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アサイゲルマニウムとは何なのか 第二章(長編連載~)2023年5月29日第3話掲載(第二章完結)

第二章 浅井ゲルマニウム研究所函館研究所の建設

1.函館赴任

1996年の秋、7年半住み慣れた帯広を去る時が来た。6年ともに暮らした飼い犬プルーとともに、愛車RAV4に乗り、恐らく当時は高速道路もなかったので12時間くらいはかかったように記憶している。

帯広から一緒に函館へ来たプルー

夏場に一度函館を訪れ、住む家を決めていた。箱館戦争の最激戦地であったとされる千代台古戦場付近、中島町の中島三郎助親子最期の地碑の前にある古い戸建ての家で、犬を飼うためにアパートやマンションではなく、戸建ての貸家を探した結果、給与に見合う家はここに限られた。住んでいる間、よく人の居ない二階から走る音がドタドタ聞こえていたが、ある時、留守中に石鹸が不自然に減り、更に数日後には犬の餌袋が下の部分に穴が空き固形カリカリ餌が玄関にぶちまけられていた。そして私は見た…。夜中に巨大なラット;ドブネズミが廊下を疾走するのを(笑)この家は恐らく築40から50年を経て、多少のリフォームをされて貸し出されていた物件で、当時の函館で格安物件だった。格安にも関わらず、史跡・五稜郭から近く、繁華街である本町からも歩いて10分程度の便利な場所であった。中島三郎助父子は幕軍の千代ケ岡陣屋の守備について、箱館戦争で最激戦地だったこの地で決死の覚悟で最期まで戦い抜いて散ったことが知られている。

最寄りの食料品販売場は西武デパートの地下(デパ地下です!笑)で、ぼくの生活水準では購入を躊躇する素材が多かった。25年以上経た今では西武も閉店してしまい、住んでいた家も取り壊されてしまった。
函館に到着して2日後、函館研究所建設現場事務所に出勤した。函館研究所は臨空工業団地という場所で、この中島町の住まいからは車で20分ほどの場所だった。当時は未だ研究所が完成しておらず、鉄骨が組み上がり、やっと外壁が取り付けられた頃だったように思う。
ぼくたちが勤務した二階建てのプレハブの現場事務所には、新築プロジェクトを請け負っている三菱化工機(以下、化工機と略す)、そして建物の建築を請け負っている鴻池組をはじめとし、工場と研究所の両者を兼ねる施設の建設にかかわる様々な業者が出入りしていた。ここで来てみてわかったことは、浅井ゲルマニウム研究所から来ている人間は、ぼくの半年後にこの移転プロジェクトのために入社した梅田さんだけで、ぼくがやって来たことで二人になったということだ。そして、それから毎日の出社後の全関係者でのラジオ体操、ヘルメット着用で作業着を着ての建築業務がはじまった。「話が違うよぉ」

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