点滅しながら破滅をまつ夏
アルコール漬けの1週間を過ごした。連日二日酔いの体たらくである。私のだらしなさとかでは決してなく、そういう催しが多くなる季節だからだ、夏が。後悔と希死にまみれても汗が流れ出て格好がつかない夏は好きだ。
この世にはうまい酒としょうもない酒の2種類がある。勤務しているブルワリーの研修会(と称して、鵜飼船に乗って他ブルワリーのクラフトビールを飲みまくる会)はけっこう楽しかった。なくなった葬儀屋(葬・葬儀屋)ビルのてっぺんに登って、この土地に越してきた特典みたいな、でっかい花火大会を初めて見た。それも良かった。
最近ブルシット労働が本当にダメ期だ。意味が、意味がわからない。意味。意味とは?無意味濃度が高い。無意味味(むいみみ/むいみあじ)。
とはいえ私が持っているのは、サブ仕事のタップ・ルームにおける飲食業を拡充させ100%の感情労働に勤めだすとすぐに壊れてしまう、やわらかい心。つくづく接客業の才能がない。そして、その他の才能もない。フォトグラファーとして食っていく才能も、文筆で生計を立てていく実力も、デザインで切磋琢磨しながら感覚を精錬させる根気もあるわけがない。すべてが中途半端なのだ。いや、ハナから諦めて自己卑下に傾倒するこの態度こそが、真っ先に向き合うべき欠点なのは百も承知だ。
撮影の仕事を個人的に頂き、1時間弱、落ちていく夕日を直視していた。
あくる朝から閉眼幻覚がお友達になってしまった。目を瞑ると、サイケデリックな年輪やキラキラが視界いっぱいに広がり、シニフィアンめいた象徴物がとつぜん現れ、軽微な吐き気がやってくるのと同時に消えていく。
そういえば聖人の修行に、ひたすら太陽を見続けるというものがあったような気がする。俗物がマネをするとこういうハメになるのか。太陽を見つめすぎた昼を過ごすと、よくねむれない夜が来る。
幻覚がもたらす疲労感が蓄積するとともに、ブルシットに対しての嫌悪感が募っていく。
いったいいくつの職場をばっくれ逃げただろうか。Tinder芸人が言うところの「関係を持った異性の数」同様、バカバカしくて数える気にもなれない。
惰性で定期券を更新した。あと1ヶ月耐えてみる。
時間があればベランダにプランターを置いて野菜やハーブを育てたいのに。のにね。それからミシンがほしい。刺繍もしたい。袖口に(チャンピオンの位置だね)うさぎさんの刺繍が入ったTシャツを着たい。
冷房の効いた暗い部屋でアニメ版エヴァから旧劇まで(面倒くさいオタク・自意識だ)一気観したあと庵野監督の式日観て、プレステでシリアルエクスペリメンツレインやりたい。エヴァ短歌詠みたい。
今は仕事の無意味性を全身で知覚できているが、また少し憂鬱が落ち着いたり、週5労働に慣らされてくると、「みんな我慢してお金を稼ぐためにやっているから、まあまあ、もう少し頑張ってみますか、お金ほしいし」というふうになってくる。そうやってやりすごすことが良いことか悪いことかなんて最も事後承諾の合理化的モンダイだし、ようはどちらを選択してもいいのだ。だが、明日おっきな地震が来て命を落とすとしたら、私はたぶん後悔するだろう。そういうことなのだ。お金がなくなり困窮するかもしれないということに対して、わずかな勇気を。
→なんかまた平気になってきてしまった。は?
意味……、意味がわからない。なんなんだ?意味、とは?
◯限界かつ読書
困っていることがある。どうしようもない問題だ。うまくいかない。
だがこの身体は生きようとしていて、過剰を求めて、すなわちドーパミンを放出したいという欲望に駆られて、どうにも他者を巻き込まなくては充足せぬのではないかという思い込みに囚われ、醜い。
自分のことが醜くて仕方ないと思ってしまう相手はきっと、あまり相性がよくない。あまり相性がよくない相手と一緒にいたくて仕方がないと願うのはカンペキに私の都合であり、ゆえに、このことは私の脆弱性が招いた災であることは重々承知しているのだが、月に一度、決まった周期で、理性がままならなくなる。ほんとうに言い訳とかではないのだ。
悔しい。この感情の起伏がなければ、私はもっとよりよい人間になれた筈なのに。
世界の全てから劣っているという圧迫感と、世界から見放されたような疎外感、この身にできることなど何もないと確信めいた無力感、三感分立。それぞれがそれぞれを抑圧したり干渉したりしながら、果てのない抑鬱を形成する。千代に八千代に。
書店で装丁買いをした。映像を撮る芸術作家のエッセイ集らしい。この人の作品は21世紀美術館の企画展『フェミニズムズ展』で少しだけ観た。当時は当時なりの恋人が隣にいたため、1時間弱のこの作品にじっくり取り組むことは叶わなかったが、たしかに観たことがある。
私は基本的に「私のことが書いてあるかと思った」とか「この歌詞、私のことだ」みたいな感想が大嫌いなのだけど(なぜなら、何も言っていないに等しいからである)、そういうことを言う人たちの「未分類の感情が整然とした」みたいな幻想的溜飲が少しわかった気がして、癪では、ある。
結局のところ、こういうことでこういうところだ。見捨てられ不安と甘えが大部分を占める定礎的欠陥を抱えながら、なるべく穏やかに生きなくてはならない。そのさい、世間がどうだの杓子定規は用いなくても(もちろん、用いてみても)よく、折り合いのつく形を探って、実現を図りたいのだ。
私も数人のパートナーと暮らしながら、熱海まで恋人に会いにいけたらどれほどいいだろうか。そういうことを実現させたいのならば、もう少しよりよく生きなくてはならない。マシュマロ・テストの実践というやつだ。
夏はいい、少し外を歩くだけで大汗が流れ私領域を拡大していく。
点滅舎さんのこのツイートとても好きだった。まさしく。
私もここで破滅を待ってみるつもりだ。
しめつけろ、疎外・圧迫・無力感 点滅しながら破滅をまつ夏
◯今日の音楽
ディスクガイドを積みすぎて、耳がなくなってしまった。この世には聴くべき音楽が、多いな。当たり前、ですねえ。
ニュ~・エイジ、かっこいいぜ~。じりじり。
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