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「自分が愛されなかったから、自分の子供は愛せないのではないか」という心配について

世間一般ではという理論が染み付いてました

物心ついたころには「親になるのが当たり前」「子供をもつことが幸せ」という暗黙の了解のような、世間の圧力のようなものがありました。
世間一般では当たり前、という理論。
私自身も正直、親になって子供をもつようになるのかな、と漠然と考えていた節はあります。

虐待を防止したいという活動をはじめてからおよそ5年くらいになり、
(NPOみたいにバリバリやってるわけじゃないですが)
自分の虐待経験はつらかった、という気持ちの方と言葉などを交わす機会も増えてきました。
その中で

「自分が子供を愛せないんじゃないか、虐待してしまうんじゃないか」
「自分は子供をつくらない」

という意見はわりとよく耳にするようになりました。

「子供はつくらない」という選択肢

それまで「結婚して子供を作って、でも虐待しないように頑張って子供は幸せにしていく」という願望はあった自分としては、
「好きで結婚はしたけど子供はつくらない」
という選択肢があることにだいぶ衝撃を受けた記憶があります。

虐待をしてしまうんじゃないかという恐怖、
それはよくわかります。
親自身も被虐待者だったとしたら、
そう思ってしまったら、自分もそういう血が流れているのではないか...

そういった気持ちも同意できますし、
「虐待をしてしまうんじゃないかと恐怖し、自らを正そうとしているのであればきっと大丈夫」だとも思っています。
なんとかしたいとずっと苦しんできた人たちですから。

虐待の連鎖を断ち切るのが
つらい気持ちを抱えた側、というのがなんともやりきれない部分ではありますが、
やはり自分たちの世代以下には受け継ぎたくない、とも思います。

どういう選択肢でもOK

もちろん、子供を育てる自信がない、だからつくらない、という選択肢もありだと思います。
これだけ色んな種類の税金を払っているのだから、もっと社会保障充実させてほしいですし、
安心して子供を産める世の中になってほしい。
核家族(両親+子供)で子育てをするのは戦後からスタンダードになったまだ新しい育児環境ですし、だんだん地域全体で育てるというのは聞かなくなってきました。
子育てに対する負担があまりにも大きい。
そして経済面で共働きがやはり当たり前のようになってきてることも、やはり負担をかけているようにも感じます。
もちろん働きたい人は働いたほうが精神的にもいいでしょうし、
もう女性だから家にいなければいけないという時代でもないので、男が家事を担うのも有りだと思います。
世の中は豊かになったのに、だんだん貧困になっていってるようであべこべですね…。

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改めて、親に愛されなかったという記憶は、方向性はどういうものであれやはり影響は大きいなと感じました。
やや考えがまとまってない部分もありますがご一読くださりありがとうございました。

※子供に対してつくる・つくらないという言葉が正しいかどうかはこの記事中では言及しないものとしています。

ここまで読んでくださりありがとうございました。 もし活動にご共感いただけましたらサポートいただけますと幸いです。