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落選した小説、読んで

「純愛」        明島 あさこ

 あぁ、ヤったんだな、と思った。
 俺の乗る路線バスは、いつも少しずつ混んでいく。窓際から順に座席が埋まっていき、高校が見えてくるころには、いい感じの間隔で吊革に掴まれるくらいに人が立つ。冬になるとコートの分だけ狭くなった気がするけれど、それでも自然に呼吸ができるくらいの余裕はある。そんな混み具合。自分ちの近くにバスが来るときはガラ空(す)きだから、うしろの扉が開いてすぐの席にいつも座る。あとから乗ってきた人が「あぁ席空いてない」という顔をすると少し申し訳なくなるけど、降りるときに人をかき分けたくないし、かといって運転手の真後ろは気まずいので、ここがちょうどいいという結論を出している。
 走り疲れて吐いた息みたいな音と共にバスの扉が開いたとき、その人は乗って来た。同じ場所で同じ人しか乗せない朝の路線バスで、初めて見る人だった。ふかふかのダウンコートに限界まで綿を詰め込んだようにまるまるとしている。妊婦だ。着ぶくれた人じゃない。ステップを上がるときに、腹を支えるその左手が証拠だ。目が合う前に席を立った。
「いいんです、すぐ降りますから」
 妊婦が慌てて首を横に振る。
 いや、こけたりとか、なんか起きたとして、それ見ちゃった俺のトラウマ消してくれんのかよ。
 なんて悪態はつかず、顎を出すスタイルの小さい会釈で席を譲る。
「ありがとうございます」
 柔らかく微笑んで丁寧に頭を下げる姿は、清らかで、聖母のようだ。
 でも、ヤったんですよね? だから子どもできたんですよね? すごく美しいもののふりをして、すぐ降りますなんで謙虚にふるまいながら、中はべったり穢れていますよね?
 漏れ出そうな叫びを、イヤホンを耳にねじ込むことで、頭の中に収める。
 若者が席を譲って、新しい命が守られて、朝からさわやかでしあわせだなぁみたいな空気出してる周囲のやつらも、真実を分かって隠しているんですよね?
 すべての裏切りに、むくむくと怒りが湧き上がる。大人はみんな嘘つきだ。
 ふと、視界の端にもぞもぞと動く陰を捉えた。運転席の真後ろに座る、俺の高校の制服を着た陰。のり弁みたいに真っ黒で分厚い前髪と、耳の上に三つ編みを埋め込んでいるその頭は、おそらく俺のクラスの……なんて言ったっけ。人混みの向こうで、奇妙なダンスでも踊るように、頭が動く。
 妊婦が乗って来たことに気づいて、席を譲ろうとして、でも俺が先に譲って、動きのゴールが見えなくなって、なんとかこの動きに意味を見出さないと、と一瞬考えて、でもバスが出発するから座らないと危ない、どうしよう。そのダンスの解説は、これであっていますか。
「発車しますよ、座ってください」
 運転手に咎められ、のり弁頭は沈んでいった。どんくせぇやつ。
 高校の近くにバスが停まると、俺はさっと定期を出し、先頭に座るのり弁を追い越して降りた。どこで降りるか決まってんだから、定期くらい準備しておけよ、毎朝のことだろ。一度も話したことのないクラスメイトに、あふれかけた怒りの対象を移す。
 ステップを降りた瞬間、鼻の奥を冷やす外気で、どうにかいろんな熱を冷ました。
 好きで怒ってないし、嫌ってない。
 俺だって本当は、妊婦さんどうぞ座ってください、新しい命めでたいですね、うれしいですね、と普通に喜びやしあわせを感じてみたい。でも嫌悪がにじみ出る。怒りがわく。同じ空気を吸いたくなくなる。優しそうで、柔らかな雰囲気で、“母”を醸し出す妊婦ほど、より一層。エロいことしたの隠して、それどころか神聖なオーラまでまとって、真逆の存在のようにふるまって。嘘つき。相反するものを体の中に共存させているその姿が、気持ち悪くてしかたない。白米を牛乳で流し込んで食うみたいなものだ。それぞれはおいしくいただけても、一緒にはできない。それを、なんで世間は当たり前みたいに、世界の常識みたいに、日々の中に溶け込ますことができるのだ。十七歳の今日に至るまで、俺はまだその常識を教わっていない。
 こんな悩み、誰にも言えなかった。妊婦を見るたびにセックスを連想するなんて、思春期こじらせてるとしか思われないだろう。俺が言いたいことはそんなことじゃない。射精はエロい。女のアソコもエロい。セックスは不純で、はしたなくて、人前で話してはいけない。なのに、妊娠はめでたくて、赤ちゃんは清い。精子が受精して人の形になるどの過程になれば、エロくなくて穢れがなくなるのか、セックスののちに生まれてきたやつらに聞きたいだけだ。みんなはどこで判断しているのだろう。みんな、本当はどう思って生きているのだろう。いつから、人は再び穢れるのだろう。
 
 俺が教室に着いた五分後、のり弁女が教室に入って来た。同じバスだったのに遅すぎる。本当にどんくさいらしい。
 のり弁は、ドアの近くに座る俺の後ろを通り、声のでかい女子に「おはよう」と言われ、へらへら笑いながら小さな小さなあいさつを返し、机と机の間の通路をふさぐ生徒たちをおどおどと避けて進む。
「あーもうだめぇ。森川さんに聞こえちゃうじゃあん。森川さんピュアなんだからぁ」
 男とべたべた話していた女子のひとりが、通りすがりののり弁を巻き込み、大はしゃぎして笑う。のり弁は小動物みたいな瞳で小首をかしげ、自分の席へ荷物を置いた。
「そうだよぉ、森川さん穢れちゃったらどうするのぉ?」
 また別の、スカートの短い女子が会話に入り込む。詳細は分からないが、どうやら話題が下ネタ、それもゴムがどうたら、だったらしい。コンドームなんてのは、欲のかたまり、エロの象徴だ。妊娠を望まない、性欲を満たすためだけのセックスで使うのだから。それを話題にした私たちは、ダサいのり弁女と違って穢れた大人ですよ、と言いたいらしい。
 女子たちの薄っぺらい言葉より、その言葉に困惑する男の方が見ていておもしろかった。「穢れたから何?」って顔。いや、「穢れるって何?」かも。穢れることを知らないのではなく、穢れていない高校生がいるわけねぇだろ、の顔。男はみんな知っているんだ、女子はもうエロを隠して生きていける大人であることを。それなのに、純粋な子が好きとか言っちゃうのは意味不明だけど。
 遠巻きに見ている女子たちの眉間にぐっとしわが寄る。先の下ネタ集団を『見た目が派手なタイプ』だとすると、こちらは『声と動きがうるさいタイプ』。だいたい運動部と吹奏楽部で成り立っていて、人口も多い。
 彼女たちの眉間のしわの意味は、声のボリューム落とせという威嚇。男といちゃつく態度への嫉妬。私たちは下ネタなんかで笑わないという潔白。下ネタそのものへの汚物に対するような嫌悪。そんなところだろうか。何か伝えづらいことを眉間で精いっぱい表している。のり弁を巻き込んで下ネタを話そうとする女子たちに対して、「もっと大人のふるまいをして」という警告かもしれない。女子の会話は快のオブラートで何重にも包み本体が何か分からなくなるのに、態度は快不快の二種類のみで明確だ。その奥は複雑な立体芸術だから、本当に何を考えているのかは、もちろん解読不能なのだけれど。
 のり弁の困った顔は、どの意味だろう。
 派手でもなく、うるさくもない、残り。『ただ暗いタイプ』。そこに分類されるのり弁。俺も関わらないし、向こうも決して関わってこようとしない、未知の生物。本当にピュアのかどうか、ピュアだと決めつけて話しているあいつらにも分かっていないはずだ。てか、十七歳のピュアってなんのことだよ。処女でも知識くらいはあるだろう。
 のり弁のことをとやかく言えるほど、俺も明るく話すポジションにはいないが、あんなふうにいじられることもない。ただ、可もなく不可もない男子高校生を保っている。誰にも言えない嫌悪と怒りを飲み込んで、ときどき家で、人知れず生理現象の穢れを排出する。普通の、ごく普通の男子高校生を生きる。
 もしこの教室で、妊娠はセックスをした証拠だけどそれについてどう思ってる?なんて話をしたらそれぞれのタイプの女子は、俺をどういうふうに扱うだろうか。
 てか、あいつ、森川って言うんだ。

 その日の朝のホームルームで、担任が妊娠を報告した。
「みんなと卒業まで過ごしたかったのですが、本当にごめんなさい」
 真っ黒な髪を後ろでひとつに束ねた国語のりっちゃんこと、市村梨津先生は、毛先が教卓に付くまで深々と頭を下げた。当然俺は、あぁ市川先生もヤったんだ、と思ったが、真顔を維持する。
「謝んないでー! めでたいじゃん!」
 さっきまで眉間にしわを寄せていた、うるさい女子のひとりが明るい声を出すと、教室のあちこちから拍手が起きた。俺もみんなに続いて手を叩く。
「何月までいるのー?」
「体調悪かったらすぐ言ってよ!」
「えーオレ名前考えちゃお」
「余計なお世話だよ!」
 和やかな空気の中、どっと笑いが起きたことで、俺は視線を固定していたことに気づき、慌てて逸らした。市村先生の下腹部を見ていた。睨んでいたかもしれない。あの中には、新たな生命体が蠢いている。市村先生の旦那さんの精子が入り込み、市村先生の卵子と受精した証拠が。祝福されている今、後ろめたくないですか。恥ずかしくないですか。どうして笑っていられるのですか。最初の「ごめんなさい」は、やましさへのせめてもの謝罪ですか。
 逸らした視線の先にいたのり弁、じゃなくて森川はひときわにこにこと、天使でも見るように市村先生を見ている。これが模範解答だ。こうやって生きるのだ。めでたいのは本当なのだから。
 俺も口角を上げようとしたとき、森川がはっと後ろを向いた。手の力が抜けて持っていたものを落としてしまうような、そんな必然性でにこにこは転がり落ち、何が残ったのか分からない顔で斜め後ろの女子を見ている。その女子は泣いていた。
 波紋が広がるように、静まり返る。
 泣いている女子の、隣の席の女子が慌てて泣いている方を抱きしめた。
「ゆうな、先生と卒業できないのさみしいんだよね? もー泣かない!」
 あぁ、と納得するような小さな笑いで、教室は再び和やかに戻っていく。でも、波紋の中心部だけ色が違うことに、おそらくみんな、気づいている。さみしいから泣いているのではない。なにか、別の理由がある。つぶやきが聞こえる程度の距離に座っていた生徒の口が、「ヤバっ」と動く。表情はひいているような、でも笑ってるような。ゆうなと呼ばれた女子は、何かを口走ったのかもしれない。この場にそぐわないようなことを。「めでたい」ではないことを。考えられるとしたら、「突然の産休なんて無責任だ」とか。進路相談なんかをマメにしていて、これからが不安なのかもしれない。会社ならマタハラ案件だが、生徒の発言となるとうやむやに、いや、保護者なんかが現れて市村先生が謝罪することになるかもしれない。十七歳の方が無責任だ。
「ごめんね、優菜さん本当にごめんね」
 市村先生は、すでに謝りたおしている。
「来年の夏休みあたりまでは学校にいます。進路のこと、成績のこと、副担任の杉野先生ともしっかり共有して、みんなが三年生になっても絶対困らないようにします」
 他にも、市村先生が授業や部活のことなんかを具体的に話している間、“ゆうな”は、涙を拭って唇を噛んでいた。

「ちょっと、ゆうな見すぎじゃない?」
「だって、あれはかっこよすぎる!」
 午後の体育、“ゆうな”は朝の涙が嘘みたいにケロっと笑っていた。
 冬の持久走は男女合同、半数ずつ交替でグラウンドを走る。走るのはしんどく、待っている間の寒さはつらく、そして女子の品定めの目はダルい。かっこいいやつをかっこいいとほめるのは自由だから、下位の俺たちを下げることまでしないでください、と腹の中で唱えながら、平然を装う。卑屈になりすぎても、自信がありすぎても攻撃される。ただただ、騒がれる方も騒ぐ方も見守る、無害な人になりきる。
 “ゆうな”を含む、うるさい女子の集団は、何人かの男子を見ながらきゃあきゃあと、いわゆる黄色い声を上げていた。体操服の裾で汗を拭う瞬間にちらりと見える腹筋や、その少し下の筋に対して叫んでいる、ように見受けられる。露骨な下ネタは嫌がるけれど、ちょっとエロい、はありなのだ。もちろん、それに対しても顔をしかめ汚いものを見るような目をしている女子もいる。でも、アイドルだ、二次元だ、と自分だけの「これはOKなの」を持っている。明確な、境界線。
 今年の夏、流行った恋愛ドラマがあった。毎週クラスの女子が感想を言い合い、ネットニュースでもたびたび「この夏一番泣ける」と取り上げられていた。ドラマを見ない俺でも、タイトルを覚えてしまうほどだった。主人公が人気のイケメン俳優で、それだけでも話題だったが、それ以上に見どころだったのがキスシーンやそれ以上の行為がないことだった。それを世間は『純愛ドラマ』と呼んだ。
 つまり、性欲は不純だ。ないほうが美しくて、きれいなのだ。ないことに憧れているのだ。欲はいつだって汚いものだから、境界線を引いて言い訳するのだ。
 騒いでいる女子は、騒いでいる自分たちを楽しんでいるだけかもしれない。けれど、自分たち女にはない、男特有の、いわゆる“男らしさ”を喜んでいるのであれば、決して間違いではないと思う。違うものを受け入れ共に生きていこうとしているわけだから、ダイバーシティでインクルージョンでSDGs。
 逆にもっと本能的なのものかもしれない。惹かれる→生殖活動→子孫繁栄。すごく動物的なのに、エロさがない。動物はエロ欲求のために交尾をしていない。
 どちらにしても、汚いと避ける理由が見当たらない。でも、性欲は汚い。三大欲求なのに、食欲・睡眠欲と肩を並べることを許さない圧力が、この世にはある。
 だからといって、もし誰もが俺みたいに妊婦に嫌悪を感じていたら、人類はとっくに絶滅している。やっぱり、この嫌悪や怒りは人として間違いなのだ。
 どんな意見も尊重される風潮だったとしても、普遍的な答えはあるはずだ。普通の、普通の人の感覚が知りたい。どこからがエロくて、どんなことは不快で、何は清いのか。それを知ったうえで、穏やかに暮らしたい。見て見ぬ振りがうまくなることを大人と呼ぶのであれば、その練習を義務教育でしてほしい。
 女子の、照れたような笑いの奥のいやらしさが見えたとき、遠く、エコーのように声が聞こえた。
「女の子はおませなのね」
 おませなのね。
 いつ、どこで、誰から聞いた言葉だったのだろう。どうしてそんな話になったのだろう。何も思い出せないけれど、その言葉だけは、気がつくと俺のそばにいる。女子はおませだから。おませなのが、女の子なのだから。
 女子集団の隅で小さく膝を抱える森川の、額に乗っかるのり弁の奥の瞳は、ただ寒さと運動で疲弊しているだけに見えた。
 
 www。(笑)ではなく、www。
 いつもと色が違って見えるのは曇り空のせいかと思ったが、どうやらそうではないらしい。翌朝の教室は、不穏なのに笑っていた。床にころころと小文字のwが転がっていく。
 何か話したそうにこちらを見た前の席のやつに「え、何?」と聞く。
「モンペ現る」
「もんぺ?」
「りっちゃんとこにさ、モンスターペアレント来てんの。誰かの母親。『教師のくせに汚らわしい!』だって」
 どんっと心臓が跳ねた勢いで、息が一瞬止まる。俺が頭の中でつぶやき続けたことを、誰かも同じように考えていた。それも、親の年齢である、大の大人が。
「ヤバいよな。自分はどうやって子ども生んだんだって話じゃね?」
 うまく相槌を打てたか分からない。
 今、市村先生を責めている誰かの親は俺の同志であるはずなのに、全く喜びがない。それどころか、「いい大人が」と蔑もうとさえしている。嘘をつく大人に怒りを持っていたのに、嘘をつかれないと不安になった。
 その誰かの親は、自分も穢れてしまったことを後悔しているのだろうか。せめて“教師”には清くあってほしかったのだろうか。
 誰が聞きつけてきたのか、モンスターペアレントが何を発言したか、もうクラス中に広まっていた。
「『多感な年頃の子たちが傷つく』って、何に?って話だよ」
「え、だからりっちゃんがやることヤってたって事実に?」
「別にりっちゃんもいい歳だし、新婚だし、ヤってて普通じゃない?」
「それな」
 wwwww
「『子どもたちにどう説明するのか』って言ってたらしいよ」
「説明とかいらないよ。小学生じゃないんだから」
 wwwwwwwwww
「『このことで、興味を持ってしまう子がいたら』だって。担任が妊娠したら誰かとヤりたくなるって、もうヤバいやつじゃん」
「俺たち、そんな四六時中エロいこと考えてねぇし」
 wwwwwwwwwwwwwww
「産休入るから受験や部活がどうのって言うならまだしも、妊娠したことに?って感じだよね」
「普通にめでたいでいいじゃんね。だから少子化なんだよ」
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 誰の言葉にも、頷くことができた。それでいて、すべての言葉が俺を深く刺した。
 みんな“おませ”だ。“おませ”だから、取り乱す保護者をただ笑うことができるのだ。セックスはエロいけど妊娠はめでたくていいこと。そんな常識を噛み砕くことができているおませな高校生だから。愚かな大人を、ただ笑うのだ。
 話題を振られたら、笑わなきゃ。俺も、だよなぁって笑わなきゃ。
 机の下で握りしめた手の中に、汗が溜まっていく。いつでも同意できるように、誰の意見も聞き逃すまいと耳をそばだてていたので、その声は特に明確に聞こえた。
「てかさぁ、誰の親なの?」
「あたしじゃない!」
 光が反射するくらいのスピードで、誰かの疑問に答えたのは“ゆうな”だった。
 前の席のやつが「あれ、そうなんだ」と呟き、クラスの何人もが懐疑的な目をゆうなに向けた。派手な見た目の女子が代表して口を開く。
「だって、あんたさ……」
 ゆうなは立ち上がり、クラス中、誰ひとり取りこぼすことなく届くように、ぐるりと見渡しながら声を張った。
「たしかに、たしかにあたし、『穢れちゃった』って言った! だって、りっちゃんにそんなイメージなくて、びっくりしちゃって」
 もうひとり、ここにもいた。妊娠を、けがらわしと思っているやつが。同志が。めでたい空気の中で流した涙の理由は、これだったのか。
 クラスにまたもwwwが転がる。子どもが、セミの死骸をつま先でつついて遊ぶみたいに。触りたくないけれど、関わりたい。手放したくないけど、大切にする気はない。
「イメージて。りっちゃんのことバカにしすぎ」
 www。
 白いワイシャツ、地味な色のカーディガン、ひざ下丈のスカート。ゆっくり話すところ。穏やかでめったに怒らないところ。市村先生の何かが、ゆうなの中でセックスと結びつかせなかった。清らかだと信じ込ませた。もしかすると『教師』という職業そのものかもしれない。だとしたら誰かの言うように、バカにしすぎているし、偏見がすぎる。でも分かる。穢れたのなら、穢れた然としていてほしい。私はエロとは関係ありませんみたいな、無責任な顔で生きないでほしい。隠さないでほしい。
 砂利をかき分けるように、ゆうなはwwwの中に言葉を投じる。
「でも、でも、ちゃんとめでたいことだって今は思えてるし、りっちゃんはりっちゃんだし。あたし、そんなに傷ついてないし! 親とか来てないし!」
 ゆうなの叫びで、教室は笑いがなくなり、不穏だけになった。ゲリラ豪雨の前に、暗雲がものすごいスピードで広がるように。冷たい風が吹き下ろすように。
 俺が教室に着いたとき、ゆうなの『穢れちゃった』発言はとっくに広まっていたのだろう。もしかすると、昨晩のうちにSNSなんかで共有済みかもしれない。だから誰もが、職員室に乗り込んで怒っているのはゆうなの親なのだと決めつけていた。的外れな怒りを持つ親だけでなく、きっかけを作ったゆうなのこともバカにしていたのだ。バカにしているつもりだったのだ。でも、ゆうなの叫びはおそらく嘘じゃない。じゃあ、誰が。
 犯人探しが始まる。りっちゃんが理不尽に責められているのは、誰のせい? 大人のふるまいができない高校生は、どこ?
 何食わぬ顔で、笑いながら笑われていたやつがこの中にいる。不穏は不審に変わり、互いを探り始める。
 市村先生を責めているのは、俺の親ではない。でも、俺も思っている。妊婦をけがらわしいと。妊娠は穢れた証拠だと。もしも、もしも、バレてしまったら。心臓がドンドンドンと大きく動くたび、肺が潰されているのかと思うほど息ができない。
 だって、だって、だって。
 いつだったか、教室の後ろに並ぶ学級文庫の中に、絵本を見つけたやつがいた。俺たちがまだ、ランドセルを愛用している頃だった。絵本をつまみ出したのは足が速くて、声が大きくて、クラスで一番おもしろいやつだった。そいつが表紙を開くと、裸の男と女が重なり合っていた。サッカーでゴールが決まったときと同じくらい大きな声で「やべぇ!」と叫び、そいつは絵本を放り投げた。黒ずんだ床に絵本はばさりと落ち、男のアソコの絵が現れた。女子の悲鳴を上げて目を覆い、男子たちは大笑いする。誰かがほうきを持ってきてつつくと、ページが変わる。今度は女が股を広げた絵になる。男子が口々に「エロぉ!!」と叫ぶ。女子が「やめなよぉ」と怒り出す。泣き出すやつもいる。教室に蜂が入ってきたときと同じくらい大騒ぎになる。絵本は、ほうきにつつかれ、足で蹴られ、絶対に触れてはいけないものとなっていく。チャイムが鳴る。先生が教室へ足を踏み入れる。メガネの女子がさっとティッシュを手に絵本を拾い、本棚のほかの本の間に隠すように収めた。先生にどうしたの、と聞かれたが、俺たちは暗黙のうちに何も見なかったことにしようと決めた。
 それなのに。
 みんな、いつ、そんな大人の顔をできるようになったんだよ。
 どうしてこの世の矛盾に、目を背けていられるんだよ。
 誰かの声や動きを捉えるのが怖くて、顔が上げられない。
 そのとき教室の重たい空気が、揺らいだ。席を立ったやつがいる。顔を上げずにいても、おかしな気配は伝わる。動く陰が、だんだんと近づいて、俺の真横に止まった。
 細い指が、紺色のスカートを鷲掴みにしている。力みすぎて青白い。そこからゆっくり視線を上げていくと、真っ黒な、のり弁のような前髪の下で、うるんだ目が俺を見ていた。
「助けて、ください」
 俺は、森川の手を掴んで教室を出ていた。息が吸えた。とにかくあの場を離れる理由が欲しかった。逃げたかった。
 森川の手をぐいぐい引いて階段を下りながら、今朝のバスに森川がいなかったことに、今さら気づいた。

*  *  *
 
 教室のある校舎から、渡り廊下を二回経由すると図書室がある。司書は常駐していない。でも、いつでも誰でも利用できる。そして利用するやつはほとんどいない。
 俺がなんでそんなことを知っているのかというと、数少ない“利用したことのある生徒”だからだ。読書は趣味ではない。なんなら、本などほとんど読まない。でも知りたいことがあったから、高校生になったばかりのときに一度、来た。
 扉を開けると、やはり誰もいなかった。床の冷たさが、スニーカーの底を抜けて伝わる。
 電気もエアコンもつけず、森川から手を離して、閲覧用の席を指さす。
「待ってて」
 ここに来る間、森川は勝手に重要なことを伝えてきた。
「私、あの、聞こえてたんです。優菜ちゃんが『穢れちゃった』って言ったの。びっくりして、で、帰ってお母さんに聞いてみたんです。それって、どういうことだろうって」
 思わず振り返った俺に森川は肩をびくつかせた。“どうしてだろう”ではなく“どういうことだろう”。速足だったせいか浅くなった息を交え、森川は話し続けた。
「そしたらお母さんが、学校についてくるって、言い出して、市村先生を、怒り出しちゃって。何が起きているのか、分からなくて」
 俺も乱れた息を大きな深呼吸で整え、一気に捲し立てる。
「一応聞くけどどうやったら子どもできるかは知ってる?」
 森川はためらいながら、唇をもごもごと動かした。
「キ……キス……とか……?」
 そのはてなには答えず、とにかく図書室を目指した。
 小説以外には、図鑑や辞典といった重たそうな本、分厚くて表紙もごつくて古い本が主で、初めてきたときには目的のものをどう探せばいいのか、まったく分からなかった。かといって、先生にはとてもじゃないが聞けなかった。本棚をひとつひとつ上から順に見て、ようやく探し当てた本の場所を、俺はまだ覚えていた。
 絵本を一冊と、カラーの図解の本を一冊、森川の前に置く。
 まず、図解を開いた。生物や保健体育の教科書でもよく見る、球体にオタマジャクシがめり込んでいくような図が描かれている。
「受精は知ってるだろ。卵子に精子がくっついて、命になる」
 森川は震えるように頷いた。どうやら授業はまじめに聞いていたようだ。
「じゃあ、セックスは? 知ってるの?」
 森川は大きく目を見開いたあと、顔を伏せた。埋め込まれた三つ編みの下の耳が真っ赤になっている。
「聞いた、ことは、あります」
「じゃあ、どうしてキスで子どもができるなんて、おとぎ話みたいな発想になるんだよ。そういうの、かわいいとかならねぇから」
「ごめんなさい、話が、よく……」
 この期に及んで照れてごまかしているのか、知識が小学生並みなのか、どちらにしても腹が立ってきた。俺は、絵本を開いた。これは、かつて汚くて触れなかったものと同じだ。
 本の真ん中で、裸の女に、男が覆いかぶさっている。
「こうやって、セックスしたら子どもができるの」
 森川の目が、妙に生々しい絵にくぎ付けになるも、まだ何かを戸惑っているようだった。
「キスで精子は出ねぇし、卵子にも届かねぇだろ!!」
 はっと、森川が顔を上げる。
 精子と卵子の受精。生き物を誕生させる唯一の方法。そして、精子が出るのは陰茎から。卵子があるのは女の膣のずっと奥。だったら、膣に陰茎を入れるほか、自然な妊娠方法があるのかよ。ちょっと考えたら分かることじゃないか。
「ウサギ小屋とかで見なかった? 交尾。あれと同じ理屈。男のアソコを女のアソコに入れる。で、妊娠する。以上」
 森川は再び、絵本に目を落とした。絵は分かりやすく陰部のあたりが点線で描かれていて、挿入を表していた。森川の緊張していた肩から、力が抜けていく。
「ゆうなってやつが言ってた『穢れた』ってこういうこと。市村先生はセックスしたってこと」
 森川の表情は重たい前髪に隠れて、怒っているのか泣いているのか、はたまた笑っているのか、何も分からない。でも俺は、話すのをやめられなくなっていた。
「みんなしてんの。最近子ども生まれた数学の加藤も、子どもが高校生だっていう家庭科の秋田先生も、あんたの親も、みんな!」
 そう、俺の、親も。
「優しそうな、穏やかそうな顔してても。色気なんか全然なくても。みんな、みんな、隠れてやらしいことしてんの! 大人は、それと妊娠とは分けて考えるんだよ。繋がってるのに、別物にするんだよ。何事もなかったかのように生きるんだよ!!」

 教室でいやらしい絵本を開いたことなど忘れたころ、公園で中学生の会話を聞くタイミングがあった。シャワーをアソコに当てると気持ちがいい、という話だった。家に帰ってやってみたら、虫刺されの跡にバツ印を爪でつけた程度の心地よさがあった。
 中学生に上がると、徐々に周りが変わっていく気配を感じた。それは、汗ばむ季節が徐々に過ごしやすくなっていくような、空がいつの間にか高くなっているような、微妙な変化だった。「今日から冬服です」と指示され、一同にブレザーを羽織るのではなく、ひとり、またひとりと自分の感覚に合わせて衣替えをしていくような、曖昧さ。気がつけば、俺と、その周りの数人だけが半そでシャツを着ている。でも焦ったところで、羽織るべきブレザーを持ち合わせていなかった。
 高校の入学式の朝、俺のパンツに白いものがべたっと付いていた。教科書に載っている通りだった。洗面台でこっそりパンツを洗いながら、とうとう大人になったのだと思った。これで、みんなと同じブレザーを羽織れる。なのに何も嬉しくなかった。むしろ不安だった。気持ち悪かった。何かにざわざわした。スマホや家のパソコンに履歴を残すのが怖くて、学校の図書室へ駆け込んだ。薄々、気づいていたけれど、見ないようにしていたことを、自分の中から引きずり出すために。
 見覚えのある絵本を見つけたときは、手が震えた。
 みんなが教室で悲鳴をあげながら拒否したセックスは、生命の営み。太古から変わらず続き、科学や医療が進歩した今でも、多くの人が未だにやっていること。悪いことではなく、むしろ自然なこと。だけど、誰も教えてくれないこと。そして、俺の体はそれができる準備を整えた。
 俺は森川を笑えない。俺だって、確信を持ったのは高校一年生のときだった。
 どこかで信じたかったのだ。テレビで見る、お母さんになった元アイドルや女優は、そんないやらしいことをしていないと。優しそうな保健室の先生も、ふっくら笑う近所のパン屋のおばちゃんも、公民館で碁を打っているじいさんも、そして俺の親も。
 思いたかった。俺は、穢れた行為の末に産まれたのではない、と。
 
――女の子はおませなのね
 
「せ、セックスをしたら、穢れるってことですか」
 砂がこぼれるような声で、森川が問う。
「そうだろ。性欲はきれいなものだなんて、誰も考えてない」
 コンドーム、腹ちら、純愛ドラマ。
 好きな相手に触れ、繋がり、子どもを宿すこと、そのための行為は、誰も純愛と呼んでくれない。
「俺は、しんどい。もう、しんどいんだよ。みんなが当たり前に受け入れてることを、屁理屈こねるみたいに、納得できない自分が。こんな些細なことで躓いてないで、もっと進路とか将来とか考えたいんだよ。だって俺、おかしいから」
 妊婦見て、あぁヤったんだなと思うなんておかしいから。
――ちゃんとめでたいことだって今は思えてるし、りっちゃんはりっちゃんだし。あたし、そんなに傷ついてないし!
 仲間だと思った“ゆうな”は、とっくに先を走っていた。大人になっていた。体操服の裾から見える腹筋に興奮し、おのれの性欲と上手に向き合っていた。
「おか……しい……?」
 気を遣うようなそぶりも、自分だけはキレイな場所に居続けようとする姿勢も、腹が立つ。
 俺は、森川の腕を力任せに引っ張り、入り口から死角になる本棚の陰に押し込んだ。
「穢れちゃえばいいよ、俺も、おまえも」
 バランスを崩し、床に座り込んだ森川を見下ろす。
「そしたら大人になれるよ。ピュアだねなんて笑われなくて済むよ。世界においていかれないよ」
「ど、どういうこと、ですか」
 耳の奥にwwwが響く。どこまでも下品な笑い声。俺は、ブレザーのボタンを外し、乱暴に脱ぎ捨てた。
「ヤるんだよ、ここで」
「な、なにを」
 森川がゆっくりと這うように後ずさる。
「セックス」
 森川のブレザーに手を伸ばす。森川は身をよじって、ボタンのあたりを握りしめた。
「な、なにするんですか!」
「脱げよ、おまえも!」
 掴んだ森川の手首はひんやり冷たくて、思っていたよりもずっと細かった。どくどくと打つ脈まで感じる。
「だってもう半分穢れてるんだよ。体は準備できてるんだよ。出したら気持ちいいって思っちゃうのは止められないんだよ。だったらもう、穢れた大人になりたいんだよ、俺は!」
 叫んだ勢いで森川を押し倒し、抵抗する腕を床に押しつけた。
 と、同時に俺の体は後ろへ向けて倒れこんだ。
「バカにするな!」
 紺色のセーターの腹のあたりにくっきりと、ローファー型の足跡がついている。遅れてじわじわ痛みもくる。
「私が何も知らないからか! 陰キャだからか! 髪型がダサいからか! だったら何してもいいのか!」
 分厚い前髪の奥の瞳が、俺を刺す。腹の痛みが加速する。
「みんなみんな、バカにするな!」
 ぽたりと涙を落としたのは、俺の方だった。

――女の子はおませなのね
 きれいにラッピングされたクッキーが、ゴミ箱に沈んでゆく。

*   *   *
 
 本棚にもたれたまま何度目かのチャイムを聞く。最初にしゃべりだしたのは森川だった。
「セックスって、いやらしいことに興味ある人たちだけがする、いやらしい行為だと思ってた」
 森川は膝を隠す丈のスカートで脚をすっぽり抱え込む。
「例えば、露出の多い服着てる人とか、お化粧派手な人とか。もし恋愛しても結婚しても、私には一生縁のないものだと思ってた」
 俺も脚が冷えてきたので、両腕で抱え込む。
「すごい偏見だね、今思うと。私、失礼だね」
 俺は黙って首を横に振る。俺も同じだ。エロいことなんて知らなそうな顔した、柔らかくて優しそうな大人ほど嘘つきだと思っていたから。森川は「ありがとう」と言って話を続けた。
「私のお友だちはね、好きな人の話とかしないの。古典の授業眠かったねーとか、部活めんどうだなーとか、当たり障りのない話しかしない。お化粧もしないし、髪だって染めたり巻いたりしない。したいって話もしない。だから当然、そのー……エッチ、な話も、しない。高校生になったら恋バナくらいすると思ってたんだけど、あぁ私もお友だちも、まだなんだなって思った。そういうおませな会話は、まだなんだなって」
――女の子はおませなのね
「でもね、優菜ちゃんのことと、ママが職員室でいろいろ言っちゃったこととクラスで噂になったら、他の子と同じように笑ってた」
 森川の友だちがどんなやつか思い出せないけれど、たぶん似たような雰囲気のやつらで、でもあのwwwに入ることができていたのだ。
「何も知らなかったのは、私だけみたい。私に合わせて、恋バナもしなかっただけかもしれないね」
 森川は抱えた膝に、顎をちょんと乗せた。
「女の子は、いつかお化粧をしないといけないでしょ。仕事のときとか、誰かの結婚式に行くとか。したいかどうかじゃなくてマナーとして。そのとき、初めて私たちみたいなタイプでも権利を得るの」
「権利……なんの?」
「おしゃれをしていい、権利」
 分かる気がした。おしゃれなんて誰がしてもいいといくら声を大にしても、人には向き不向きがある。高校生でピアスを開けたり髪を染めたりするのは、それが似合うやつのすることだ。ちょっとやんちゃなそぶりや過激な下ネタに周囲は顔をしかめながらも、「ああはなりたくない」だけでなく「ああはなれない」とも、どこかで思っているのだ。
「前にね、色のついたリップクリームを付けたことがあるの。大人っぽくなれるかなぁくらいの、軽い気持ちで。そしたら優菜ちゃんとか彩ちゃんとかに、『恋してるのー?』って聞かれちゃった。だから、おしゃれにも理由がいるんだと思った」
 大きく息をついて、森川は続ける。
「でも周りは好きな子の話しないし、私も好きな人がいるわけじゃないし、そうしたらおしゃれする理由ないし、悪循環。いつまでも先に進ませてもらえない。それにね」
 俺は、ゆっくりと森川の目を覗き込む。
「色付きのリップクリームは、ママに捨てられちゃったの。愛万(えま)ちゃんにはまだ早いわよって」
 ゴミ箱に沈んでゆく、クッキー。女の子はおませ。

 小学校三年生か、四年生の頃、クラスの女子から手作りクッキーをもらった。バレンタインデーだった。そういったイベントがあることは知っていたし、好きな人に何かを渡す日だということも知っていた。もしかしたら告白みたいなこともされたかもしれない。恥ずかしくなって逃げるように帰ったけれど、だんだんと嬉しい気持ちが大きくなってお母さんにもらったクッキーを見せた。お母さんは、クッキーを俺の手からそっと取り上げた。
「女の子はおませなのね」
 そして、手作りのクッキーは捨てられた。手作りは不衛生だからと言っていたような気がする。でも俺は“好き”を捨てられたのだと思った。“おませ”は触れてはいけないもので、ごみ箱に入れるに値する。好きの先も、それに付随する行為も、全部。

「でもさ」
 乾いた涙の跡がかゆくなり、こすりながら言う。
「いい歳になったら、結婚はまだか、孫が見たいとか、言うぞ、きっと」
「そうかも!」
 森川は大きく頷いた。
「従姉が今年三十歳で独身で。ママ、言ってるもん。あの子、どうしちゃったのかしらって。なのに私は、自分は恋愛も結婚も出産もいつかしようと思えばできると思ってた。子どもがどうやったらできるかも知らなかったのに」
 大人たちは隠しながらも、勝手に知っていくことを望んでいる。女性の生理のこととか、昔よりいっぱい教わるようになったと聞くけれど、それは形だけで、人の心はどれほど追いついているのだろう。
「私がお嫁に行ったらさみしいとか、子どもが生まれたらかわいいだろうなとか、パパもママも話してたけど、どうやってそこにたどり着かせるつもりだったんだろうね」
 今さら、その“ママ”があのあとどうなったのか、市村先生は教室に来たのか、教室に俺たちがいないことはどう説明されているのか、気になった。けれどもう、どうでもよかった。今、この時間のことよりも、これから先の、俺たちが大人としてふるまわなければいけない未来の方が、ずっとずっと大事だった。
「変なこと聞いてもいい?」
 森川が俺に顔を向ける。俺は首をかしげながら、曖昧に頷いた。
「子どもを作るためにはセックスが必要なんでしょう?」
「まぁ、人工授精とかあるみたいだけど、基本的にはするだろ、ほとんどの人が」
「親になった人たちは、どんな気持ちでしたのかな」
 気持ち。そのときの、気持ち。行為自体がいやらしいのだから、いやらしいことを考えた。そんな風にしか、思ったことがなかった。
「赤ちゃんほしいなぁだけ考えるのかな」
「でも、男は、それだけじゃ射精できない、気がする」
「そうなの?」
「興奮する、なんか、ないと」
 教えながら怖くなってくる。さっき押し倒したことなんかよりもずっと、いけないことをしている気がしてくる。森川は「ふうん」と頷きながら何かを考えているようだった。何かもっと違う言葉を使うべきだったのではと、俺が適当な言い訳を出そうとしたとき、森川が口を開いた。
「方法はちょっと恥ずかしいし、いやらしいことかもしれないけど、大切な命をつくるわけじゃない? 悪いことをしてるとか、ごめんなさいとかは、思ってなかったらいいな」
「なかったら、いいな?」
「自分の親のこと。エッチな気持ちはべつにいいけど、ネガティブなこと考えながら生まれたんだとしたら、申し訳ないなぁって思っちゃった」
 森川は、何も知らないからピュアなんじゃない。ちゃんと、誰かを思いやる気持ちがあるから、純真なんだ。
「俺も、そうであってほしい。あと」
 森川が俺の目をまっすぐ見る。今度は柔らかさを伴って。
「いつかもし、親になりたいと思うときがきたら、前向きな気持ちでやりたい」
 この世にいる誰も、必ず誰かの精子と誰かの卵子が結びついて生まれる。望んでそうなることも、想定外なこともあるのは、さすがに知っている。でもその過程になにが起きたか、何を考えていたか、それは人の数だけあって、これからも生まれる数だけあって、そして自分の気持ちは自分しか知らない。だからせめて命を望むのであれば、自分だけでも、けがらわしい行為なんかじゃないと信じていたい。
 森川の目はいつの間にか、どこか遠くを見ていた。
「市村先生も、そうだったらいいね」
「そうだね」
 俺も、見えない遠くの何かを見る。それが、明るいものであることを信じて。
 チャイムがなると、渡り廊下の向こうがかすかに賑やかになった。何時間目かのあとの休み時間、いやこれはもう昼休みかもしれない。腹も減った気がする。でも、教室に戻る気は起きない。
「せめて、エアコンつけようか」
 俺はゆっくりと立ち上がった。
「怒られないかな」
「今さら」
「そっか」
 森川はくすりと笑った。笑った顔は綺麗だった。
 なんだか俺も笑えてきて、でもさすがに電気をつける勇気はなくて、曇り空の薄暗い自然光の中で放課後まで読書をすることにした。
「今さらで悪いんだけどさ」
 今さらなことが多すぎる一日だったが、なんとなく話してみたくなった。
「名前、えまって言うんだね」
 森川は、なんだそんなことかというように笑って頷いた。
「愛に、一万二万の万、で愛万だよ」
「愛を、えって読むの?」
「愛媛のえ」
「あ、そうだ」
 おそらくこれまで何度も聞かれてきたのだろう。スムーズな説明だった。
「最初はね、千に愛で“ちあ”か“ちえ”を考えてたんだって。でも、千より万、よりたくさんの愛を、って。そういう意味があるみたい」
 お母さんの暴走も、愛ゆえだったのだろう。守ることが必ずしも正解ではないし、正しい愛ばかりではなかったかもしれないけれど。
「あとごめん、もうひとつ」
 俺が本当に聞きたかったのは、これだろう。
「なんで俺に助けてって声かけたの」
「中西くんは優しい人だから」
 今日一日で、一番迷いのない答え方だった。俺はうまく返せなかった。

 翌日から、森川は学校に来なくなった。俺は、腫物に触るように扱われながら、あることないこと囁かれた。
 実は付き合っていた、あの場から助けたことで付き合うようになった、密室でけがらわしいの意味を教えた……。最後のはある意味間違っていないけれど、やましいことはしていない。というか、互いの目指すものが一致していれば、やましいことなどこの世にないのかもしれない。
 数週間後、森川が転校した、と市村先生から告げられた。俺はもう、祈ることしかできない。でも、祈る。どこへいったとしても、森川愛万に愛があふれていますように。

                                   (了)