眠れぬ夜のための【ファンタジー ショートショート】
今年の梅雨開け宣言はなかった。
どうせそんなことだろうと思っていた。
ここのところ有耶無耶に終わることが多かったし、ゲリラ豪雨なんかも増えてきたからだ。
仕方の無いことだとは思う。だけど、梅雨入り宣言はしているのに、しれっとフェイドアウトして終わっていくなんて、なんかズルすぎはしないか?僕はスルーされた梅雨明け宣言に対して、いつもそんなふうに思い、明ける頃になると毎日天気予報に目を光らせていた。
ところで、今回僕が気にしているのは、実は梅雨明け宣言のことではなかった。
僕は割と寝つきはいい方だった。出張のホテルなど寝床や枕が変わっても、割と平気で眠れる方だった。
ところが今年の梅雨明け頃から困った変調があった。眠れないのだ。朝まで寝つかれず出勤することもあった。その夜はさすがに眠れるだろうと思っても眠れない。結局三日三晩一睡もしない時もあった。
それが3週間も続き、さすがに不安になった僕は医者へ行った。睡眠薬をもらいおそるおそる試してみた。すると、2日ほどは効果があったものの3日目からは、また元通りになった。それでももしかしたら効くかもしれないと、いちるの望みを持って飲み続けるがやはりだめだった。
眠れなくなってひと月半ほどが経った頃、不思議なことが起こった。お盆休みの頃だった。
僕は今年のお盆は実家へ帰省していた。実家は海が近く、もしかしたら波の音で眠れるかもしれないと淡い期待もあった。
実家へ来て2日間、やはり眠れなかった。やはりだめか、僕は疲弊しきっていて、絶望的な気分になった。
そして3日目も眠れぬ夜をすごしていた。障子越しに月灯りが入る。僕はこれが眩しすぎるせいで眠れないのではないかと思い苛立ちながら障子を開けた。
ついでに掃き出しの窓を開ける。波音が近くなった。僕の実家は道を挟んですぐ海のあるところだ。道の向こうは数メートルの高さの断崖になっている。潮風がまとわりつく。夏といえど夜は少し涼しかった。それでも湿り気の多い空気を気持ち悪く感じた。そうだ、僕はこの感じが好きじゃなくてここから離れたんだっけ。
不意に月灯りが揺れたように見えた。僕が目を凝らすと、髪の長い女性が見えた。しかしいる場所がおかしい。断崖の上にいるならこんなに小さく見えるはずがない。海の上を飛んでいるとしか思えなかった。僕は目をこすってもう一度よく見た。やはりその女性は宙に浮いていた。そして魚のような尾びれを持っていた。
女性は器用に尾びれを操り宙を泳いでいた。いかにも楽しげな様子だと思っていたら、やがて笑い声まで聞こえた。僕は怖くなって窓を閉めようと思ったが、金縛りにあったように体が動かない。どうしよう、僕は見てはいけないものを見たのではないか。恐ろしくて仕方なくなった時、ハープの音色がした。そして彼女はそれに合わせて歌を歌い始めた。
その節回しはこの世のものとは思えぬ奇妙なものであったがとても心地よかった。また彼女の声もこのような透明感に溢れたものは聞いた事もなかった。2小節分ほど聞いたところで、僕は足に力が入らなくなりくずおれた。
朝、ウミネコの鳴き声に目を覚ました。ああ、実家に来ているのだ。
目はパッチリと覚め、体にもだるさの欠片もなかった。背中に羽が生えたかのように軽い。こんなことは眠れなくなって以来初めての事だった。
布団を片付けてから奇妙なことを思い出した。昨日見たあれは何だったのだろう、僕はいつの間に布団へ入ったのだろう。
けれど僕は実は腑に落ちていた。多分これからは眠れるはずだと。
あの歌声を、僕は子供の頃聞いていた。昨日と同じように。子供の頃の僕は美しい歌声に感激して拍手して、あの女性は喜んで歌ってくれたのだ。あの女性は人魚なのだと言っていた。
久しく忘れていたな、と思った。今回の変調は、もしかしたら彼女に呼ばれたのではないだろうかと思った。
案の定僕はあの日からぐっすり眠れている。
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