「恋せぬふたり」の脚本家・吉田恵里香さんが、中村航さん最新文庫『サバティカル』を通して向き合えたもの
「分かった気」になっていることが多すぎる。
他人のことも、自分のことも。素直に分からないと言えずに、つい「分かった気」になって、思考を停止させ受け流している。だって毎日の生活があって、自分や家族を養っていかなくてはならないから。そんな風に忙しい日々を理由にして、大半の人間が「分かった気」になっている自分を放置してしまう。では忙しいという言い訳を失った時、我々は「分かった気」になっていることと、どれだけ向き合えるのだろうか。
『サバティカル』の主人公・梶は自分が沢山作ってきた「分かった気」と、とことん向き合っていく。転職をきっかけに五か月という長い休暇を手に入れた梶は、今までやりたかったこと、目を背けてきたことをTo Doリストにまとめて、それを実行していく。
リストに書かれていることは『休暇がなくてもやろうと思えばできたけど、なかなか重い腰があがらず目を背けていた』絶妙なチョイスのものばかり。百年の孤独は、私自身も買ったまま十年近く積読のまま本棚に放置されて、時々手にとっては最後まで読めずにいるので「分かるよ、梶くん」と思わずニヤリとしてしまった。やがて読者は梶の休暇を追っていくうちに、梶のセクシャリティを知ることになる。梶が自身をアロマンティックだと自認しており、自身のセクシャリティと人生、他者との付き合い方に葛藤していることが分かっていく。
今回、私が本作の解説をさせていただけることになったのは、自作のテレビドラマ「恋せぬふたり」で、セクシャリティがアロマンティック・アセクシュアルである主人公を描いたからだろう。改めて書き記しておくと、アロマンティックとは他者に恋愛的に惹かれないセクシャリティの方、アセクシュアルとは性的欲求が他者に向かないセクシャリティの方を指す言葉であり、その両方が当てはまるセクシャリティの方をアロマンティック・アセクシュアル(以下Aro/Ace)と言う。(脚本執筆時に作品を監修していただいた方や取材をさせていただいた方々から「アセクシュアル」と表記してもらいたいとご指摘をうけたことがあるので、解説ではアセクシュアルという言葉を使わせていただいた。アセクシャルという言葉が間違っている訳ではなく、梶が自身をどう表すのかは梶の自由だ)
私はドラマの脚本と小説を書いただけで当事者ではない。しいて言えばアライ(LGBTQを理解・支援する人のこととして使われている)だが、それを自称することも、支援とか理解という言葉に「?」が残るし、そもそも立場をラベリングしなくてはいけないのかなど思ったりもするし、でもラベリングすることで「意味が分からない悩み」から「意味が分かる悩み」になったりする現実もあるし……以下省略である。とにかく、なので、あくまでも「Aro/Aceが登場する作品を書いた人」という立場で解説の文章を書いている。こんなにもまわりくどく前置きをするのは、私の解説が、何かを代表する答えでも正解でもないからだ。Aro/Aceの学術研究はまだ少ないのもあり、自分の言葉が正解のように扱われてしまう危機感を常日頃抱いている。それにAro/Aceに限らず、すべてのセクシャリティはグラデーションで一個に定義できるものではない。多様で千差万別、一人として同じセクシャリティの人はいない。私がここまで書いている言葉で傷つく人もいるだろうが、今できうる私の知識や言葉選びを重ねるつもりだ。
さて本当に前置きが長くなってしまった。本作についての話に戻ろう。
近年Aro/Aceが登場する作品は増えたが、当事者自身が主人公である作品はまだまだ少ない。こうしてアセクシュアルを自認している主人公が登場すること、Aro/Aceが世の中で可視化されていくことは、とても喜ばしいことだ。更に素敵だなと思ったのが、梶のセクシャリティが作品の味付けや添え物になっていないことである。現在、残念ながらLGBTQの人物を描きながらも「これはLGBTQ作品ではない。そこがテーマではない」と、わざわざ念押しする創作者がいる。セクシャリティを物語のスパイスやサプライズや悲劇の象徴につかう作品が今も作られ続けて(創作するうえで全てを100%否定するわけではないが)敬意がなさすぎるだろと一人怒り狂いながら鑑賞・読書することも多い。
『サバティカル』において、そのストレスが私は一切なく、梶個人の葛藤や思いが、梶自身が感じることとして、すとんと心に落ちてきた。
正直な所、読む前はアロマンティックを自認する三十代の男性が主人公と聞いた際、身構えてしまう自分がいた。自作の脚本を執筆する際、できる限りの資料を読み、当事者の方に数十人も取材して、当事者の方に監修もしていただいた。その際に、体感としてAro/Aceを自認されている方は二十代以下のシスジェンダーの方が多かった。もちろんAro/Aceの三十代以上の男性がいない訳では決してない。性的嫌悪や接触嫌悪が薄い場合、男性はAro/Aceを自認しにくいのではないかという話が取材で出ていたのが頭にあったからだ。「恋せぬふたり」の主人公の一人は四十代男性だが、試行錯誤の末、性的嫌悪や接触嫌悪があることでAro/Aceを自認した人物にした経緯がある。本作の行動からみるに、梶は接触嫌悪も性的嫌悪も比較的薄めのようだ。香奈からのマッサージもハグも受け入れている。本人はアセクシャルと自認しているが、話している内容からAro/Aceであるようにもみえるし、キュンという感覚、他者の恋愛の感覚がぼんやり分かっているようにもみえるのでグレイロマンティック(アロマンティックとロマンティックの間のどこかに位置するあり方)のようにもみえる。自認していると思いつつ、自分自身のセクシャリティに「?」な部分が沢山あるようにもみえる――が、他人のセクシャリティについて他人が定義づけすることが間違っている。何度も言うがセクシャリティは定義することができない。それこそ「分かった気」になってしまう危険性がある。その人が自身をどう自認するかが大事だ。そのうえであえて使わせてもらうが、自身のセクシャリティについての言動が危うく絶妙なバランスでなりたっている……一歩間違えばAro/Aceという存在に誤解を与えかねない梶という人物をストンと受け入れられるのは、休暇が始まる前の門前さんとの会話や将棋の師匠・吉川、香奈との会話で、梶という人物を外からも内からも浮かび上がらせて、彼の人となりを丁寧に描いているからだと思う。
梶は私がAro/Aceについて語る時、絶対使わない言葉を淡々と口にする。
例えば「恋もできない」といったような他者に恋愛感情を抱かないことを否定的に表す言葉、いつか誰かに恋をして変わるかもしれないという言葉(Aro/Aceの中には、いつか恋するかも?などと言われることに傷つく方も多く、恋愛をしたいことが分かっている人以外には絶対に使わない方がいい言葉だ)。そのほかにも、欠けた者同士、恋愛もできず家族も持てず、どうしてこんなふうに生まれてきたのか、などなどだ。でもそれは、私がAro/Aceを「分かった気」になって勝手に定義・正解を作っているだけで、だからそういった言葉尻にひっかかってしまうんだなと思った。マジョリティ中心の社会を生きる梶の生き苦しさを思うと、そういった言葉選びになるのも無理はない(無理はない、でまとめてはいけないことだし、現状を早急に改善すべきことである)。気づくと、私は梶という一個人に寄り添い、梶を思い、物語を読み終えていた。梶が目を背けていたことと向き合う旅をしたように、私も自身の「分かった気」になっている事柄と沢山向き合うことができた。本作をお読みになったあなたも(当事者、Aro/Aceについて知識がある方ない方問わず)自分のことも他人のことも「分かった気」にならず、理解できなくても、ただ相手を認めることの大切さを感じられたのではないだろうか。馴れ合う必要はない。でも自分を認めてくれて「出戻り歓迎」と言ってくれる場所はいくつあってもいいのだ。