アサイゲルマニウムの営業マンはつらいよ 2
第三話 アサイゲルマニウム販売会社で(II)
1.バトファさん
さて、第二話でアサイゲルマニウム生誕50周年集会のことを記したが、少しそこでの出会いにまつわることを書いておきたい。まずは佐々木嘉丸さんとの出会いについて。
実は佐々木嘉丸さんは50周年集会に参加された方ではない。
このパーティーは、アサイゲルマニウムに関わるものなので、本来は浅井ゲルマニウム研究所の主導で開催されるべきものであるが、浅井ゲルマニウム研究所では余力はなく、派手な企画は考えられない状況だった。ただ、50年という節目に過去を振り返り、どのようなことがあったのか?を会社の記録として残すことは大事なのではないかとぼくは考えていた。そこで、前役員であった二人の方々(研究所創設の直後くらいに入社し様々なことを知っていた)に過去のことを文章に残してくださいと頼んだ。しかし、別々に頼んだのだが二人とも生返事で、なんとなく承知したような雰囲気だった。だが、結局は7年経過する今も実現されることはなく、うち1名は既に故人となってしまった。そんなこともあり、ぼくは自分の過去を記しておこうと思い『アサイゲルマニウムとは何なのか』を書いた部分が大きい。
それはさておき、本来は浅井ゲルマニウム研究所であるが、第二話に書いたように営業的な面も考えて、50年目を機に認知を広めること(どちらかというと再認識)で良さを分かってもらい、使用量を増やしてもらいたいと願っていたので、販売会社が主体になって様々な企画をし、グループとして全体で行うことを目指した。もちろん、この販売会社側にパーティーをするだけの余裕があったわけでは決してない(笑)そんなわけで、販売会社の取引先(仲卸顧客)の皆さんが招待され、アサイゲルマニウムの面白さや物質の持つポテンシャルについて、前述した前半に行われた講演会で紹介されたというわけだ。
講演会の終了後、招待された皆さんでの会食パーティーがあり、一同に会した古くからのお客様たちとの面会が叶い、多くの名刺交換を行ったのは本当に幸いだった。会社名や個人名は顧客リストなどで見ていたが、第二話に記した獣医師の皆さんを一部知るのみで、ほとんどお会いしたことが無かった方々だった。幸運にも(というか目論見だったのかもしれないが)ぼくは最後にプレゼンをしていたので、お客様の印象にも強く残っており、名刺交換をする際には皆さんから「本当に素晴らしい素材だと改めて思いました!また、普及に努めますね!」との話を頂いた。そのことは有り難く、励みにもなったが、一方で難しいことも分かっていたし、実際のところは売れ行きが良くなるというものではなかった。当然のことだ。要するに、最初に書いた通りでエンドユーザーに対して何のメリットも伝えられないのだから、仲卸の皆さんも売り文句を持たないわけだから・・・。
さて、暫く経って(1、2ヶ月後?)から本社の社員Kさんから電話をもらい、Kさん「〇〇〇〇の大橋さんの紹介で外国人の方が中村さんに会いたいと言っていますけど、どうされますか?」、ぼく「外国人ですか?ぼく、ほとんど英語話せないですけど・・・(汗)」、Kさん「あ、大丈夫ですよ。日本人かと思うくらい日本語お上手ですから!」、ぼく「あ、あぁそうですか・・・それなら来てもらっても大丈夫です(笑)」という具合で、数日後のアポイントで成城の事務所に来てもらった。
嘉丸さん「こんにちはー。はじめましてー。バトファ・ジャパンの佐々木嘉丸ですぅ。あと、新入社員の女の子ですぅ。デザインをお願いしてる○○○○の大橋さんが素晴らしいものがあると言って教えてくれたので、話を聞きたくて連絡しました。」、ぼく「そうですか、大橋さん、50周年の集会で私の話を聞いて興味を持って紹介してくださったんですね!」ということで、嘉丸さんとの初対面を果たした。一通り挨拶した後、アサイゲルマニウムについて説明することになった。
さて、説明が終わったところからの質問攻めが始まった。恐らく、ぼくがアサイゲルマニウムに関わるようになってから、一番の質問数だったように思う。
物性について、原料について、機能性について、研究について、同業者について・・・そして、外国での状況について。
嘉丸さん曰く、少し前にパキスタンにいるお母様を癌で亡くされた。自分は若い時に日本に来て、最初は絨毯を販売する会社に入り、その会社が倒産して中古車販売の仕事に関わるようになり、日本の中古車を海外に販売する仕事で成功を収めて収益は十分ある。しかし、お母様を亡くしたことで”健康”について意識を強く持つようになったという。中古車販売は儲かっているが、(もっと)人のためになる仕事をしたい、人が健康になるために働きたいのだという。そこで、アサイゲルマニウムが本当に健康のために良いものなら、全世界に広めたいのだそうだ。
そんな嘉丸さんの質問に、ぼくは全て答えた。そして、そんなに素晴らしいものなら是非とも扱いたいという前のめりになっている嘉丸さんに、ぼくは言った。「この仕事は儲かりませんよ。」、嘉丸さん「え?なんでですか?」
そもそも、この会社の製品は原価が恐ろしく高く、国内販売でも興味を持つ会社さんはあっても「その掛け率では無理!」とのことで頓挫する。何度そのような経験をしたことか・・・。しかも嘉丸さんは海外に出したいという。全く無理な話だろう。まぁ、ぼくは海外から直接問い合わせてきた英語のメールに対応し、本当に困っていそうな方には商品を建て替えて買って、自分で郵便局に行って個人として送ってあげてきた。もちろん、会ったこともない人たちでもあるので、送料も含めて向こう持ちで、振り込んでもらってから送るという形だった。販売会社としては海外へは一切売らないので、「購入したい場合は日本に来て買って帰るか、日本の知り合いに買って送ってもらうかしてください。」という対応だった。さらには、米国FDAがゲルマニウム化合物は毒”Poison"なので輸入は禁止していて、しかも米国内産か外国のものを輸入しているか分からないけど安くGe-132とかGermaniumsesquioxideが売られているのが現状だ。他の国々も米FDAに右へ倣えの状態になっている。
まぁ、あまり儲けにはならないけど、送料や関税などを先方持ちで日本の定価に乗せて売るのなら、赤字にはならないんだろうなぁ・・・でもそれじゃあなぁ。きっと話にならないな、と考えながら話を続けた。
嘉丸さん「ライバル会社はどうですか?ありますか?」、ぼく「あぁ、何社かありますよ。作り方は違うし、安全性の確認はしていないので、うちよりかなり安いです。」、嘉丸さん「でも、それは違うものなんでしょ?」、ぼく「全てをチェックしていないのでなんとも言えないですが、昔は粗悪なものも多かったので死亡事故も多くおきたようだけれど、最近は流石に品質も向上していると思います。少なくとも、ここ二十年ほどは他社製品での健康被害事故は生じていないし、直ぐに死亡したり体調がおかしくなるレベルではないと思います。」、嘉丸さん「え?それじゃあ難しいでしょ!」、ぼく「はい。非常に難しいですね。彼らは私達のデータを使って自分たちのものは安全だとか、効果についてもアサイゲルマニウムのデータで話しているようですから。安い方が良いという人は、そっちに行くでしょうね。まぁ、私達は安全性確認している作り方でずっと作り続けていて、よりレベルの高い品質にしていますが、そのような安全性試験ひとつとっても数千万円費用がかかったりしますから、そのような経費がかかる分高く付きます。それに私がやってきたような研究も、ただ作って売るということなら不要ですが、世の中に無かったものを作り出したメーカーとして、どのように作用が現れるのか、より良い使い方はどうしたらいいのか、そのための研究は絶やさず行ってきましたから、そういった研究費用・人件費も製品の価格に反映せざるを得ません。」
嘉丸さん「・・・・・」
しばらくの間があり、諦めるかなと思った時。
嘉丸さん「中村さん、私、中村さん好きになったよ!」、ぼく「??」
嘉丸さん「中村さんの話を聞いて、悪いけど商売下手だなと思ったよ。普通は自分の商品はどんなに良いのかを言って、他の会社のものをけなすけど、中村さんは、ライバルをそれほど大きく酷いレベルのものじゃないし、しかも安いって言うし。私、中村さんの正直さが気に入ったよ。私の聞いた質問も全部答えてくれたし、こんなに知識があるのはすごいことだと思います。ゲルマニウムのことも本当に病気に効果を出してきたものなんだって、そんなに凄いなら私も扱ってみたいです。はっきり言って売れるかどうかわからないけど、一緒に外国に売りに行きたいです。売れなくて失敗したら、その時は一緒に車売りましょう!」、ぼく「????(車売るの?)」
笑って、その場は終了し、一体どうなることか・・・と、ぼくは先のことは分からず、天の配慮に任せることにした。
その後、函館に戻って、ぼくは「あのさぁ、そのうち車を海外に売る仕事するかもしれん・・・」と妻に話して、「はぁあ??」ってなった(笑)懐かしいけれど、今のところぼくは車売りにならず、今もアサイゲルマニウムに関わっている。
これが、嘉丸さんとの出会いの1日だった。後日知ったのだが、嘉丸さんは、パキスタン人として生まれバトファ家のカマル、バトファ・カマルさんとして来日し、奥様と結婚して帰化されて佐々木姓となり、佐々木嘉丸さんになった。旧姓を社名として残して株式会社バトファ・ジャパン(日本のバトファ)とされたのだ。今日、嘉丸さんと嘉丸さんの会社バトファ・ジャパンは大切なビジネスパートナーとなっている。
2.バトファさん(その後)
嘉丸さんは、その後速やかに取引するようになった。最初は販売会社の仲卸として始めようとした。しかし、利益率の問題と、もう一つ立ちはだかる大きな壁があった。それは、アサイゲルマニウムの主力製品であるカプセル製品はインターネットに乗せるeコマースでは流通させないでほしいという(笑)無体なお願いに寄るものだった。ぼくの会社のカプセル商品は隠し商品になっており、ホームページでも出てこないし、ネット購入も無いという2018年には時代錯誤な状態だった。このあたりも、新規卸売客の獲得には障壁となっていた。そんな訳で、ぼくの戦略として時代錯誤解消により普通に手に入れられるシステムの構築が社内の方針になった。当たり前に普段他の物を買う時に使っているようなプラットフォームで買える…というのを目指したわけだ(爆笑)だって、ぼくなら絶対こんな面倒な状態なら買わない自信ありましたから!少なくとも、そうしてドロップアウトしている見込み客を購入できる(しやすい)ようにしてあげるだけで、たかが知れているけど顧客は増えるだろうということ。でも、そのあたりは嘉丸さんとは関係ないので、改めて別の記事にしようと思う。
そんな訳で、この売れ筋商品を嘉丸さんのところのホームページでも扱わないでほしいという無茶振りのお願いをしたわけだ。バトファ社からすれば、全く意味不明な依頼だろう。折角、売ってあげようとしているのに、売りにくい状態を強要しているわけだから。馬鹿らしいからやめる!と言われても不思議ではない。でも、嘉丸さんは、「分かりましたぁ。でも、代わりにオリジナルで製品作って売ることは出来ますかぁ?」と軽く受け入れつつ、別の提案をしてこられた。まぁ当然そうなるよね。そこで、「もちろんです!私は浅井ゲルマニウム研究所の役員なので、そちらの仕事としてカプセル製品の受注を承ります。」、嘉丸さん「それじゃあ外国に出す用向きの製品をお願いします!」ということで、ボトル入りのカプセル製品とPTPシート入りの箱製品とが作られるようになった。ただし、他の製品群は販売協力していただいて現在に至っている。
嘉丸さんは、外国の富裕層に日本の車を輸出する仕事をしてきたので、それらの方々に次々にアサイゲルマニウムを紹介した。そして、結果として何人もの方々が、結構進んだ状態の癌から寛解し、ますます自信を深めていった。一つの転機があった。日本ではまだコロナ禍に突入し始めたばかりの頃、海外では一歩進んで多くの方が罹患していた。嘉丸さんの母国であるパキスタンでも早い時期に流行したようだ。「アビドさんという大富豪が新型コロナウイルス感染し、入院して呼吸困難になっているが、治療法がステロイドを処方されるくらいしか対処できず、医者がお手上げだと言っているらしいけど、Asaigermaniumはどうですか?」と電話で質問された。ぼくは今回の疾患に対する経験は全く無いことをまず告げた。そのうえで、研究成果から考えられることは話した。ぼく「新型コロナウイルスへの使用経験はありません。ただ、”塵肺性における風邪症候群”に対する臨床試験をおこなっていた過去があり、そのような場合の風邪に有用だったということはあります。また、それに絡んでインフルエンザウイルス感染での動物実験は行われていて、感染後の肺炎によるサイトカインストームを抑制して軽減することや、全個体死亡するモデル実験で死亡率を下げるという研究データがあり、人でも塵肺症の臨床でインフルエンザに有効だったようです。コロナウイルスは元々が風邪のウイルスとして存在していたもので、今回は免疫応答が強く出るタイプの変異があったということが劇症化やサイトカインストームの原因なので、最近の北海道大学との共同研究で細胞実験で得られているような炎症抑制は肺炎の緩和には役立てるかもしれないですね。」と答えた。ぼく「量依存だから、結構たくさん飲んだほうが炎症は抑えられると思いますが、やってみないと分かりません」。嘉丸さん「そのまま放っておいたら死んじゃうから、そのように伝えて飲んでもらいます。有難うございます!」。
2,3日して嘉丸さんから再度電話があった。嘉丸さん「中村さん!凄いよ!アビドさんが回復してると電話がありました!」と興奮ぎみ。嘉丸さん「最初は頑張って沢山飲んでたけど、意識がなくなって・・・弟さんが必死で飲ませて、そしたら段々と良くなって意識も戻っているみたい。医者さんもビックリしているって弟さんが言ってますぅ!」。ぼく「え!ホントですか!それは良かった。どうなるか分からなかったけど、たくさん飲んでも下痢するぐらいが唯一の問題点ですからね。飲んでみた甲斐がありましたね!」。その後、アビドさんは回復し、元気になり、ご家族(看病していた弟さんも発症されたとのことだった)も罹患した際にはアサイゲルマニウムで事なきを得たということで、アサイゲルマニウムを絶対的に信頼し、家族内で”命の母”と名付けていると嘉丸さんから後日教えてもらった。今はアビドさんご自身がパキスタンでの販売者として広めてくれているとのこと。助かった命を、他の人を助けるのに使いたいという考えのようだ。
ぼくは、これをキッカケに研究部門にCovid 19に関する研究を何か出来ないかと、若手研究員に相談し、コロナウイルスが持つ炎症を引き起こすタンパク質の一つORF3aというものを免疫細胞に導入した際の炎症にアサイゲルマニウムが影響するか検討してもらった。結果は、アサイゲルマニウムによる炎症抑制が見事に確認された。しかも、面白いことにこの時の作用は、先に行われた過去の研究にあるようなATPに依存するものではなく、直接的にコロナウイルス由来タンパク質による炎症を減弱していたのだ。もちろん、これは細胞実験の結果である。それに、炎症を起こす原因は複数あることが分かっていて、スパイクタンパク質が注目を集めている中、異なる標的であるため、一応は学会発表はしたものの、深追いはしないことにした。
当時は、コロナに効果があるという研究を世に広めると潰される傾向が・・・何となく見られたので、一応の作用は確認するに留めたわけだ。結果として誰も注目することもなく(笑)そんなこんなで、今まで無事にコロナ禍を乗り切った。
少々脱線したが、浅井一彦先生の著書『ゲルマニウムと私』の最終章「ゲルマニウムにかける夢」に「外国での反響」という項目がある。そこには、奥さまエリカさんに届いた手紙について書かれていて、「その手紙を読んで、日本だ、外国だと考えていた自分が恥ずかしくなった。病気には国籍がないのである。」との記述がある。アサイゲルマニウムが全世界のものとしてワールドワイドに展開していくようになっていく原点である。この項目の最後に「いろいろの難病の治療に関しては、いまは全く暗黒の世界である。その暗闇の中で、私は、いま、一本のロウソクをともしていこうと思うのである。」と結ばれている。ぼくは、この決意の言葉が好きだ。聖書の中には「だれも、明かりをともして、それを穴蔵の中や升の下に置くものはいません。燭台の上に置きます。入ってきた人たちに、その光が見えるようにするためです。」ルカの福音書11:33、と記されている。ぼくも、このアサイゲルマニウムという人々の健康に希望の光を与えるものを隠すことなく、人々に見えるようにしていきたいと願っている。嘉丸さんは、その思いを形にする協力者、助け手として、ぼくの不得意分野である海外への展開に欠かせない同労者だ。
さて、浅井博士は、その後は世界中で講演なさり、Ge-132=浅井先生のゲルマニウムは世界へと広がった。それが、海外での偽物のGe-132、bis‐beta‐ Carboxyethyl Germanium Sesquioxideが誕生して販売されるきっかけとなっている。嘉丸さんは、海外展開する中で、このような偽物と対峙し続けることになる。アサイゲルマニウムの医薬品開発、すなわちGe-132の臨床研究が薬事法違反で終焉し、一旦は浅井ゲルマニウム研究所が消滅したことで、海外では偽物のGe-132が重宝されるようになった。サプリとして手軽に購入できる製品が出回っているからだ。神戸ナカムラクリニックの中村篤史院長も、この海外製の偽物Ge-132を最初に手に入れていた一人である。
ぼくが嘉丸さんに語ったように、それで身体が直ぐにおかしくなるということはなく、むしろ良い結果も出ていたという。ただ、篤史院長もそうだが、他のユーザーも他社製品・・・いわゆる偽物Ge-132を使っていたことがある人たちも言うのは、”確かにアサイゲルマニウムを使ったほうが体感が良いのだ”という。高い・良いものを使っているからというプラシーボもあるのかと、ぼくは客観的に見てはいるが、アサイゲルマニウムとは製法が異なる偽物に微量に含まれる夾雑物(製造時の反応副産物)が作用に微妙に影響しているという可能性はあるだろう。
だがしかし、嘉丸さんにとっては、そんなことは関係なく、ぼくに会うと悔しさを口にする。嘉丸さん「いやぁ、私は頭にきちゃうよ!折角うちのAsaigermanium買ってくれても偽物に移っちゃって、リピート購入してくれない人が多くて、高いのは詐欺だって言われちゃって(怒)」、ぼく「そうですよねぇ。腹立ちますよねぇ。真似されて偽物に流れちゃって・・・終いには詐欺だと言われちゃぁ。でも、高いのは本物だからで、ただ作って売るだけだし、ローコストな製造法でやってるから他社は安いし、安全性の確認試験にもお金かけてないですからねぇ・・・」というやりとりを何度したことか(笑)それでも、一切間違いのない本物のアサイゲルマニウムを扱う海外向けの展開を行うパートナー企業として、今日もバトファ・ジャパンさんは海外にも、そして国内でも展開して広めてくださっている。
バトファさんは、国内の展開については主に『美活応援団』というYahoo!ショップでアサイゲルマニウム製品を展開されている。Yahoo!でポイントを貯めている方なら、こちらでの購入が良いかもしれないなぁ、高価な製品だからポイントも結構貯まるだろうなどと思っている。ちなみに、入門編の製品も2,000円未満で販売されている(送料入れてもギリギリ2,000円超えない)ので、試しにというのもオススメ。
サイトの紹介・リンクとか、商品の紹介とか、お客様や読者の皆様が求めていることは承知しています!ただ、そこがアサイゲルマニウム営業マンのつらいところ・・・薬機法や景表法の関係もあるので、紹介不能です。知りたい人たちは自分で調べなさい!フンッ、とツンデレ風にしてみます(汗)ご・め・ん・な・さ・い・・・m(_ _;)m
嘉丸さん、バトファ・ジャパンさんのエピソードは多すぎて、書ききれないほどだが、もう一つだけここで書いておこうと思う。
嘉丸さんの外国のお客様で、Dr. Serge Jurasnasという方がポルトガルにいる。前述したように、浅井先生は海外での講演を積極的に行われた。そのような中で国際会議で出会ったのが、フランス人医師のジュラスナ医師だ。浅井先生から直接アサイゲルマニウムの素晴らしさを聞き、実際に扱うようになり、効果を目の当たりにしたそうだ。しかし、浅井ゲルマニウム研究所は(おそらく薬事法の一件で?もしくは浅井先生の逝去で?)連絡が取れなくなり、無くなってしまったと思っていたという。ジュラスナ医師は従来の医療では治らない癌に対して、様々な統合医療的アプローチで治療を取り組み、成果を挙げてきたという。そんなジュラスナ医師が、バトファ・ジャパンの海外発信により”彼の患者”が目にしたアサイゲルマニウムの話を聞きつけ、嘉丸さんと知り合ったというのだ。
ジュラスナ医師は既に80歳を超えている。しかし、アサイゲルマニウムに再び出会い、世界中の困っておられる方々にアサイゲルマニウムを紹介し、治療に役立てているそうだ。奥様も、昨年は一時、癌に罹り心配な状態だったそうだが、アサイゲルマニウムの飲用で元気になったと連絡があったと嘉丸さんから教えていただいた。嘉丸さんの海外へのアサイゲルマニウム展開は、まだ始まったばかりだが、これからに期待したい。
ジュラスナ医師については、”Serge Jurasnas”でネット検索をかけるとProfessor Serge Jurasnasとして情報が沢山出てくる。ご興味がある方は是非御覧いただきたい。
後日談になるが、驚いたことに、仕事の関係でお付き合いのある方が仕事でポルトガルのジュラスナ医師に会いに行ったことがあり、自宅に招かれた事があるということを聞いた。全く、世界ってこんなに狭かったかぁ??(爆笑)
嘉丸さんと一番最初に出会った時、一緒に海外に広めにいきましょう!とのことで始まったが、未だに一緒に海外へ渡ったことはない。いよいよ行かなくては!となった時にコロナ禍が始まり、ペンディングになったためだ。いずれ、いずこかの国へ同行するのだろうか・・・それも天のみぞ知る。天の配慮の元に、ぼくの同行場所も導かれていくだろう(笑)
3.Vet’s AGミニ交流会
第二話の中に、かつてVet's AG交流会という獣医師によるアサイゲルマニウムを使用した経験をシェアし合う会があったことを記した。
あの会合は、経費を考えると合わないという話で打ち切られたと聞いた。確かに青山にあるホテルの大広間を借りて、会食も含めて盛大に実施するのは費用が馬鹿にならないだろうと思う。仕方なかったかな、とも思いつつ、小野寺さんと一緒に獣医師の医院を挨拶回りする中で、「あの会は結構良かったよね。そういう使い方もあるか!と思ったりして」とのことを聞くことが少なくなかった。
要するに、結構良かったけど、経費がかかりすぎたという話になるわけだ。そこで、会社(成城学園前の駅前徒歩1分の便利な場所)のフリースペースで土日にこじんまりとやれば、興味のある先生方は来てくれるのではないか、と考えた。そこで、当時の交流会のミニチュア版ということでVet's AGミニ交流会と名付けて開催することにした。ちなみに、この会を行う上でモチーフになったのは動物医療発明研究会の年会だ。出版社の会議室?を借りて20名以上の獣医師や動物医療関係者がかなり密集状態で集まって、熱気を持って行われていた。これなら、自社のスペースでできるし、懇親会も近くの行きつけの小料理屋で頼めばやってくれるだろう。青山のホテルより遥かに安上がりだ。それと、懇親会も招待制ではなく、会費制で不足分を会社で持つことにすれば良いと思った。学会や、発明研究会も、会費制だ。ただ、実際にやることになって案内をだしたら、重鎮の先生から「営業で商品を売ってるんだから懇親会費は会社で持つのが当たり前では?」と小言を言われた・・・(汗)その先生はいらっしゃらなかったが、10名ほどの先生方が集まってくださって、実施することができた。
司会を埼玉県のノヤ動物病院の野矢先生にお願いし、他数名の先生に症例報告をしていただいた。ぼくからは、動物医療発明研究会で行ったプレゼンを手直しし、ペットたちのQOL向上のためにアサイゲルマニウムで何ができるのかを話しした。この時の経験は、現在はペットの飼い主さん方からの質問に答えるうえで非常によく活かされている。
この会では、研究部の若手だった島田くん(現・浅井ゲルマニウム研究所研究部長)にも来てもらい、アサイゲルマニウムの化学的な作用なども紹介してもらった。この化学的な作用性が動物医療において展開可能なのはどんなことか、を話してもらった。また、当時入社して数年だった諏訪内くんにも、過去のVet' AG交流会の記録を見直してもらい、どんな状況で、どのように使われていたのかを分かりやすくまとめてもらったので、それをプレゼンしてもらった。これが非常に良いまとめになっていて、会の雰囲気を良くしたように思う。諏訪内くんには感謝している。
諏訪内くんは、中途採用で来てもらった営業マンだ。他社で異なる分野の営業の仕事をしていた。その頃、ぼくは当時の代表を務めていた販売会社の先々を不安視していた。先を見越して営業を考える社員が不在だったからだ。退職者も続き、社員募集はしていたが、なかなか入社希望者の応募がなかった。ずっとそんな状態が続く中、浅井研の若手社員たちに「友達で会社辞めたがってる人いない?」と、ちょくちょく聞いていた時、土井山くんから「いるにはいますが…」と聞いた。「おっ!まじ?」から始まり、「会って話しさせてよ。」とお願いして、金沢で働いていた彼に会ったのは、折りよく金沢での学会で博士研究員の安積くんが発表するとの事で同行した時だった。
彼の印象は、感じがよく、よく気がつく営業マンというふうだった。土井山くんが大学時代に所属したバスケ部主将だったという(土井山くんが副将)。ぼくは、彼に来てもらったらやがて会社が変わっていけるだろうと思い、一緒に世界を目指そう!と誘った。
多分、それから半年くらい経ち、今度はお互いの母校のある(帯広畜産大学の同窓)帯広のホテルで朝食の会場に来てもらって、わずかなチャンスに会った。この時は土井山くんも一緒だった。
朝日が窓から眩しく差し込む中で、もう一度、今度は握手しながら「一緒に世界目指そうよ!来てくれるよな?」みたいな感じで強引にスカウトした(爆笑)・・・でも、かなり本気(世界目指す)です。
その時の仕事をキチンと引き継ぎ、それから諏訪内くんは東京に出てきてくれた!
さて、諏訪内くんの紹介にて少々脱線したが、全体として、このVet’s AGミニ交流会はアサイゲルマニウムの動物への新たな使い方の提案と、今後の方向性も含めて話すことができたと手応えを感じた。また、懇親会も非常に良い雰囲気で行われ、様々な使用法の新しい展開について一緒に考えて話し合う機会になった。残念だったのは、上記のプレゼンタイトルにある通り、開催日時が2019年11月24日。この後、年末を挟んで日本も徐々にコロナ禍の身動きが取れない状況へと進んでいくことになり、折角始めたVet’s AGミニ交流会は初回のみで中止されてしまった。いずれ、また再開されると良いと願っている。ただ、ぼくは既に代表を辞してしまっているので、諏訪内くんの企画提案待ちというところだ(笑)幸い、あちこちで行っているアサイゲルマニウムセミナーのお陰で、安価にセミナー会場を押さえて懇親会をするというのには慣れている。成城学園前の一等地でできるというメリットは失われるが、もっと集まりやすい場所での開催というのも可能だろう。今後に期待する。
この会で、高島平手塚動物病院院長の手塚泰文先生も参加された。それ以前も手塚先生と関わってはいたのだが、この時をキッカケにして親しさを増した。諏訪内くんと二人で頻繁に高島平に赴くようになり、営業的な指南をいただくようになった(笑)かなり手厳しく、いつも怒られに行くような状況だったが、ぼくらの会社(グループ両社)が如何に営業的な面での引き籠もり状態であるかを毎回滾々と説かれたので、少しずつ考えを変えていくようになった。
手塚先生曰く、「僕はさぁ、このゲルマのお陰で末期癌が治って今生きてるんだよ!だからあなたたちの会社に無くなられたら困るんだよ!これが無いと僕は死んじゃうんだよぉ、分かる?」とのこと。
(2024年6月7日第三話掲載 第四話に続く)
第四話 アサイゲルマニウム販売会社で(III)
1.しまちゃん
さて、第三話のVet's AGミニ交流会の中で登場した島田くんのことを書いておこう。島田くんはぼくの後輩である。ぼくが研究部員として若手だった頃、彼はある夏に函館高専のインターンシップ制度で専攻科の学生としてやってきた。イガグリ坊主で黒縁メガネ。なにか漫画に出てきそうなかわいい風貌の青年だった。たしか3週間ほど研究所に通ったはずだ。
当時、ぼくの赤血球に関する研究は進んできており、人手がほしい時だった。生物系の研究者はぼく一人だけで、中々進まない。早く進めるために一緒に研究する仲間を会社にも要望していた。ただ、その頃はかなり厳しい会社の経営状況で、研究のための人員をいれるなどというのは難しいということもあった。そんな時に、やってきたしまちゃんを受け入れた担当だった佐藤研究部長(当時)が彼を超気に入ったということで、是非、自分の後輩として採用したいと会社に申し出た。ぼくは「えっ???」となったのを今も忘れられない(笑)化学系の研究員は3人いる。今の浅井Ge研で必要なのは、化学系じゃなくて生物系の研究を進める人でしょう!?と・・・。それが、佐藤さんの化学合成の仕事を教えて受け継ぐ人物としてしまちゃんを入れるのだという。そして、会社もその方針を受け入れて彼が入社することが決まった。あの時ほど、ショックを受けたことはなかった。「いやぁ。俺の研究は会社には必要ねぇってことねヽ(`Д´)ノプンプン、やってらんねぇぜ!」という感じだった。
そうして入ってきた島田くん。化学合成を教え込むという話で入った割に、佐藤さんは化学合成の勉強はそれなりに教えたが、実際の合成は行われず、他の佐藤さんの実験を手伝っているだけ(笑)
「お手伝いさんかよっ!一体なんなんだ!」と思ったが、島田くんはとても素直な良い青年だったので、ぼくの部内での最初の後輩として怒りを抑えて仲良くした(爆笑)
そんな島田くん、大変器用なところがあり、それを見込んで、とある研究パートナーに抜擢した。この頃、既に生物系の研究員も補充されていたが、彼の几帳面さや、技術・工夫の才を期待してのことだった。それと、島田くんには生物を苦手とする傾向があったので、実際に関わることで化学と生物の研究の垣根を取っ払いたかった面もある。今から12年ほど前に始められた北大創成研究機構での同位体顕微鏡による研究がそれだ。同位体顕微鏡用のサンプル調製は細かい作業が多く、また様々な知恵が必要である。そして同位体の強みを引き出した分析も実施したいので、島田くんの合成ノウハウ(入社数年後から化学合成も佐藤さんから受け継がれた)も重要になった。ちなみに・・・今だに研究継続している。もうそろそろ終わらせて欲しいがどうなるか。このあたりの詳細は以下のリンクの第9話からを参照いただくのが良いだろう。
島田くんを伴って、幾度となく札幌や仙台に出張した。そして、徹夜の実験を何度行ったことか・・・。真夜中(3時とか)に実験が終了し、徹夜覚悟だったのでホテルをとらずに行ったため、大学を後にしたは良いが吹雪の中で行くあてもなく、カラオケ屋しかやっている店がなかったのでガクブルの全身震えながらで店に入り、札幌⇒函館の始発まで寝ないように交代で歌い続けたこともあった(爆笑)
そんな島田くんに、「一緒に世界目指そう!」と得意のセリフを北大正門の近くの歩道を歩きながら伝えたのだが、「せ・・・かいですかぁ・・・」と遠い世界のように語っていたのを思い出す。その後、ぼくらは佐藤さんも入れて有機ゲルマニウムに関する書籍”Organogermanium Compounds”の最終章を記すことになり、文字通り世界的な有機ゲルマニウム化合物の知識者として名を連ねることになった。下記のリンクのChapter 19がそれだ。まぁ、世界で一番有機ゲルマニウムの生理作用を知る研究者たちには成ることができたと思う。
https://onlinelibrary.wiley.com/doi/book/10.1002/9781119613466
さて、そんな出張を繰り返す中、ぼくは研究から営業と、二足のわらじを履くようになっていった。販売会社の社長になったぼくは、多くの悩みを抱えていた。しまちゃんのような助け手が(販売の)会社にもいればなぁ・・・といつも思うのだった。夜な夜な、出張の時に島田くんに伝えたのは、そんな営業関係での苦労話だった。
ぼくは販売会社の社長になり、その会社の状況を見て、多くの改革が必要だと感じた。販売会社は製造会社の子会社だが、販売の成績が下がると浅井ゲルマニウム研究所としても販売会社の製品の原料となるアサイゲルマニウムが売れず、連結して経営が厳しくなるわけだ。当然のことではあるが、赤字会社であった両社とも、あらゆる面で緊縮財政が求められ、必要なものも買うことを我慢するよう強いられていた。驚くことに、既にWindows10があったにもかかわらず、その会社のPCはWindows XPを使用しているものが多かった(汗)インターネットにも繋がっていないので、社員が情報を調べるのは専用の共用PCのみ。会社のOfficeも古く、床も汚れ、社員の気持ち的にもモチベーションが上がらない風だった。什器類も浅井ゲルマニウム研究所の使っていたおフルを貰って使うというので、レトロ感満載の状況。そこの社員たちが言うのには、どうせ・・・という諦め感のあるため息まじりの言葉。
さらには、暑い夏の盛りに古いエアコンが壊れ、修理にも来てもらえず(笑)さらにモチベーションだだ下がり。
そんな状況で、ぼくが考えたのは環境を少しでも変えて前向きになること、そして会社の古い体制を、今どきの会社・・・店の”カタチ”に変えることだった。しかし、色々なものを変えるには資金が必要になる。なんとかするにも、会社は超赤字の緊縮財政で、新たな物品を購入するのははばかられる。
それを購入することで確実に収入が増えるなら良いが、利益に直結するものではないので、必要な機材を購入することがどの程度の費用対効果を持つのかは未知数だった。決まった予算から生み出すことができない以上、何らかの元手を用意するしかない。
そこで、ぼくが考え出したのは自分の社長給を減らすことだった。社長になる半年前までは、ぼくは係長職でしか無かった。そこから考えれば、超飛び級で立場が変わり、退職金も出たので(役員になるため社員を退職する必要があったため)特に直近で生活に資金が必要なことがなかったため、増えた分を削って販売会社の使える予算に振り替えても、元の社員給与より多少増えている状況にできると算段した。グループの役員や相談役に、その思いつきを相談したが、いずれも首を縦に振ってはくれず、賛同は得られなかった。様々な理由はある。役員給与は簡単に上げ下げすることは出来ないので、容易にまた上げるということは出来ないということ、また先に書いた通り効果があるのか分からないことに私費を減らして充てるということが果たして有効なのか分からない・・・等など。理解を得られないのはある意味当然かもしれなかった。しかし、他に方法は見当たらず、機材導入のための費用を借り入れる事ができる状況でもないので、ぼくに思いつくのはそれしか無かった。妻に事情を説明し、給与が大幅に減ることになるが、去年までよりは多いので良いかを訊いて、了承してもらった。ぼくの辛い状況を知る妻は、しかたないと納得してくれた。本当に感謝しかない。
結局、減らすこと自体に会社として問題があるか経理的な面で尋ねると、それ自体は問題がないというので、ゴリ押しさせてもらった。
そうして作った金銭的余裕(本来は決して余裕ではないが・・・)により、PCメーカーに問い合わせ、10台くらい購入する話で調整したように記憶している(ぼちぼち曖昧になっているのでもっと少ないかも)。
新PCは届いたが、セッティングするメンバーがいないということで、購入されたPCは倉庫代わりのマンションの一室に箱積みになったまま時が過ぎていった(汗)結局、PCは使われないままで保証期間を過ぎそうになった時、ぼくは出張先で、ついつい島田くんに深夜になって愚痴をこぼした。減給してまで作った金で買ったPCが保証期間が終わるまで放置されている話をし、「島田くんがいてくれたら、直ぐになんとかなりそうなものなのに。。。(涙目)」との泣き言を漏らしてしまったわけだ。
それから、数日経って・・・。島田くんから「お話があります」という感じで言われたのが、半年間東京に出て、PCのセッティングや営業の手伝いをしますとの申し出だった。
その頃、島田くんは長女が生まれたばかりで、かわいい、そして手のかかる盛りだったはずだ。しかし、島田くんからの超・超ありがたい申し出に、感謝しつつお願いすることにした。これから寒くなる季節、島田くんの家族には申し訳ない思いで一杯だった。
ぼくが通う教会での『秋のファミリーコンサート』の日のこと、なんと島田くんが奥さんと娘さん(赤ちゃん)を連れて来てくれた。来てくれるとは思っていなかったので、驚いたが、同時に初めて奥さんと娘さんに会い、この家族を引き離すのか・・・俺は・・。と、断腸の思いに浸ったが、それでも島田くんの意思を感謝し、できることはしよう、島田くんの成長とステップアップにもなるようにしていこう。と心に決めた瞬間だった。
半年間という期間の限定される中、島田くんは極めて優秀な働きをした。PCのセッティングを行い、販売会社の雰囲気を和ませ、手伝いをこなし、新規営業への挑戦も行った。丁度、第三話の最終項に紹介した諏訪内くんが入社したばかりの頃で、島田くんは販売会社の入るビルの下の階にあるスポーツジムに売り込みに行こうと、諏訪内くんを連れ立って訪問した。
結果、諏訪内くんから聞いたのは、「島田さん、いきなり名刺も渡さずに説明しだしたので焦りましたよ(笑)」とのこと、思いは強いが、営業はそう簡単ではないのだ(笑)この『アサイゲルマニウムの営業マンはつらいよ』のタイトルのとおり、中々むずかしい。でも、それを生で経験できたのも以後7年が過ぎる現在にも生きていると思う。
いずれにしても、島田くんのこの家族を犠牲にした単身赴任生活が本当に大きな転機になった。彼は地道で、石橋を叩いて渡るような部分があり、派手なことをするタイプではない。しかし、プレゼンテーションに関しては他の社員に負けたくない気持ちが強く、実際に彼に外部向けのプレゼンを頼めば概ね安心して任せられるので、ぼくにとっては心強い味方である。
そんなしまちゃん、販売会社の社員に冗談ではあろうが「社畜ですね(笑)」と言われたという・・・。もう、絶句するしかない。本来やるべき人がやらないから、やらなくて良い人が苦労して助けに来てくれたのだ。でも、それはその人達には分からないのだろうから仕方ない。
仕事を頼む時、だれに頼むか・・・。忙しい人に頼むべきだと聞いたことがある。全く、その通り、忙しい人は仕事をこなす方法を知っていて、忙しく仕事をこなしているのだ。暇な人に頼んでも、同じ時間で結果を出すことは稀である。このことは、ぼくの20年近くに渡る後輩との仕事での関わりの中でも間違いはない。
結局、忙しく仕事をしっかりこなせる人は、周りや会社から信頼を得て、より多くの仕事を任され、結果を出していく。一方、サボって暇を喜ぶ人は信頼されず、社内での地位も得られない。最低限、間違いのない仕事だけしてもらうのが無難だ。
聖書の中に、このような言葉がある。
「だれでも持っている者は与えられてもっと豊かになり、持っていない者は持っているものまでも取り上げられるのだ。」マタイの福音書25章29節
さて、そんなわけで島田くんは多くの仕事を抱え、今日も素晴らしい働きをしている。
2.しまちゃん(その2)帯広編
しまちゃんこと、島田くんのエピソードを触れてきた。島田くんには多くのエピソードがあるが、その全てを記していくと終わらない。そこで、もう一つだけ記しておこう。
なぜ帯広編なのか・・・。それは、ぼくが卒業した帯広畜産大学と関わりがある。少々、アサイゲルマニウム販売会社からは脱線するがお許しいただきたい。
島田くんは函館高等専門学校の専攻科を出て浅井ゲルマニウム研究所に入社した。その後、佐藤さんの下で修行をし、主に糖質とアサイゲルマニウムの作用性についての研究(周辺のこととしてゲルマニウム化合物と結合性のある物質について)を手掛けた。高専専攻科は4年制の大学卒の学士と同等の学歴になるが、それなりの研究を社内で行ってきたし、学会発表なども着実に行い実績を積んでいた。ぼくは自分の経験から、研究はしっかりまとめ、外部に発信できるようスキルを磨くこと、そしてアサイゲルマニウムとはどのようなものなのかを明らかにしていくことが大切だと考えている。そのためには、研究成果をまとめて海外の研究雑誌(Research Journal)に投稿し、査読を経て科学的に認められ、客観的にもエビデンスが確かであるという事実を積み上げていく必要がある。また、海外も含めた社外の方々から研究を行っている人が科学的な知識を持っていて、正しい研究結果を導ける人であることを認識してもらう材料としての学位:博士号は重要だと思う。
要するに、何かを思考し、物事の真理の一面を突き止める為の方法と、その結果のまとめ方をルールに従って行うことができるスキルを持つことが大事になる。なので、島田くんも博士号を得るために大学に学ぶことが良いだろうと考えた。
ぼくの親友である得字くんが帯広畜産大学の准教授になっており、共同研究も行っていたので、島田くんも社会人博士課程(会社に所属しながら大学院で研究のまとめ方を指導を受けながら学位を取るコース)にてドクターを取れないか相談した。結果、会社の研究実績から博士前期課程の認定をしてもらって後期課程に入学することが可能だろうと、調べて教えてくれた。
島田くんに、その話をして”やる気”を尋ねたところ、やってみたいとのことだったので、得字先生にお願いして入学試験を受け、博士課程に進むことになった。そこで指導を受けながら、岩手大学大学院連合農学研究科(岩手大・弘前大・山形大・帯畜大の4校からなる)に所属して、各大学で座学の単位を各校で集中講義にて取得し、会社での研究を所属校の帯広で時折指導を受けながら研究をまとめ上げていった。
島田くんの学位研究は以下に閲覧することができる。
この中で、アサイゲルマニウム(Ge-132)が生体内の生理活性物質との可逆的結合性により相互作用(お互いに影響を与えること)を及ぼし、生理活性を調整する可能性について示している。ちょうど2012年に受験して2016年に学位授与されているので、先述した北大での徹夜分析の初期の頃が合致していることになる(もう詳細は忘れてるけど・・・)。
まぁ、そのような彼のスキルを上げるためのお膳立てや、様々な研究面での考え方などを少しずつ教え込んできた(もちろん、ぼく自身のためでもあり、彼の力を高めて将来の研究を確実なものにするためでもある)のと、長く共に時間を過ごした情などが、彼の単身赴任決断に大きな影響を与えたのかもしれない。
ちなみに、島田くんが発表した論文の中にアサイゲルマニウムの水溶分子THGPがアデノシンという物質との相互作用をすることで、酵素による分解が阻害されるというものがある。アデノシンは身体の中で様々な重要な機能を持っていて、例えば痛みを抑制するのに役立ったり、炎症に対しても影響することが知られている。また、S社の製品でアデノシンによる毛髪の育成に有効性を示すというア◯ノゲンというものもあり、育毛と関係があるという可能性も強く示唆される。以下、全文を読むのは有料ですがリンク貼っときます。
さて、島田くんが大学院にいた頃だったか、修了した直後だったか・・・。もしかしたら、以前『アサイゲルマニウムとは何なのか』のどこかに記したエピソードかもしれない。でも、島田くんエピソードとして書き留めておきたい。
帯畜大への求人で現社長の梅田さんとぼくと、そして島田くんの3人で帯広へ企業説明に訪問した。初夏の6月の終わりのことだった。ぼくと梅田さんは無類のアウトドア好きで、お互いソロキャンプにでも行ってしまうようなキャンプ好きだ。そんなぼくらが帯広に行く。梅田さんと帯広に行くのは初めてだった。昔、若い頃に富良野に行ったことはあったが、帯広までは行けていなかった。折角だからキャンプしたいよね(笑)という話になるわけだ。気の毒なのは島田くんだ。
ぼく「しまちゃん、今度の出張は寝袋持ってきてね。二日目にキャンプするから。」
しま「キャンプですか?え?出張ですよね?」
ぼく「うん。出張だけど、終わったらキャンプしようって梅田さんと話してるんで。いいとこがあるからキャンプしよう。」
しま「は・・・はぁ」
出発当日、集合時間になり島田くんもやってきた。
ぼく「寝袋持ってきた?(そこかぁ質問ポイントは!)」
しま「ヨメさんに、出張だから寝袋いるんだけどって言って借りてきたんですけど・・・はぁ?って言われました!」
ぼく「まぁ、出張なのになんでってなるよなぁ(笑)」
うめ「で、持ってきたの?」
しま「はい。僕のはないのでヨメさんのを借りてきました」
というわけで、奥さんの名前入りの寝袋を島田くんは持参できたのである。
さて、帯畜大での会社説明会はボチボチ。来てくれた学生に、「明日はキャンプに行くから興味があれば一緒に来てもいいですよー」と言ったものの、当然だれも来なかった(笑)出掛けに当該学生たちがぼくらの車を見かけ、社用車の中にキャンプ道具が満載なのを見て「本当にキャンプに行くんですね!」と驚いていたのが今でも思い出される。ちょっと、あり得ない会社だろう(笑)
まだ日のあるうちに、帯広の北の方、鹿追町の然別川上流へ向かった。最上流に近い方に菅野温泉というワイルドな名泉がある。ぼくが大学生の頃は事あるごとに未舗装の道をひた走って温泉に入りに行った。そしてこの温泉宿の手前の林道を一気に下ったところ、然別川の橋を渡ったところにあるのが然別峡野営場。その最奥部から川に下っていくと一番奥にひっそりとあるのが鹿の湯である。この鹿の湯、自然に湧出する温泉で、入浴無料の混浴で、メインの風呂の他にサイドに2つの小さな風呂がある。これらは一人か二人入れば一杯になるサイズで、温度はかなり高いために普通の人は入れない。メインの風呂からは手を伸ばすと然別川の流れに手を入れることができる位置関係で、超ワイルドなアウトドア派の露天風呂好きな人には堪らないサイトである。鹿の湯には実際に鹿が入りに来る。ぼくも若い頃に真っ暗な中入っていたら、ゴソゴソ言うので近寄ってみたら・・・なんと巨大な雄鹿が!!全裸のぼくと巨大なオスのエゾシカでは万に一つも勝ち目はない(笑)
そんなシチュエーションの野営場。キャンプ場ではなく野営場である。北海道にはボチボチ野営場が存在するが、まさに野営。快適な施設は存在せず、林を多少切り開き、下草を刈っているので、適当な場所でテントを張って寝る。
ぼくらは夕焼けが始まりそうな時間にサイト前の駐車場に到着した。しかし、想定外のことがおきた。入口にロープが張ってありサイトに入ることができないのだ・・・。なんと、サイトのオープンが7月1日・・・つまり翌日からということで、野営場が使えないのだという。
翌日のオープンを控え、鹿追町の職員が車で来ており、ぼくらはダメ元で話しかけた。
うめ「あのぉ。キャンプしに来たんですけど明日オープンなんですね」
職員「あぁ、そうだよ。明日からだから今日はまだだね」
うめ「函館から来ていて、もう日暮れなので何とか使わせてもらえないですかね」
職員「いや、ダメだね」
ぼく「今から他のキャンプ場に行くとなると1時間以上かかるから夜になってしまうんですが・・・ダメですか?」
職員「ダメだわ」
しま「(にんまり)」
うめ「この敷地内がダメなら、あの駐車場のところ砂利の上ならいいですか?」
職員「・・・・・」
うめ「野営場を使わなければ良いんですよね?」
職員「・・・・」
しま「(えっ??)」
結局、無言のままで職員の方々は車で立ち去った。要するに、役所務めの人たちは責任を負いたくないから、決まったとおりオープン日前は使わせない。駐車場でのテント張りは本来はダメなのだろうけど、管轄ではないから答えない。あとは、私達は知らんから駐車場でやるならやれば?ということ?で立ち去ってくれたのだと判断した。
ぼく「よし、島田くんテント張るぞ!手伝って」
しま「・・・・・上の温泉宿に泊まれないんですか?(憮然)」
うめ「さっさと準備してマキを集めましょう!」
張り切るぼくらと、がっくりとするしまちゃん。
結局、準備をしてテントを張り、寝床を準備していた時・・・「あ、しまちゃんのテントマット無いや」とぼくが言うと、「あらら。じゃあ新聞紙かな」と梅田さん。島田くんは「え???」と言ったきり黙ってしまった。島田くんは元々がアウトドアとか好きではない。ほぼ、先輩たちの強引さにつきあわされる形でキャンプさせられるし、しかもトンデモナイというワイルドさ。その上、テントマットもなく、砂利の上に新聞紙で熱遮断だけして寝袋で寝る羽目に・・・。今思い返しても気の毒である。
火が起こされ、ぼくの作った料理を堪能し、キャンプファイヤーを楽しんだ。三人で、仕事やアサイゲルマニウムについて様々な話を時を忘れて話した。そのうちに、島田くんは酒が進み酔いが見えてきた。ぼくはそんな時に、ちょっとけしかける。仕事について後輩たちに聞くと、つい本音が出てきたりするので、大事な交流になる。
ぼく「しまちゃんはさぁ。ウチの会社って必要だと思ってるの?」
しま「もちろんですよ。当たり前じゃないですか?」
ぼく「じゃあさ、アサイゲルマニウムは赤字でも他の事業をやって儲けてやっていけるようにすればいいかな?」
しま「いや、それはありえないですよね。」
ぼく「でもさ、全体が黒字できちんと給与払えれば、アサイゲルマニウム部門は赤字でも問題ないよね?」
しま「いいえ、それはダメでしょう。その部門の人間はモチベーション上がらないし」
ぼく「いやぁ、だって今赤字だよ?このまま収益上がらなきゃ、いずれ会社潰れるよ?」
しま「・・・でも、必要としている人がいますから」
ぼく「必要な人っていっても、ウチの会社があってアサイゲルマニウムがあるから、それを買わなきゃなんないけど、高いってみんな思ってて、仕方なく買ってるじゃん。ウチが倒産しちゃえばニセもんだろうと質が落ちようと、有機ゲルマニウム作って売ってる試薬レベルの安いA社のを買うしか無くなって、結果安くすんでいいんじゃないの?ちがうの?」
しま「・・・う・・・でも・・・」「大体、うめださんも悪いんですよ。今日のプレゼンだって、声のトーンが低すぎて、あれじゃ聞き手の学生に伝わんないですからっ!!ヽ(`Д´)ノプンプン」
うめ「ん?えっ??オレ???」
しま「そうです。プレゼンは少し高いトーンで明るく話さないとダメなんですヽ(`Д´)ノプンプン」
うめ、ぼく「(笑)(笑)」
上のやり取りを読んで、皆さんどう思われるだろうか。
島田くんの会社愛、アサイゲルマニウムに対する強い思いが伝わりませんか?
普段、このようなことを考える機会がなく、漫然と良いものだと思っているだけでは自己満足で終わってしまう。なぜ良いのか、自社製品はどのようなもので、存在意義はどこにあるのか、アサイゲルマニウムであることの意味と、他社の雑多な有機ゲルマニウムはどこがどう違うのかを考えてほしい、そう思ってけしかけたが、島田くんにとっては青天の霹靂。野営なんかしたくないし、出張なのに寝袋を奥さんに借りるという恥ずかしいお願いに始まり、キャンプはダメと言われてホテルのベッドで寝れると思ったのに、キャンプ場どころか砂利駐車場でテントに寝る羽目になり、さらにマットもなく新聞紙の上で寝るという・・・家のない人みたいな状況を強いられ、挙げ句の果てに自分の仕事の存在に意味ないんじゃないかと一緒に仕事する先輩から仕掛けられ・・・。可哀想しかない状況だ(笑)
梅田さんに食ってかかるしかなかった気持ちも容易に察せられる。
結局、この後は皆で焚き火を楽しみ、島田くんは火にあたりながら寝てしまった。風邪をひくといけないので、ほどほどで起こして寝袋に入るように勧めた。ぼくと梅田さんは、その後で鹿の湯に入りに行った。満天の星を眺めながら、川の流れる音を聞き、遠くに鹿の鳴く声に耳を傾けつつ、天然の露天風呂を満喫してからテントに戻って眠りについた。
翌朝、島田くんは少々不機嫌な様子だったので、露天風呂に入ってくることを勧めた。戻ってきた時に、彼の不満な顔は笑顔となり、満足してくれているのはひと目でわかった。
この時のやりとりが、島田くんにどのように影響したかわからない。しかし、当時は役員になる準備段階にあったぼくらと、キャンプで色々なことを話したことは、その後の心構えに多少なり影響したのではないかと感じている。
今、彼がアサイゲルマニウムとA社の有機ゲルマニウムについてどのように考えているか、改めて聞いたことはないが、彼のプレゼンを見る限りは明快な答えを出していると感じている。
後輩にとって、ぼくは嫌な先輩かもしれない。でも、同じ道を通る必要はないが、追体験的なショートカットコースを伝えることは大切な経験になるだろうと思っている。最近は、少しマイルドに問答するように心がけている。
ちなみに、この梅田さんに突然噛みついてきたことを形容して、島田くんを”カミツキガメ”と愛称で話すことがある(笑)もっとも最近は”元カミツキガメ”であるが・・・。
3.ANNEX;しまちゃん(その3)
どんだけ、しまちゃん好きなんだ!とお叱りを受けそうだが、最後に短く・・・。島田くんが東京に販売会社の手助けに行くという半年間、アサイゲルマニウムの臨床クリニックが最初にできた世田谷区成城の某マンションの一室(浅井ゲルマニウム研究所の所有)に住んでもらった。それが浅井ゲルマニウム研究所ANNEXである。築50年以上の古いマンションで、部屋の天井は低く、梁が天井から飛び出ており、恐らく180cm以上の身長では頭を梁にぶつけるだろう。ぼくも飛び上がると頭を梁にぶつけることができる(笑)
この部屋はクリニックとしての役割を終えた(より広い物件への移転によるもの)後、会社の役員などが社外の方々と会合したりするのに使ったり、簡易の宿泊施設としても使用されてきた。ワンルームマンションであり、一応、台所も狭いながらも付いている。しかし、トイレとシャワールームが独立してあるものの、風呂はなく、シャワーは使うと排水口に水が(排水)溢れてくる。汚水が足に付くので使いたくない。お湯が出るまでに数分かかるので、汚水が溢れる前には使用できない状況だった。
ぼくが函館から東京に出張するときは、社長として一週間とか成城に長期滞在するので、ホテルではなくANNEXに泊まっていた。島田くんが半年、東京に住むということで、ぼくはANNEXを明け渡し、彼が住むことになった。その時、浅井ゲルマニウム研究所の本社総務の先輩方がANNEXをキレイに住めるように手入れしてくれた。ベッドも台所もシャワールームも整えられ、不便ながら住むことができる状態に改善された。みんな、島田くんの心意気に感激して、彼が少しでも快適に過ごせるように総力をあげたのだ。
島田くんは前述の通り、やるべきことをやりとげ、半年間の東京勤務による関連会社出向を終えた。
しかし、ANNEXの冬の寒さには参ったという。ANNEXは50年以上の年月を経た古い作りのマンションであり、そうでなくても断熱材の少ない本州・東京の建物の上に輪をかけて断熱機能がない建築である。エアコンだけが温暖調整の手段だったが、あまりにも気の毒だということで浅井研から遠赤外線ヒーターが買い与えられたという。そして、帰ってから島田くんに悩みを聞いたところ、皮膚に虫刺されのようなブツブツが出来たという。明らかにダニに刺された痕だった・・・。島田くん有難う。
彼の心意気に触発され、次は自分の番だ!と、ぼくは無期限の東京単身赴任を決めた。島田くんと入れ違いで、このANNEXの劣悪な住居環境に身を置くことになった。約2年半に渡る過酷なANNEX生活の幕開けである。
ただ、島田くんが前触として住環境の改善に取り組んでもらえたので、まぁ、何とかなった。排水に関しては設備業者に来てもらって詰まりを取ってもらった。島田くんの苦労したのは洗濯機がないから、隣駅のコインランドリーまで休日に洗濯しに行かなければならなかったことだと聞いたので、ぼくは先ずニトリに買い出しに行き、洗濯機を買った。置き場はなかったので、洗面所の洗面台を自分で取り外し、そこに台車の台を設置した上に洗濯機を設置した。洗濯排水はシャワールームに排水ホースを出して排水した。
あとは、水だ。台所の水がどうも変な味がする。古いマンションだから仕方ないかと思いつつ、水道の蛇口についている簡易フィルターを外してみた。結果、恐ろしいものを見ることになる・・・。
そこには、色とりどりの異物・ゴミが引っかかっていた(下写真参照)。
島田くんに後日見せたところ、「いやぁ、見たくなかったですね。僕、この水飲んでましたよ・・・(汗)」
しまちゃん、ごめん。
こうして、本格的な東京での営業生活がスタートした・・・
(2024年7月10日第四話掲載 アサイゲルマニウムの営業マンはつらいよ3につづく)
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