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強いられて、強いられて震える

 毎日note更新中です!!どんどん文章を書くことが楽しくなってきました!!

 今回は、「強いる、強いられる」ということについてまとめていきたいと思います。

強いる、強いられること

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 まず、強いる、強いられるということはどの様なことなのか、改めて考えました。ここで、アカデミックな方法として辞書的な意味から辿ることも必要であると思いますが、今回は敢えてそんなことは参照せず、私の思う「強いる、強いられる」ということについて考えます。それは、

強いる、強いられる = 諸刃の剣になり得る行為

ということです。つまり、強いる、強いられることによって、誰かが傷ついてしまう恐れがあるということです。これに関してもう少し詳しく述べます。

制限すること、強いることは完全に異なっていると考える

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 ここで、重要なこととして、「制限する」と「強いる」ことは異なると思います。制限することは、限度を設けるということであるので、その限度内では自由を利かすことができるということであると思います。

 それとは一方、強いるということは、上から押し付ける様なことであるので、だんだん自由な空間が時間的に小さくなっていく様なイメージがあります。

 この2つは本当に大きく違います!!よって、強いるということを使い過ぎてしまったらどの様なことになるのかということは普通の方であれば想像できるかと思います。

別に、全面的に「強いる」ことが悪いわけではない

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 ここで、注意してほしいこととしては、あくまでも私は「強いる」ことを全面的に押し付けているわけではないということです。

 むしろ、制限するということは、より自由が利きますが、最大値が抑えられているので、ある一定のレベルに達したらそこから抜け出すこと(突飛抜けること)はできません

 ですが、「強いる」ことによって、もしかしたらもともと原動力のない様な人に何かエンジンをかけることができるきっかけになるということです。その意味では強いることも全く悪くはないです。

でも強いられすぎると震える

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 でも、強いられ過ぎてしまうと、今度はその人の「エゴ」に影響があると思うのです。つまり一種のAI的な人間になってしまうのです。これによって、生きることへの価値観というものはどの様になるでしょうか。想像できる様に、生きることへの価値観は薄れていくと思います。ですので、必要な時に使う「薬」の様なものですよね。

 少量であれば服用して良いが、過剰量の摂取によってダメになってしまうので、計画的にということでしょうか。

もし「強いる」ということがこの世の中からなくなったら...

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 ここで、考えてみたことがあって、それは

もし「強いる」ということがこの世の中からなくなったら、世界はどの様になるのかな

ということです。

 強いることがなくなっていくと、周りからの圧力(物理的にも精神的にも)の大きさが小さくなるので、これによって個人に自由な空間がより与えられる様になります。ですが、強いるということがないがために、ある一定数の人々はずっと彷徨(さまよ)い続けてしまうことが考えられます。

なんか、ブラウン運動の様に...

 ずっと自由すぎても、今度は何か生活習慣に関しても影響が起こると考えており、生活リズムが崩れやすくなるので、多くの人がもしかしたら「不眠症、過眠症」に陥ってしまうかもしれないです(学校や職場のおかげで規則正しい生活を送ることができていたのかもしれないです)。として考えると、「強いる0%」であると別の怖いことが生じそうです。

 ゆえに、強いることは少なくとも必要ではあるということが予測できそうですよね。

 逆に強いること100%を仮説したらもうめちゃくちゃですよね(笑)。

だからと言って、強いることの均衡値は考える必要性はない

 強いることの均衡値は人それぞれですので、いちいち考えていることは時間の無駄になるので、時々刻々で様子を見ると良いですよね。

終わりに

 今回も、私の頭にあることを中心としてぶん投げた記事になりました(笑)。何かご意見があればnoteのコメントや、Twitterでの質問箱(できれば本当は本名で議論したいです!!)でも受け付けています!

本日もありがとうございました!!

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