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江戸市井小説の名手・宇江佐真理が“堀”に思いを託した短編集『おはぐろとんぼ』の大矢博子氏による文庫解説を特別公開!

朝日新聞出版さんぽ

 2022年4月7日に発売となった宇江佐真理さんの傑作短編集『おはぐろとんぼ』(朝日文庫)。江戸下町の堀を舞台に、家族愛を鮮やかに描いた感動の時代小説です。本作には、文芸評論家の大矢博子さんが、宇江佐作品の魅力と収載6作品について解説をご寄稿くださいました。大矢博子さんの解説文を、特別に公開します。

宇江佐真理著『おはぐろとんぼ』(朝日文庫)
宇江佐真理著『おはぐろとんぼ』(朝日文庫)

堀でつながる家族の情 

 本書『おはぐろとんぼ』は2009年に実業之日本社から刊行された短編集である。実業之日本社文庫(2011年刊)を経て、この度、装いも新たに朝日文庫からあらためて読者の皆様にお届けできる運びとなった。

 2009年といえば、看板シリーズである「髪結い伊三次捕物余話」シリーズ(文春文庫)を継続する傍ら4冊もの新刊を上梓した年だ。1995年のデビューから丸10年以上が過ぎ、宇江佐真理が円熟期を迎えて精力的に執筆していた様子が窺える。

 宇江佐真理は北海道函館市出身。そのため東京の地理がわからず、「だから、まず深川という小さなエリアを選んで、北に行ったら本所、永代橋を渡ったら日本橋という地理を頭に叩き込んだんです。それで初期作品の舞台は、全部深川になったの」(「野性時代」2014年10月号)と語っている。

 そんな状態だった新人作家が後に書いたのが、この、江戸の各地にあった堀割をモチーフにした短編集だ。すでに吉川英治文学新人賞や中山義秀文学賞など名だたる賞を受賞した後である。このたゆまぬ努力こそが彼女を人気作家にした所以だろう。

 しかも本書はただ、いろんな堀を物語に登場させました、というだけではない。どんな場所の、どんな堀かというのが物語に深く関わってくる。いや、そもそも堀とは何かというテーマをも含んでいるのだ。

 堀とは、人の手によって造られた河川や運河、細長い池などを指す。城の防衛のための濠が有名だが、それ以外にも輸送・交通・用水・上水・排水など、堀は江戸の生活に密着していた。時代小説を読めば○○堀や、その岸を指す○○河岸という名前がしょっちゅう登場する。低湿地を埋め立てて造られた江戸には、自然の川に加えてこの堀が縦横に走っていたのだ。今ではほぼ埋め立てられているが、八丁堀に代表されるように、地名として残っている場所も多い。

 それらの堀が各編でどのように使われているのか。まず本書収録の6編はいずれも家族の物語である、というところから話を始めたい。そして、兄弟姉妹を描いた「日向雪」を除く5編はいずれも親子の話であるということ、しかもそのすべてに、形は違えど「なさぬ仲」の親子が登場するということに注目。これが本書を読み解く鍵になる。

 

「ため息はつかない 薬研堀」

 早くに両親を亡くし、叔母のおますに育てられた豊吉は、成長して薬種問屋で働き始めた。ところが、店のお嬢さんとの縁談が進む中、ある疑いをかけられる──。
 舞台となる薬研堀は、現在の中央区東日本橋のあたりに存在した運河とその周辺の町を指す。昔は米倉に米を運び込むための入堀だったが、米倉が火災により移転、薬研堀は大半が埋め立てられた。
 薬研堀は底がV字に抉れた堀のこと。けれど水面は常に平面だ。それは、変わらない日常の底には外からは見えないさまざまな思いがあることの象徴ではないだろうか。口うるさいおますを敬遠していた豊吉。けれどふたりの間には、実の親子と変わらぬ情愛があったことが切なさとともにわかるくだりは絶品だ。お店のお嬢さん・おふみも実に魅力的。

「裾継 油堀」

 深川・裾継の遊女屋が舞台。女将であるおなわは亭主・彦蔵の後添えだが、最近、先妻の娘であるおふさとの仲がうまくいかない。おふさは、父親が浮気をしているのにそれに気づかない継母に苛ついているらしいのだが……。
 油堀は現在の江東区、隅田川から富岡八幡宮の裏を通って木場に至る運河。作中にもあるように「裾継」は「表と裏を繋ぐ場所」で、おなわは自分自身が「継ぐもの」であることを自覚するのだが、油問屋が集まっていた油堀が今では岡場所になっているという変化がポイント。町も人も同じままではいない。常に変わっていく。けれどそれは過去から現在へ、そして未来へ受け継がれるということでもあるのだ。本編は過去を見つめることで未来へ向かう家族の物語なのである。
 油堀は堀川という名で1970年代半ばまでは残っていたが、76年に埋め立てられ、80年にはその上に首都高速が開通した。

「おはぐろとんぼ 稲荷堀」

 板前だった父親仕込みの腕で、女ながらに料理茶屋で働くおせん。そこに上方から新しい板前がやってきたが……。
 稲荷堀は現在の中央区日本橋、蛎殻町1丁目と小網町の境にあたる一帯にあった堀割の名前。その河岸に稲荷神社があったことから、稲荷の音読みが訛って「とうかん堀」と呼ばれるようになった。流通の要衝で多くの問屋が集まり、行徳からの塩の受け入れ口だった他、江戸と下総を結ぶ交通路として賑わった場所でもある。
 つまり稲荷堀は、違う土地を結びつける場所なのだ。しかも運ぶものは塩である。そう考えれば、上方から来た板前とおせんの出会いを描いた本編にぴったりだということがおわかりいただけるだろう。

「日向雪 源兵衛堀」

 真面目に働くきょうだいの中で竹蔵だけは半端者だった。他のきょうだいのもとに金の無心に行っては迷惑をかける。母親が死んだ晩にもその態度は変わらず、すぐ下の弟・梅吉はついに堪忍袋の緒が切れて……。
 源兵衛堀は墨田区、現在の隅田公園の近くにあった堀。隅田川から業平橋まで木材輸送のために開削され、源森川とも呼ばれる。農業用水である北十間川と最初はつながっていたが、隅田川増水時に洪水が多発したため、間に堤が設けられた。明治時代に再接続されるものの、戦後は水位調整のため樋門が設けられ、再び分断。
 作中に登場する曳舟川も含め、大川からつながる複数の堀がそれぞれの役目を果たす中、「つながっていられなかった堀」が源兵衛堀である。それは兄弟に疎まれ、ともに助け合うことができなかったこの悲しい物語にひどく似合っている。

「御厩河岸の向こう 夢堀」

 弟の勇助が突然、前世の記憶を語り出す。生まれる前は御厩河岸の向こうにある夢堀の近くの花屋の息子だったが、10歳で死んだというのだ。しかし夢堀などという堀は聞いたことがなくて……。本書の中では異色の、ファンタジックな物語である。
 舞台となるのは御厩河岸。現在の台東区蔵前である。「御厩河岸の渡し」と呼ばれる渡し船が対岸の本所石原町(墨田区本所)と結んでいた。この近くにあった埋められた堀、「埋め堀」を言い間違えたのが「夢堀」だ。江戸時代初期に上野館林藩の蔵屋敷が置かれ、輸送のために堀が造られたが、貞享年間に蔵屋敷が移転、堀は埋め立てられた。江戸期には、「埋堀片町」「石原埋堀町」という町名も残っていたという。
 かつては存在したが、今はない堀。そこにあったことも次第に忘れられていくであろう、かつての堀。死んだ子を忘れられない親と前世を覚えている息子を姉の目を通して描くことで、過去を支えにしながらも、それに囚われずに今を生きることの大切さを説く物語である。

「隠善資正の娘 八丁堀」

 北町奉行吟味方同心・隠善資正は、かつて妻を殺されたという過去を持つ。赤ん坊だった娘はその時以来、行方知れずのままだ。今は後添えを貰い、子にも恵まれて幸せな日々を送っているが、縄暖簾で働く19歳の娘・おみよが前妻に似ていることに気づき……。
 八丁堀が舞台だが、本書で唯一、堀が登場しない一編である。中央区にその名を残す八丁堀は、町奉行配下の与力や同心の組屋敷が置かれたことから、彼らそのものを指す隠語としても使われたのは有名な話。堀はもはや単なる水路ではなく、生活の場であり、そこで暮らす人々のことでもあるのだ。

 宇江佐真理が敬愛していた藤沢周平の代表作『橋ものがたり』(新潮文庫)は、江戸の各地の橋をモチーフにした短編集だ。また、藤原緋沙子には江戸に多い坂を取り上げた短編集『月凍てる 人情江戸彩時記』(同)がある。それらは橋や坂を、結界を越えるものとして描いている。

 翻って本書が堀に仮託したのは、市井の人々の生活だ。生活のすぐ近くにあり、辛い時にはその水面を見つめてため息をつき、苛立った時にはやはり水面を見て心を落ち着かせる。堀の水の流れる先にいる家族や知り合いを思うこともある。時代によって堀の姿が変われば、そこに暮らす人々の生活の形も変わる。江戸市中を縦横に走る堀は、常に暮らしのそばに、市井の人々の傍らにあった存在なのだ。親子やきょうだい、家族の物語を描くのにうってつけだ。さらに堀が人工の川であることを思えば、再婚の夫婦やなさぬ仲の親子の物語が多かったことにも合点がいく。人工の川であっても、自然の川と同様に堀は人々を潤し、癒やし、生活を支えてきたのだ。

 市井の人々の日常を掬い上げ、家族を大切にする心を描いてきた宇江佐真理が、堀にその思いを託して書き上げた連作である。宇江佐真理が亡くなって6年以上が経つが、その思いはこうして物語の中に生き続けている。それは、埋められてなくなってしまった堀が今も歴史ある地名として、賑やかな商業地として、人々の憩いの場として、交通の要衝として、今日の東京の暮らしに寄り添っているのと同じように感じられてならない。

 なくなってしまっても残るもの。いつもそばにあるもの。それが堀であり、宇江佐真理の作品なのである。


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