日常のささいな、

取るに足らないことを、たくさん話そう。

なんだか、いろいろあった日だった。前日から心が喜んだり、予想外の事実に心が固まって、それも落ち着いたり。乱高、急降下。からの、復活!

 最近とある習い事をしています。今後を見据えてというか、一生食べてく為に、ってのは勿論だけど。もし私に「天職」というものがあるのなら、私はそれを見つけたい。この歳にして、それにチャレンジしてる感じ。です。

「なんだか出来たつもりになる」「やっぱり足りない」「もうわからない」基本、その3つの繰り返しだ。提出した課題を毎回、真っ赤になって返される度、やっぱり向いてないんじゃないか、なんて落ち込む。自分の「得意」て何かな?必死で絞り出すけど、いつも足りない。でも、知れる「ナイ」「駄目」が、変かもしれないけど、向かうべきその先を感じさせてくれて、どこか嬉しい。そんな中、昨日は珍しく結構褒められた。その時なんとなく個人的に思ったのだけど、私は「矢印」が自分に向いてない方が、得意なのかも。例えば自己紹介とか。会話じゃなくて、自分のことを話せという場というか番が来ると、あれもこれも。というより何を話せば?ってなります。集めた視線と宙ぶらりんな空気の中ぷかぷかと浮いたままの皆さんの興味になんか無性に申し訳なくなって変な汗かいて「自分」を「会話」の速度でちゃんと人様に「表せる」気がしない。でも、それも訓練、なのかなぁ。

 それに比べて、矢印やフォーカスが「誰か」に向いてる時のが安心して自分のパフォーマンスというか、やるべき事に集中出来ます。珍しく褒められた課題の後、そんな気がして、帰りの駅で改めて褒めてくださったクラスメイトに「や。だって、私って本当に中身もないですし、立派な趣味や職歴もない。なーんの面白みもないですから!」そんな風に断言してたら「・・・超面白いわ!」ぷっと吹き出して笑われた。

「ねぇねぇあの人ってどんな人?」聞かれたら大抵は答えられる気がする。では、自分ってどうだろう?

「ねぇねぇ。このひと、どんなひとですか?」

 まず思うのは、よく「考える」ひとです。最近思ったのは、自己表現欲はあるけれど承認欲求、はわりとどうでもよいのかも?とか。(上手く言えるか自信はないけど)自分の中の「感性」というか、感じる力。みたいなものはわりと信じてるというか、自負はあって。で、ちゃんと「わかりたい」。わかった「それ」を正しく表現したい。そんな欲もあるけど、その結果については、無頓着。というか。「棚ボタ」的に、予想外に誰かが受け止めてくれて、何かしらの反応がもらえた時は、無性に泣きそうになったりもする。

コレガ「承認」ッテコト?

 承認。は未だ未開の地、というか。未知の世界に今、初めて挑む原始人。そんな事を考えていたらちょうど今更読んでるアドラーの『嫌われる勇気』にもそんな記載があってびっくりした。初めて「火」を目の前にして、右も左もわからないけど、なんかすっごい「文明の開化!」みたいに、この先にわくわくしている人。なので、どうぞよろしくお願いします。

 「自分てこういう人間です」なんとなくわかっていただけてる時の方が、物事がスムーズに進むような気がするから、わかっていただけるのであればとてもありがたい。でも他人にそれを期待してもねぇ。最近、そんな諦観の境地にもなってきている。誰かが自分を「評す」時。それがよくても、例え悪口とかだったりしても「あぁ、この人からは私って今、そう見えてるんだなぁ」と漠然としていて。自分もそう思うか、思わないか。お礼か釈明か、を告げる。そんな感じかもしれない(少し、疲れてるのかな?笑)

「誤解」に対する「説明」。そんな時くらいしか、そのような主張もあんまりカオを出さない。きっと、こういう文章を通してとか、採算、メリット、効率。そんなの度外視した本音トーク。そんなカテゴリーでしか、ほんとの自分てあんまり表現できないのかなって気もしたりする。ってあぁぁぁ書いてて悲しくなってきたから、止めます。笑 ちゃう、ちゃう。

 というより、単純にひとの本音がすきかな。ふとした言葉でも会話でも。私は、心にもない事は、言えない。と思ってるので。んー、だから、日々。ちょっとした、挨拶とか。目が合う、視線とか。会釈、とか。手を振る時、言葉を交わす時。いつだってそこにはほんの少しちゃんと向き合った真心、というか。込めてたいなぁ、大切にできるじぶんでいたいなぁと思います。

 感情と表情が、ブレやズレることなく繋がっていて。こころとことばの間に、出来るだけ溝が無く、一致するように。そんな風な在り方でいれたら、人がどうこういうのに、いちいちあんまり左右されなくなってき?く、ような。。。

 だから、そんな本気、本音を返してくれるひと、がすきです。人と話していて「じゃない」ものを纏われた会話、言葉を返されると、まどろっこしくてだけど、そのあたたかさも嫌いじゃなくて見守っています。てか、自分が本音が好きだから、って相手の心や言葉も勝手にひっぺがす、ってのも、だいぶ乱暴だよねぇ、そんな風に思うので、出されたままを。受け止めます。ひとが嘘をつくときは、守りたいものがある時だから。昔みた映画のせりふです。たまにみかんみたいに、受け止めたものを剥きむき、手のひらで皮をむいて「こういうこと?」って相手に一粒返してあげたりします。日常生活はそんなオブラートみたいにふわぁっとうすい何かで守られているけど、時々変なスイッチ入ってまんま丸裸で露呈する可能性もあるので、その時はすみません。笑

 もっと積極的に、意欲的ににひとと関わる、そんな努力をすべきなのかなぁなんて思ったりもするけど、無理してまで人と繋がってたい欲も、そんなになくて、一期一会。とか、一蓮托生。そこは自然に委ねていけたら、と。「勝手。気まま。」ん。元来好きにしてたい気風の人間だけど、意外と頑張れるのは自分の為じゃなく、「誰か」がいてくれる時。そんな感じもする。そんな「すき」をくれたあなたに、どうもありがとう。

いまだに自分の中で、noteという場所は何を綴るところなのか、ブログとの違いをきちんとわかっていないかもしれません。

私の中で、Twitterは人格と思考。​

Instagramはセンスと感性。そしてライフスタイル。

blogはそのひとの日記か、想い。時に誰かへの手紙。

そんなカテゴリーで位置づけてます。

noteはその中でも、少しだけ自由かなぁ。そのすべてであり、かつ「金脈」というか・・・

 私は言葉を探す時の、脳内への「旅」がすきです。思考の海にえーい。とダイブして、真っ暗な空間のなか、色々な言葉が、まるで「星」みたいに四方に点在する。自分はぷかぷかと、それこそ宇宙みたいにその中を漂って、泳いでその時、伝えるもの。「コレだ!」って言葉がなんか、ひときわキラキラ輝いていてそれを掴みにいく。その一瞬の煌き、掴んだそばから、言葉にして表していかないと、瞬く間に消えてしまいそうなほどの本当に一瞬の輝きで。必死で喰らいついて文章にするのだけど、時々言語化のスピードが追いつかなくて「・・・ゴメン、言葉」そんな気持ちで掴みきれなかったその先をそっと手放して、また宇宙の闇へと放つ。。。そんな一瞬の、ギリギリのやりとりが好きで、よく自分の中の宇宙と向き合ってます。

 下世話な事をいうと、先にnoteを金脈と表したのは、その自分の中のなんかしらのキラキラに通じる「鉱脈」を探り掘り進めるのが一般の「ブログ」とするのなら、noteには「金」の臭いがする・・・というか(下世話!)笑 自己満以上の表現に伴う、他者への影響。そこに対価として、金銭を支払って手に入れる。それは、クリエイターを応援する。という、このnoteというサイトの目指してるものと、その信念とか主旨と、相違はない気がして。

 金にする。のであれば、多少の「映える」「魅せる」意識は必要かもな。意地悪な言い方になるけれど。どんな自分を切り取って、見て貰いたいのか。そんな、他者の目線を意識した「演出」。そんな匂いもかぎとった。よく言えば、セルフプロデュース。悪く言えば…?特に思い付かない。笑 とにかくそんな最小コスパで自分を売る。そんな、自己満を越えた「何か」な、noteが好きです。笑

そんな事をわかりながら、相変わらずつらつらと、ただの自己満日記を書き流してしまいます。いつか、いつか無駄を搾り取って。お金を取るに値する記事を書けるのかしら。そんな気持ちでnoteに挑戦しています。

 「私」に興味を持てなくても、別にいい。から私の書いた記事。言葉。文章。にあなたの心がなんかしら動いて、反応してくれたのなら。とても、うれしいです。読んでくれて、どうもありがとうございます。

 今回この記事を書こうと思ったのは、昨日会社であったとあるインパクト大な出来事からでした。愚痴じゃなくて、どうにか言語化しないと、って。でも書いてるうちに、詳細どうでもいいや。なんてスッキリした気分になってしまったので、もういいや。笑 収まりきらなかった気持ちは、別媒体で、言葉にしてまたもや宇宙に放って、語ってます。笑 


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