序章 逃走する言語

【二〇二〇年四月二十九日】
騒動の始まりは何てことのない春の日だった。散りかけた桜の木の影と、熱されたアスファルトの河が、歩道の横にただ延々と広がっていた。全てを押さえつけるような陽光を眩しく思いながら、僕は辺りを散歩した、失われた日常に些細な抵抗を試みるべく。皆同じことを考えているのだろうか、人通りはまばらながらも途絶えなかった。
パンデミックは僕たちから平凡な日常を奪った。街の喧騒は減り、電車が止まり、キャンパスも閉ざされた。有名人のインスタライブとプライム・ビデオを交互に眺める、無味乾燥の毎日。大学生の日常とはこんなものだったのか? 失望は怠惰に代わり、無気力に変わった。僕の唯一の楽しみは、スマートフォンで言葉を放つこと。ケイという名義で綴るショートショート――その名も、『英雄のいない昔話』。他愛もない空想の風刺は、ネットの海の中で予想以上に増幅した。
飛んでくるリアクションを適当にいなしながら、最後に喋ったのはいつだろうと考える。一週間前に高校の友人とオンライン飲み会をした時だろうか。百年に一度の疫病に踊らされる僕たちは、今後一生何も成せなかったとしても、歴史の証人として生きていくことができる。その事実は、ちっぽけな自尊心を多少満たしてくれるのだった。
例のプログラムを発見したのは、散歩道の折り返しに差しかかった時だった。突然画面が暗くなり、黄色い文字が画面の上から落ちてきた。変なリンクを踏んでしまった、そう思ってブラウザを閉じようとした僕の目に、ひとつの文章が飛び込んだ。未来を見てみたくありませんか――突飛な呼びかけは、視線を掴んで離さなかった。思わず画面をタップすると、難解なソースコードが表示された。
僕は急いで家に戻り、コードの解読に努めた。コードは僕の情報を欲していた。誕生日、血液型、父母の情報、学歴、運動歴、初恋の人の名前。指示に従いプロフィールを空白に入力した。エンターキーを押した瞬間、世界の明暗が入れ替わり、気がつけば、僕は僕の形をした何かを眺めていた。それも、画面の内側から。自分の体の異変を悟った頃にはもう遅かった。薄れゆく意識の中、ただ願った――途方もない未来の世界へ。
すると、眼前には未来があった。

これが僕にとって初めての意識テレポートだった。
 僕の人生は大きく変わった。あれから何度もプログラムを起動し、意識を未来に飛ばし続け、さまざまなものを観察した。通算十八代目のニューヨーク大帝国、寿命を終えようとする地球、魔法と科学の区別がつかなくなった学園都市。巨大プリンターでコピーされた月面基地、赤い空が広がるリゾート・プラネット、海を模した人造生命プラント。電子空間が普及した二十一世紀以降であれば、僕はどこでも行くことができた。動き回ることさえ可能だった――遠未来は廃棄予定のドロイドで溢れていたから。人工脳髄に乗り移れば、生体樹脂で構築された肉体を自由に使えた。精巧な感覚伝達に基づく、健康で文化的な生活が待ち受けていた。
人類がかねてより夢想してきた未来と、僕の見た奇想天外な景色は、似通っている部分があれば、大きく異なる部分もあった。しかし、その全てを語ることは叶わない。僕の用いることができる言葉はあまりに少ないし、未来について言及すると現実が破壊されてしまう。もっとも、すでに破壊はとめどなく進行しているのだけれど。
 とはいえ、何も持ち帰らないわけにはいかなかった。何といっても未来は素晴らしい発明の宝庫なのだ。先進的コミュニケーション・ソフトは汲むべき意図とそうでない雑念を区別して相手に伝達する。筋組織を刺激する衣服のおかげで、疲労は限りなくゼロに近づく。もとより何もすることのないコロナ禍を利用して、僕は少しずつ自らの理想を実現した。時間の蓄積と共に築かれた、恐るべきテクノロジー群をほしいままにすることで。無味乾燥な現実が、むしろ夢のように感じられた。
世の中の何人が意識テレポートを実行したのか? 気にならないわけではなかったが、僕はなぜかその問いを脳内から排除した。自分の特権だと思い込みたかったのかもしれない。時々僕はこの時期の振る舞いを後悔する、なぜって、世界が衰退するきっかけを作ったのは、間違いなく僕だったから。
異変を感じたのは、初めて意識テレポートを試みてからきっかり三か月たった頃だった。布団から起き上がった僕はスマートフォンを手に取ろうと枕の近くで手を動かした、気がする。電源を入れて目を何度か瞬かせた、気がする。記憶は全然定かではない、記憶虫に嫌な思い出を食べさせすぎたからもしれない。
確かな事実はたったひとつ、僕は日本語が読めなくなった。そこに並ぶひらがな、カタカナ、漢字の羅列は、皆が皆、線のうねりにしか見えなかった。アルファベットも同様である。僕は目を凝らして、瞬きして、何とか解読を試みる一方で、解放感にも似た、名付けがたい感情を覚えていた。ウイルスに感染した人数が日夜報道されるような世の中だ、字が読めなくなることだってきっと珍しくないだろう、ほら、何といったっけ、あの病気……。調べる手段は、すでに失われてしまった。
コミュニケーション・ソフトを起動。自動翻訳装置を起動。起動、起動、起動。諦めの悪い僕は全ての手段を試み、その度に絶望が足音を立てて迫ってきた。やがて僕は認めざるを得なかった、僕の手から言語が離れてしまったことを。理由はわからないけれど、当分戻ってこないことを。
最後の頼みは、意識テレポートだった。僕はパソコンを開いてスイッチを入れる。辛うじて失われていない指の記憶を頼りに、プログラムのページまでたどり着く。もっとも、キーボードの区別はつかないし、自分の名前さえ十分に再現できる自信がなかった。助けてください、という感情が、声にならない叫びとなって口の隙間から漏れた。肉体と精神の分離される独特の感触が、手首の先まで行き渡り、数秒の後、僕は僕を他人として眺めていた。安堵したのも束の間、行き先を定義し忘れたことに気づく。僕は幻想であるはずの寒気に身を任せて、思考を一旦遮断した。

 次の瞬間、僕は地下鉄の座席にもたれかかっていた。両隣を挟まれ、身動きがほとんどとれない中、知らない電車に揺られていた。思わず悲鳴をあげそうになったが、白い髪の年老いた個体が睨みを効かせてきて、黙り込むしかなかった。どこに進むべきなのか分からないが、ここにいてはいけないことだけが確かだった。
結局、知らない駅で降りた。雑踏の波に飲み込まれそうになりながら、知らない街に放り出された。知らない言葉を話す人々が、次々と僕の隣を通り過ぎていった。彼らは知らない色の、知らないブランドの服を身にまとい、知らない動作を繰り返した。その横を、知らない車がひっきりなしに走っていた。
 目から液体がこぼれたけれど、その感情を的確に表す言葉は、すでに僕から失われていた。僕は、取り戻さなければならない、と思った。何を? 言語を。Languageを。あるいはParoleを。言語から見放された世界は、不確かでくすんでいた。僕はそこにとどまるわけにはいかなかった。
広がり続ける世界を探し求めて、僕はゆっくりと歩き出した。「歩く」という言葉さえおぼろげな中、失われた僕の一部を探す旅へ。
逃走する言語を捕まえるために。

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