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「認知症の人をどこまで治療すればいいのか」読者に突きつけ続ける難題…現役医師による医療サスペンスの傑作『生かさず、殺さず』/日髙明氏による解説を特別掲載!

 認知症専門病棟で働く主人公の医師は、認知症患者はもちろん、過剰要求をする家族や苦労の耐えない看護師を相手に、忙しない日々を送っている……。『老乱』『老父よ、帰れ』で認知症のシビアな現実を描いてきた久坂部羊さん。2020年に単行本として発売し、今回文庫化した『生かさず、殺さずは、前述の2作に続く「認知症小説」です。医師の視点から認知症にまつわるリアルを描いた本作の刊行によせて、ケアマネジャーであり僧侶でもある日髙明さんがご執筆くださった文庫解説を特別掲載します。

久坂部羊著『生かさず、殺さず』(朝日文庫)
久坂部羊著『生かさず、殺さず』(朝日文庫)

「認知症小説」で、タイトルが『生かさず、殺さず』。なんだか不穏だが、読み終わると、たしかにこの小説は「生かさず、殺さず」の物語だと思える。

 久坂部羊さんには本作のほかに、認知症をテーマとした作品がある。『老乱』(2016年)は、認知症が進行していく戸惑いや怒りを本人とその家族という二つの視点で活写していた。『老父よ、帰れ』(2019年)は、認知症になった父親を自宅で介護する家族の苦労や近隣との摩擦を描いていた。

 本人、家族、地域の人々の立場で認知症を扱ったこれらの作品に続く本作は、医療者の側から描かれている。舞台は、様々な疾患を抱えた認知症患者のための専用病棟、通称「にんにん病棟」である。

■どこまで治療するかという葛藤

 にんにん病棟は、すでに日常風景が問題にあふれている。がんや糖尿病、脳梗塞といった病気を抱えた入院患者たちは、認知症があるために治療を理解できず指示が通らないからだ。彼らは数々のトラブルを起こす。

 私自身も認知症介護に従事しているが、勤務先のグループホームでも思い当たることがある。たとえば90代の女性にワクチン接種をしてもらったときのこと。ご本人は注射の説明も理解し、始めは余裕の様子だったが、診察室の椅子に座ると顔はこわばり目の色は変わって、腕まくりをしてもらったとたんに「ぎゃあー、殺されるーっ」と大声をあげて診察用デスクの上の物を薙ぎ払うという騒動になった。なんとか注射を打ってもらえたが、ご本人はその日ずっと落ち着きのない様子が続いたし、そのクリニックにはもう行けなくなってしまった。

 ああいったことが毎日のように起きればきっと精根尽き果ててしまうだろうが、それがにんにん病棟の日常なのである。しかし、そこまでして治療をすることが本当に正しいことなのだろうか。

 本作の主人公でにんにん病棟の医長である三杉洋一は、日々頭を抱えている。

本人が治りたいと思っているかどうかを無視して、一方的に医療を押しつけることが、ほんとうに正しいのか。

 認知症のある人をどこまで治療すればいいのか。これが始めから終わりまで、読者に突きつけられる問題である。しかも本人への治療は、その家族とも折り合いをつけて進めなくてはならない。本人と家族との隔たりや、家族どうしでの意向の食い違いもある。これも本人の意思確認が難しい認知症ケアにおける難題のひとつだ。

 三杉は善意と誠意の医師であり、患者の自由と治療、家族の希望と現実という葛藤を真剣に受け止めてしまうがために、まごまごとして動けない。煮えきらない男である。そういう男を主人公に据えることで、作者は医療現場における葛藤を対岸の火事としてではなく読者自身もひとつひとつ向き合わねばならない難問として描いている。

 医療における問題を迫真のリアリティで活写するのは久坂部さんの真骨頂と言える。本作でもやはり容赦がない。患者が起こすトラブルだけでなく、思い込みの激しい“コマッタ家族”の暴走や、看護師たちが交わす患者についての毒気たっぷりな会話なども読みどころだ。認知症患者の治療という課題を提起する社会派医療小説である。

 ただ、笑いを誘う「認知症ケアあるある」なシーンも多く、経験のある方は思い当たってクスッとさせられるのではないだろうか。たとえば三杉が患者の渡辺真也を認知症だからと甘く見て、都合の悪いことを忘れてもらおうとして失敗するところは、うなずきながら苦笑してしまう。私の勤めるホームでも、ご飯を食べたことを忘れてしまい、「食べさせてもろてへん」という恨みだけを引きずり続ける方がいた。気分を別の方に逸らそうと話を変えても、ごまかそうとしていることがすぐに見抜かれてしまう。「認知症の人がこだわっている何かを忘れさせるのは、何かを覚えさせるよりむずかしいのかもしれない」。本当にそのとおりだ。また、同じく患者である田中松太郎とその家族のやりとりは、登場人物たちの思惑や心情が絡み合った真剣な場面のはずだが、何度読んでも笑ってしまう。

■動くに動けぬサスペンス

 物語は途中から怪しさを加えて進むことになる。三杉が、にんにん病棟で起きた事件と彼自身の過去の罪とにかかわる災難に巻き込まれるのだ。

 真偽のはっきりしない認知症患者の証言が飛び出し、得体のしれない人物が登場し、情報が錯綜する。この三杉の災難が、認知症のある人の治療というテーマに並立する本作のもう一つの軸であり、同じく認知症を扱った前二作とは趣を異にするところでもある。

 なぜあんなことが起こったのか。あの人の言っていることは本当なのか。なぜあの人はそんなことを知っているのか。あの人は誰なのか。あれは自分が悪かったのか――。

 三杉を悩ませるそうした数々の疑問は、解決に向かって解くべき謎というよりは、輪郭のない不気味さとして彼の周りに立ち込めている。ミステリー小説のような探偵役もいない。読者は三杉とともに出口の見えない霧のなかに、ゆっくりと、巻かれていく。

 本作全体に流れているのは、正しい道が見えないために前へと進めないという膠着感である。主人公・三杉は患者の治療についても葛藤してばかりだが、自身に降りかかる災難においても「動けない男」として性格づけられている。もちろん彼も状況を打開しようと暗中模索しつづけてはいる。だが事件が次々と起こり、新しい情報が謎を深める。奮い立って起こした反撃も、むなしく言いくるめられたり、言い負かされたりしてしまうのである。

 そのように自分を取り巻く人々や状況に翻弄され、また自身の過去の罪に縛られてもいるために、三杉洋一は動けない。他人を振りまわし、過去を切り捨て未来しか見ていない坂崎甲志郎とは対照的である。

 加えて、この坂崎というトリックスター的な人物は、物語のなかだけにおさまらない立ち回りをする。医療バイトで食いつなぐ医師で作家でもある彼は、にんにん病棟を参考にして「認知症小説」を書こうとしているのだが、彼が構想を語ったその小説のオープニング場面は本作の冒頭とまったく同じものになっている。人形のなかを開けるとそっくりな人形が入っているというマトリョーシカを思わせる小説内小説である。三杉と坂崎という対照的な二人は、それぞれの経歴や職業からどちらも久坂部さんの分身と言えるが、特に坂崎のほうは医師であり作家であるという点で久坂部さんと重なりやすい。坂崎が新作のアイデアを語るところなどは、作者自身が本作に言及している気さえする。こうしたメタフィクション的な構成によって、物語は外へと開かれ、物語内の現実はその強度を下げることになる。

 つまり読者は、物語内容(ストーリー)のレベルでは三杉の視点で真実の見えない苦境に足踏みし、語り(ナラティブ)のレベルでは坂崎のエキセントリックな立ち位置のために物語内の現実のあやふやさを味わうことになる。真実と現実が掴めない。だからとても居心地が悪い。

 タイトルになっている「生かさず、殺さず」の意味は、最後に看護師長の大野江が語っているとおりで、これは認知症のある人をどこまで治療すればいいのかというテーマへのひとつの回答になっている。と同時に、本作のもうひとつの軸である三杉の災難においては(そしてそれを読む読者にとっては)、文字どおり中途半端な生殺し状態という意味ともとれる。

 なかなか着地せず、宙吊りの状態、まさにサスペンスである。

■認知症を抱える人の不安

 そうした心もとない状態というのは、認知症を抱える人の体験に近いところがあるのではないかと思う。

「何が何だかわからない」という言葉を聞いたことがある。勤務先のグループホームで二人の入居者から、それぞれ別の機会に。二人とも呻くような声だった。認知症のある人は、特にその初期から中期にかけて、自分と周囲との認識のズレを強烈に経験する。朝から何も食べておらず腹が減って辛いのに、すでに食べたと笑われる。初めて会う人が、なれなれしく話しかけてくる。自分が決してやるはずのないことを、やったと言われる。おかしな話だ。

 なぜこんなことになっているのか。この人の言っていることは本当なのか。なぜこの人はそんなことを知っているのか。この人は誰なのか。これは自分が悪いのか――。

 頭のなかに霧がかかったようで、何が本当なのかわからない。悪い夢を見せられているようで、まるで現実とは思えない。真実と現実がぼんやりとしたなかで宙ぶらりんにされたような不安。それが「何が何だかわからない」ということだろう。

 本作は認知症のある患者の治療をテーマとして医療者の葛藤を描きつつ、サスペンスフルな筋立てと仕組まれた特殊な語りによって、認知症患者が抱く不安を読者自身にも背負わせる。この「生かさず、殺さず」の不穏さは、貴重である。


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