通り、佐原はファイヤートーチ部の中で一番経験豊富です」と東吾は言った。「それでも怪我のリスクはあります。リスクのない運動部なんて、存在しませんよ。野球もサッカーも陸上も水泳も、皆危険を受け入れて活動に取り組んでいる」
「ファイヤートーチは運動部ではない」と顧問は吠える。「ただの遊戯、サークルみたいなものだ。連盟の認可もない。履き間違えないでくれ」
 東吾の丸い大きな瞳に影ができる。所在なさげに揺れる右足が、机の縁で静かに止まる。
「とにかく、今後同じようなことが起こらないように気をつけなさい。火をつけた練習は当分禁止。場合によっては、発表自体を中止する可能性もある」
「それはあんまりじゃないですか」
 私が口を出すと、顧問は眉間に皺を寄せた。
「今度同じような事故が起こったら、今度こそおしまいなんだ。それくらい分かってるだろう」
「中止にはさせられません。断じて。ファイヤートーチはわが校の伝統なんです」
「その伝統が、変わりつつある。とにかく、炎を使うのは当面禁止だ。安全が確保されない限り」
 そう言い残して顧問は去った。片付けをしている間、私も東吾も無言だった。
 ファイヤートーチはこの地方において、キャンプファイヤーと並ぶ野外学習の風物詩である。小中学校だけでなく、ボーイスカウトや学童キャンプに至るまで、その都度実行委員会が組まれ、練習に明け暮れている。一歩愛知県の外に出れば、その知名度は顕著に下がる。バトンの要領でたいまつを振り回す姿に、驚く人は少なくないし、実際批判に晒されてきた。本物の炎を青少年が振り回して、危険性はどうするのか。誰が責任を取るのか。人道にもとるのではないか。そういう言葉が頻繁に聞かれる。
 ファイヤートーチは確かに危険と隣り合わせである。しかし、この高校に限って言えば、炎舞を行うのは選り抜きの精鋭たちだ。トーチ憧れて受験してくる生徒は多い。もちろん私もその一人で、炎がなければ生きていけない。朝練、昼練、業後に欠かさず練習を行い、土日も自主的に棒を回す。タイル張りの中庭で、ただ黙々とトーチ棒を操る。日常全ての時間を炎に燃やす覚悟のある生徒だけが、この部活に籍を置くことを許されるのだ。
 だからこそ、佐原の怪我は部員たちに影響を与えた。彼はここ十年で一番の実力者だった。同じ小中で育った私は、誰よりもその力を理解している。
佐原を初めて認識したのも、野外学習のステージだった。ほとんど顔も見えない暗闇の中、火の玉だけが意志をもっていた。流行りのポップ・ソングにまったくそぐわない荒々しいパフォーマンスに、当時の私は恐れを抱いた。
佐原は編成の中心に陣取り、美しい技を淡々と披露していた。彼はその場の支配者だった。足の早い人が運動会でもてはやされるように、水泳の得意な人がプールの授業で見本を見せるように、彼は夜の間だけ光り輝く英雄だった。
「なー、黒板汚くね」
 東吾の声が私を現実に引き戻す。話し合いが始まるまで、どこかの部活がミーティングをしていたのだろう、雑に消された黒板には、総体だとか県新人だとか、青春にまみれた言葉がうねる。私はするどく力を込めて可憐な文字をぼかしていく。

 中庭では一年生が技練を行っていた。完成度は人によって大きく異なる。器用にトーチ棒を振り上げる経験者から、指にできた豆の汁を針で潰す初心者まで、皆一様にTシャツを汗で濡らしていた。
 彼らは東吾を認めると、トーチ棒を下に向けた。
「続けて、続けて」
 東吾は冷たくそう言った。再び動き出した一年生のトーチ棒は、ほとんどがまだ持ち主に慣れていない。腕を伸ばすべきところでたるんでいたり、テンポについていけていなかったり、棒を回しているというより、勝手に振り回されている。私たちは荷物を置いて、特に気になる何人かへ向けて、指と腕の角度や体の向きについて、細かくアドバイスを行った。
 ファイヤートーチ部の主要炎舞は全部で三つ、文化祭と林間学校、そして大須祭りの引退公演だ。林間学校は新入生の通過儀礼で、毎年入部希望者の半数が脱落する。今年は志願者が多い割に経験者が少ない。佐原の離脱はそういう意味でも痛手だった。彼のアドバイスは明快でわかりやすいともっぱらの評判だったからだ。
「もっと走ったほうがいい、朝のランをサボっちゃいけない。体力がないとどうしようもないんだから」
「遅い。炎は待ってくれない」
「火の芯は決して見つめないこと。戻ってこれなくなる」
 東吾の声は日が暮れても止むことがなかった。全員の基本技がある程度揃った頃には、運動部の面々の雑踏が音楽に混じり、夜特有の学校のざわめきが中庭に染み込んでいた。私と東吾は急いで後輩たちに別れを告げ、通用門へと向かった。
 門の前には白地に青い線の入ったジャージ姿の同級生が散見された。皆めいめいに雑談を楽しんでいる。東吾はのれんをくぐるように背中を丸めた。
「ねえごめんね。思ったより遅くなっちゃって」
「別にいいよ、全然気にしとらんわ」
 ジャージの流れが緩んで、東吾の方を振り返る。彼は気づかないふりをして私の肩に手を添えた。そうしてしばらく、蟻のような歩幅でコンクリートの道を進んだ。駅まで延々と続く夜の行進において、私たちの位置は少しずつ後ろの方へずれていった。ほどなくしてジャージが視界から消えた。今、私たちの前には、吹奏楽部の集団がいた。夏にまみれた白いタオルが楽器ケースを覆っている。
「まあ、肩身は狭いよね。推薦枠ひとつ、潰したようなもんだから」
 彼はぽつりと呟くと、普通のスピードで行列に同化した。
 東吾の右足には三本のボルトが埋まっている。彼の専門種目はハードル、陸上の花形種目のひとつで、足の速さと敏捷性はもちろん、歩数調整やペースの配分など細かな戦略も欠かせない。鳴り物入りで陸上部に迎えられ、最初の大会で関節を砕いた。飛ぶことができなくなった彼は、止まり木として中庭を選んだ。
 ジャージの下から時折のぞく手術の跡は蛇のようにうねり白んでいる。私はそれを見るたびになんと言ってよいのかわからなくなる。
「佐原ね、尾頭橋の病院に入院してるらしい。状態自体は落ち着いてて、感染症とかも問題ない」
「よかったじゃん」
「で、お見舞いもじきにできるようになるって」
 私はリュックを背負い直す。
「な、一緒に行こうよ。別に今日とは言わないから」
 私はもう一度、大げさにリュックを背負い直す。鈴の音が微かに響く。
「伝言。伝言くらいあるでしょ」
「心配はいらないから、ゆっくり養生してください」
「時々わかんなくなるんだよね。君らって中学から一緒でしょう。なのに、仲がいいのか悪いのか、互いに意識しあってるのか無関心なのか、よく分からん。……じゃあ、また明日」
 一人になった帰り道、ずっと東吾の言葉について考えていた。私と佐原の関係は、確かによく分からないものだった。周りはよく、ライバルだとか幼馴染だとかいう枠に押し込めようとしてきたけれど、それは全くもって違った。私と彼には圧倒的な差があった。
 どうして佐原だったのか、私は考える。この競技に携わる限り、怪我を完全に防ぐことはできない。それは部員の誰もが理解していることだ。トーチを通じて火を支配したような気分になることもあるけれど、それは結局都合のよい解釈で、向こう側は私たちの存在など意に介さず、ひたすら酸素を燃やし続ける。誰の炎も透き通っており、一見とても綺麗である。けれどもその炎は、建物を全焼させる炎と何も変わりがない。私たちにできるのは、火傷のリスクを可能な限り減らすため、練習に集中することくらいだった。
 佐原があのようなミスを起こすと、誰が予想していただろうか。
 懸念事項はそれだけではなかった。彼の燃える右手と顔を見た瞬間、私は自分自身にはじめて不可解な感情を覚えた。その気持ち悪い感触は、トーチに関わる度に蘇ってくる。私は彼に早く復帰してほしいと思いながら、同時に、二度とトーチ棒を握れなければよいのに、と考えていたのである。

 事故からちょうど三週間が経ったころ、佐原は部活に顔を出した。肌に心地よい風が吹く中庭の雰囲気は、彼の登場によりぴりぴりと痛む熱気に変わった。表面的にやけどした部分は大胆に刈り上げられ、整合性をもたせるために、反対側も同じようになっていた。世界一痛々しいツーブロック。それは彼によく似合っていたけれど、急に何歳か歳を取ってしまったかのようにも思えた。頬の辺りにはまだ水ぶくれの跡が残っており、白いほくろのように見える。綺麗な二重も台無しだった。焼けた側の瞼は、幾度に渡るかさぶたの新陳代謝のせいだろうか、いびつな三重の筋をかたどっている。傷ついたのは顔だけではない。右手の先から手首にかけて、薄い包帯が巻かれていた。黒く厚いサポーターがその周りを覆っていた。私たちはその姿に動揺を隠せなかった。
 定期試験が終わり、いよいよ引退炎舞に向けての練習が本格化すると、技の練習よりもミーティングの時間が増えた。皆で先輩の動画を見て、音楽を解釈し、テンポを体に叩き込む。ひたすらその繰り返しだった。
 火の使用許可が下ったのは引退炎舞のわずか三日前で、私たちは早急に手はずを整えなければならなかった。それと同時に、今回が最後の炎舞であることも通達された。以降の活動は全て蛍光ライトを用いること……配られたプリントの末尾に記されたその文を、どれだけ恨んだか分からない。直前練習の空気は普段の何倍も重苦しく感じられた。
 全ての打ち合わせが終わり、部員は各々の道具をもって帰路についた。マネージャーの東吾だけが音響の調整のために残った。私は久しぶりに一人で帰ることになった。沈黙の通学路は気を張っていなければ何かに連れて行かれてしまいそうな雰囲気をたたえていた。
 公園を突っ切っていこうと足を踏み出すと、暗闇がひずむのを感じ、私はとっさにしゃがみこんだ。遠目で見ても佐原と分かった。彼のトーチ棒の扱い方にはある種の癖があり、暗闇と炎のみの舞台でも他の人と明確に区別される。燐光を放つ彼のスマートフォンは、暗闇のむらを暴き、無人の公園を静かに照らし出す。耳にささったイヤホンは血管のように肩を這っている。
彼はペア演技の部分を入念に確認していた。佐原の腕の動きに合わせて私は私の動作を追いかける。けれども全然駄目だった、彼の炎舞は失速していた。本能的に怪我をかばっているのか、右腕の振りが機械的だった。佐原はとうとう棒を地面に置き、夜空に向けて顔を上げた。
「いるんでしょ。出てきなよ」
 私はゆっくりと立ち上がって、真顔の佐原と向かい合った。彼の顔をきちんと見たのはいつぶりだろう。私はいつも目を逸らしてばかりだった。
「どうして練習してるの」と私は問うた。「もう、出れないんだよ。佐原は。無理しなくていいんだよ」
「そういう問題じゃない。これは、俺の意地」
 唐突に佐原が右手を差し出した。関節の出っ張った細長い指は青白くて気味が悪い。佐原は左手で私の手首を握り、右手の方へ持っていった。手に触れた冷たい感触が彼の表情の意味を解らせた。
「血行障害っていうらしい。毛細血管が駄目になって、感覚が鈍くなって......原因は多分火傷だと思う」
 佐原は素早く目を伏せる。
「先生は、トーチなんかすぐ辞めろって。自分だけじゃない、誰かを傷つけるかもしれない。ずっとそんな調子だった。でもさ、トーチ取ったら、なんにも残らないだろ。今までトーチ以外、何もかも中途半端だった俺が……だから、お願いします。何か役目をください」
 佐原はそう呟くと、ひざまずくというよりは崩れ落ちるように座り込んだ。後頭部には赤白い火傷の痕跡が見えて、まるで乾きかけのボンドのようだった。
「お願いします。俺を信用してください。俺からぜんぶ奪わないでください」
 十年ぶりに飛び出した敬語は震えて掠れて耳に馴染まない。
「きちんとやりとげたいんです」と彼は言った。「信頼してください。もう二度と同じことはしないから。明日だけ、明日だけでいい。俺にはトーチしかないんです。このまま終わるなんて、どうしても……」
 答える前に水が頬を撫でた。持ちこたえていた重い空が堰を切ったように崩壊し、気がつくと雨粒は、無視できないほど大きくなっていた。
「先生が駄目だって言ってたでしょ。もう、佐原一人の問題じゃないんだって。無理なもんは無理だよ。ねえ、立てる?」
「ごめん。みんなに迷惑かけて」
「帰ろ。こんなとこにいたら、冷えちゃうから」
 私たちは一緒に帰った。長い長い線路沿いのアスファルトには弾かれた雨水がそこかしこに水たまりをつくっていて、避けるのにかなり苦労した。お互いがお互いを拒絶し合うように微妙に体を反らせるものだから、内でばらける獅子舞のように不格好だった。
 内側から彼を炙る赤黒い炎と、佐原は必死に戦っている。私は指の感触とその温度を忘れないよう、眠りにつくまで手を強く握りしめていた。窓枠にぽとりと落ちたてるてる坊主が、湿気によじれてくの字に曲がった。
 

 曇天の夜空は煤けた金属のようにむらが目立つ。灰色の雲の切れ端が目の奥に残像を刻む。笛の音に浸った空気が煮詰まり密度を増して、大須観音周辺を覆っている。昼間に行われていたサンバパレードの興奮は過ぎ去り、浴衣姿の若者が小路に溢れて泡をこぼす。黒Tシャツとズボンに身を包んだ部員一行は、私と東吾を先頭として、その群衆をすり抜けていく。炎舞が始まるのは午後八時十五分、出店に寄っている暇はない。
 目的の広場につくと、手筒花火の一段がパフォーマンスを披露しているのが見えた。ねじりはちまきをしめた男性が、胴体の横に細い樽のような筒を構えて、降りかかる火花をものともせず、じっとその場にとどまっている。同類だ、と思う。あの綺麗な火の粉の一粒一粒は、トーチ棒の先に燃える白い炎と同じ温度をもっている。それが粉雪のように降りかかってくるのだ。彼らはいたってすました顔をして、その熱を受け止めていた。
 実行委員会への手続きを済ませると、一斉に炎舞の準備へ入る。ただでさえ見た目の似通った私たちは、バンダナをはめることによって完全に画一化される。炎舞を構成するひとつひとつの部品と化けたあとは、各自の用意したトーチ棒、灯油、バケツ、その他いろいろな物品をステージ袖に運ぶ。
「続いては、毎年恒例ファイヤートーチ部のパフォーマンスです。炎に魅せられた少年少女たちの演舞を、どうぞご覧ください……」
 選挙宣伝車のようなアナウンスを聞きながら、私は考える。今までの練習は、ただこの瞬間のためだけにあったのだということを。膨大な練習時間は、たった十数分のパフォーマンスに燃やし尽くされるということを。
 他の部活と違って、努力の結果を示してくれるような大会も、万が一の際に支えてくれる後ろ盾も存在しない。私たちの努力を評価してくれるのは、目の前にいる観客だけだ。他県の人から好奇の眼差しを向けられ、ことあるごとに外野が危険性を主張する、そういう危なっかしいローカル競技に、人生の半分を捧げている。多くのものを心の中で燃やしてきた人間だけに許される、一瞬の輝きのために、豆を作っては潰している。トーチ棒を握る指と指との間の部分は、本番がくる頃にはぼろぼろになっている。踏みしめる地面は他の誰よりも不安定で、不安定だからこそ、炎はこんなに美しい。
 この明かりは私の、私たちだけのものなのだ。他の誰にも渡すことはできない。
 炎に魅せられたとか、炎を愛する集団とか、そういううっすらした言葉で紹介されるたびに、大きな声で否定したくなる。私は炎が好きではない。部活の全員に聞いても、好きだと答える人はいないだろう。頬をかすりそうになるたびに背筋が凍る。怖くないわけがない。恐ろしくてたまらない。それでも逃げることはしない、なぜなら炎は正直だからだ。私たちは炎を通して、自分の弱さを知ることができる。
 火を灯したトーチ棒を慎重に運ぶ仲間たちは、全員が緊張した面持ちをたたえている。元火を一人ひとりに受け渡し、いよいよ覚悟を胸に刻む。
 私たちは列を組んで、トーチ棒を平行に掲げながら、所定の位置でストップする。炎は上へ上へと上がっていく、決して下へ向けてはいけない。初めて先輩に受けた注意をそっと小声で諳んじる。
 音楽がかかり、火の玉が動き始めると、もう誰にも炎舞を止めることはできなかった。私の出番は最後である。佐原の不在をカバーするために大幅にプログラムが変更されたのだ。私は大トリとして、ペアの演技を少し組み替えた炎舞を披露することになっていた。後輩たちの後ろ姿を拝みながら、何も起こりませんようにと祈る。
 内蔵カメラのフラッシュは炎の明るさに到底勝てない、まるで砂鉄のくずのようだ。火の玉が重力を忘れると、一斉に酸素の燃える音が大きくなる。夏祭り特有の、冷えているような暑いような、ないまぜになった空気を切って、トーチの先端は燃え続けている。あらゆる娯楽をふんだんに含んだ色とりどりの祭りの景色が、燃える、とてもよく燃える。火の玉は火の輪となり、蛇となり、彗星となり、蝶々となる。
 群衆の先頭に陣取るのは、高校の同級生集団だ。他の観客と打って変わって、炎の動きに慣れている。名前を呼びながら熱烈にうちわを振り回すその姿は、しばしば孤独な戦いを強いられる私たちを、炎とは別の方法で温めてくれる。私は彼らに感謝しつつ、自分の演技の間合いを取る。傍らにいたはずの佐原の姿を描きながら。しゃがみこんで背中の上を二回転、左右に揺らして片手で上下に、垂直に。背丈ほどある長めのトーチ棒は、私の体力をずんずんと削っていった。
 どん、と勢いよく鉄の棒を地面に打ち付けると、砂まみれのグラウンドとは違う、厳しい打突音が響く。一拍遅れて観客が騒ぐ。勢いを増す炎は私の酸素を食っていく。息が止まるほどの恐怖心を抱きながら、思い切りかがみ込んで、背中の上でもう一度、三回転。熱気がバンダナ越しに頭皮を蒸して苦しくなる。
 佐原はここにいないが、ここにいる、と私は思う。一生分の思いを込めて鉄の棒を天高く放り投げる。

 拍手の音で終演を知った。切り替わりを誘導する拡声器の音が、ステージの熱を徐々に冷ます。私たちは黙々と原状復帰の作業に移った。これで終わりか、と誰かが呟く。これで終わりだ、と私も呟く。
 乾いた拍手が耳元で鳴り響いて、私は思わず振り返る。そこには私服の佐原がいた。目を細めて微笑みを浮かべて、拍をとるかのように手を叩いていた。どちらの手のひらにも豆の跡が痛々しく残っている。
「ありがとう」と佐原は言った。それから私のショルダーバッグを奪い取り、右手をそっと差し出した。「今までで一番だった。間違いなく」
 私はもう、佐原を憎まなくてよかった。いや、それはもともと憎しみですらなかった。嫉妬、劣等感、炎舞の苦しみ、そして喜び。私はあの時、佐原を通して自分の姿を見ていたのだ。
「こちらこそ、ありがとう。本当に、佐原のおかげでここまでこれた」
 後ろから追いついてきた東吾が、私たちを見て舌を鳴らす。
「うわ、涙。感動の涙じゃん」
「違う。煙が目に刺さっただけ」
「それはもう、感動の涙だよ」
 東吾はそれだけ言い残して、夜の喧騒に紛れ込んだ。
 日が昇った時、私たちは脇役へと戻る。炎の呪いは解けてしまう。それでもいいと思いながら、自分の体をそっとかいだ。煤と洗剤の混じり合ったひどい匂いがする。私はこの匂いのことをずっと覚えていようと思う。キリンの首のように飛び出たセルカ棒も、拍手とため息の音程も。私たちは少なくとも、誰かの心を動かしたはずなのだ。
 炎のすすでできた不揃いな雪が、提灯の陽光に溶けていく。その煤には多分色々なものが混じっている。私は痛む目元をこらえて佐原の右手を握り返す。(了)

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