【一部修正・追記有】first"A"lphabetによせて

こちらは ELECTROCUTICA(ElektLyze)さんのアルバム
『Piece of Cipher』『Hysteresis』に収録の『first"A"lphabet』『first”A”lphabet mk-2』の歌詞について、作詞を担当したアサカワが綴ったものです。
すっごく長いので、お時間があるときにどうぞ。


◆まず前提として◆

この記事はELECTROCUTICAのおふたり(treowさん、時透さん)の現在の活動とは全く関係ございません。

端的に言うとお二人に何か動きがあるから、この文章を書いたというわけではありません。
ただ単に私の現在の状態の都合で筆を執った次第です。
今回の記事に関して、お二人へのお問い合わせなどはご遠慮いただけるようお願い申し上げます。

◆はじめに◆

こんにちは。アサカワ(春楡)と申します。
以前この名前で旧Twitterにいたので見覚えのある方もいらっしゃるかもしれません。こちらの曲の歌詞を担当させていただいたものです。

以前、MVがアップされたら歌詞についての解説や、担当した経緯を話しますーと言っていたのですが、どうして今この記事を出したのかというと。

大変個人的な、それもありきたりな事情です。
昨年11月体調不良で倒れ、入院することとなりました。
幸い生死に直結する病ではありませんし、長く付き合っていかなければいけないですが、安定すれば会社で働いたり、趣味のお出かけをしたりは充分可能なものです。
声帯にダメージでちゃったので、歌がうまく歌えなくなったのが残念なんですがね。

ただこの先何があるかは、年齢的にもうわからんなあ、と。
そして年月が過ぎて私も変わりました。あの時の感性や感覚は、もうこの先持てることはないでしょうから。
大切に思っている歌のことくらい、きちんと残しておきたいなぁと。
それだけです。

◆依頼を受けた経緯と曲のテーマ◆

友人を通じて依頼をお受けしました。ほんと友人のご友人、みたいなアレです。
創作はしている。作詞の経験はある。ボカロは好きだし聞く。でも、それだけ。
友人の「ちょっとやってみない?」というノリのままだったので、締め切りの有無の確認などもしなかった記憶があります。
思い返すたびに、よくこんな下地のない無知な状況で依頼を受けたなあと恥ずかしさで頭からつま先まで、まるまる土に埋まりたくなりますね。
しかもtreowさんにちゃんとそれをお詫びしていない気がする……あの時は本当に申し訳なく…。

音源をいただき、treowさんのそれまでの作品を聞いて、
選んだテーマは【少女としての意識】【湖の底】【電波塔】でした。

◆もう少し詳しいお話◆

これは
「作詞をしたアサカワが当時考えていたこと」
「アサカワが歌詞を書くにあたってオマージュにしたものについて」であって、「正解の解釈」とか「最初からこのコンセプトで曲が作られた」というものではございません。
作曲者様とアサカワの解釈も別だと思います。

歌モノなのだから、もちろん歌詞はもちろん大切です。
が、ボーカルメロディー作曲は緋翠さんが担当していますし
初音ミクが歌ってるのですから、そこに含まれるのは私の思考だけではないはずで。詞の解釈とはまた別に、歌として、曲としての解釈があるんじゃないかと思います。

だから下に書いた解説は正解ではないのです。
あなたが考えた正解がありましたら、そちらを是非大切にしてください。
もし解釈を深めるための材料になったらうれしいです。
旧Twitterやブログでいろんな考察や感想、絵を拝見できたこと。
とてもうれしかったです。

余談ですが、NaturaLeさん作の歌詞として考察されてる方が何人かいらっしゃって、NaturaLeさんの歌詞に憧れているアサカワは申し訳なさと同時にちょっとやったぜ的なうれしさも感じていました。

◆タイトルについて【追記部分】◆

歌詞のまま『最初の文字 最初の理』です。
一番根底となる、その人の生き方の筋道です。

どうして『阿字』なのかは、この後の◆影響を受けた作品など◆
の項目を読んでいただければと。
だいぶがっつり影響を受けている。ちょっと恥ずかしいくらい。

◆『少女としての意識』◆

first"A"lphabetは『少女としての意識』を持つ人の顛末を書いた詞です。

素敵なもの、美しいものを愛し、何かを縛り付けず、何にも縛られない。
他人に侵されることなく誇り高くあろうとすること。
そのためにすばらしく敏感で、居丈高。素敵でないもの、無神経なものには苛烈なまでに批判し、自分の世界には決して踏みこませない。
『少女としての意識』を私はこういうものだと定義しています。
文字にすると手放しに誉められるアレじゃないですね。

これはあくまで意識としての『少女』なので、文字通り小さい女の子だけに備わってるものではなく、実年齢性別問わずに持ってる人は持っているものと思っています。

※ただ、これは2024年現在の私の感覚からいうと、もう『少女』という枠より、ほんの数歩、先へ行っているのではないかなあという気がしています。
この記事では一応当時の考えのまま書きますね。

少女趣味ともちょっと違います。「ガーリー」という言葉は含まれていても、全てを表す言葉ではありません。
その人にとっての好ましいものが万人にとって好ましくない場合もあります。グロテスクだったり、とある人にとっては都合が悪かったり。
様々です。

そのものを自分の世界に迎えるべきかどうか、自分の生き方として間違ってはいないかを判断し、それに反するものは視界にも入れない。
ましてやそんな生き方を侵害されれば、なんで!?と疑問を持ち、時に声を上げることを恐れない。

そんな人を書きました。

最初にも書きましたが、この『少女としての意識』をもつことは、決して世間的に褒められたことではありません。
醜いもの、無神経に思えるものを許容しないからです。
幼いころには「生意気」「ませている」「いじわる」と言われてしまうかもしれません。
年齢を重ねてれば、「何を子供じみたことを」「物わかりのない」「変わり者だ」と言われてしまうかもしれません。
さらにその高潔さ(裏を返せば傲慢さ、ですが)に救いを求める人なんかもいて、反する対応をすると、急に掌を返される。

そうして自分にとって許せないものを排除し続けた『少女』は、逆に世界から石を持て追われ、軋轢でその身体を、精神を擦り減らしていきます。
怒り、やるせなさ、大きな腕に問答無用で薙ぎ払われたような無力感。

自分にとって何より大切だった美しい世界は、水底に沈んでしまった。
彼女のように気高く生きたかったのに、その人すらこの美しい世界を出て外の荒れ野へと去ってしまった。
あちこちに傷を受けて、どんどん鈍感になっていく少女は、世界が終焉にむかっていくのを、ただただ湖の底から見上げています。

◆影響を受けた作品など◆

例えば「少女革命ウテナ」や「プリンセスチュチュ」。
他にもたくさんの作品に影響は受けておりますが、
この『少女』の大元のイメージは、野溝七生子の小説『山梔』の主人公、阿字子です。

授業の課題として出会った小説でした。
読後、殴られたというよりじわじわと効くボディーブローを受けたような衝撃がありました。
大正時代では当たり前とされる価値観から異端と言われ、彼女の愛する家族からも見離されて行き詰まり、家を出て海辺へと駆けていきます。
結末としては非常に美しいけれど、ずたずたになった彼女が痛ましくて仕方なかった。

この小説に出会った頃、いくら言葉を尽くしても家族や近しい人たちにうまく伝わらず、理解してもらえない経験が私にもありました。

大人になった今、同じ思いをすることも少なくなりました。ほぼないといってもいいくらい。
血が繋がってようが、価値観が似てようが、全く同じ生年月日で同じものが好きであろうが。
別人なんだから、理解なんてそうそうできるわけがない。
振り返れば尽くしたつもりの言葉は足りていなかったし、
そもそも悲しみや寂しさは自分だけのもので共有なんてできるわけがなかったのに。

もし現在の私がそのまま、この小説を読み終えた所にいたとしても
「しんどい。つらい。語れる語彙力がない」
そんなことしか言えずに思考を放棄してしまったと思います。
悲しむことも怒ることも、その気持ちを何かしらの作品としてアウトプットすることもおそらくできなかったでしょう。

◆どこかにいたかもしれないあなたへ◆

予告:演奏風景動画が2009年なので10年以上の時間が経っていて。
月並みですが、この時生まれた子が中学生!なんですね。
今となってはCDを手に入れることが難しい曲ですが、きっとこれからこの曲に出会う方もいるのかな、と思うとちょっとわくわくしますね。

あまりに長くなったのでこのあたりで終わりにしましょう。
最後に、すこし芝居がかった言葉になりますが。

当時この曲に触れた方々の中に、
『少女』のように怒り、悲しみ、打ちひしがれた人が居たとして。
その人が、この世のどこかで今もどうにか楽しく生きていて、
その心の隅っこに、この曲や歌詞が少しでも残っていたとしたら。
それは私にとって、救い以外のなにものでもありません。

私もなんとかぼろぼろになった『少女』を宿したまま、
人生を歩いてみたりしております。
どうかあなたの中の『少女』の傍らに、梔子の花がありますように。

◆参考文献◆


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