思想と美意識?

河合隼雄氏の『私が語り伝えたかったこと』から、メモ。

”日本人の場合、自分に対する存在としての神、というよりは、自分を包む存在としての自然ということが、宗教の中核にあるように思う。”

”日本では、茶道、華道などという考え方があるように、お茶を飲むとか花をアレンジするとか、欧米であれば日常生活に属することが、「道」という超越的な考えと結びついてくる。このようなことをベースにしているので、家庭内における日常生活が、知らず知らずのうちに広い意味の宗教につながってくるのである。”

”日本人はその行動を律するとき、倫理観よりも美意識によっている方が多いのではなかろうか。何らかの重大な決意をするとき、「私の美意識によって」と言ったり、何かに反対するときも、「私の美意識が許さない」と言ったりする。その方が一般にも通じやすい。新聞や雑誌を見ていでも、著名人が「私の美意識」を判断の根拠に持ち出すことが、よく見かけられるが、そのとき「神の御名によって」とか「仏の意志を体して」という人はまずないと言ってよいほどだろう。

ここで美意識が登場するのはどうしてだろう。おそらく、日本人の宗教性は偉大な存在、神に対して生じるのではなく、偉大なる調和に対して生じるのではなかろうか。一神教における神という一者、と自分の関係のなかで考えるのではなく、自分をも含めた全体のもつ調和を大切にする。その調和の感覚を美意識と表現していると思われる。”

また、以前、吉本隆明氏が対談で、”日本は、例えばお茶はどう点てて、点てることはどう意味があるのかといった意味での思想とか、芝居はどう演ずるのか、年齢は演技とどうかかわるのか、ということについてとかは見つけやすいが、思想を思想自体として抽象的に述べたものを見つけるのは難しい。”というようなことを語っていたのを読んだことがある。

抽象でないわけではないと思うが、概念にはしない。


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