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『帝国の慰安婦』著者・朴裕河さんが鎌倉で辿る、歴史の「強さ」と「弱さ」/文庫版刊行記念エッセイ公開

 朴裕河さんの『帝国の慰安婦――植民地支配と記憶の闘い』(朝日文庫)が刊行されました。性奴隷か売春婦か、強制連行か自発的か――。両者の主張の矛盾を突きつつ、解決のための「第三の道」を提案。慰安婦問題の意味を問い、「帝国下の女性」を考える一冊です。本書は第27回アジア・太平洋賞特別賞、第15回石橋湛山記念早稲田ジャーナリズム大賞を受賞しました。朴さんが「一冊の本」2024年7月号でご執筆くださったエッセイを掲載します。

朴裕河『帝国の慰安婦』(朝日文庫)
朴裕河『帝国の慰安婦』(朝日文庫)

鎌倉に暮らせば

 3月から、鎌倉で暮らしている。半年や1年とかの長期滞在ではないから「暮らす」という言葉は相応しくないのかもしれないが、宿に寝泊まりするのとは違って掃除洗濯もするし、庭の梅の木から落ちてきた梅を拾っては蜂蜜漬けにしてみたりもしているのだから、自分では「暮らす」気に、すっかりなっている。

 もともとは冬休みを使って東京に3週間ほど滞在する予定だった。それが、11年前に韓国で出した『帝国の慰安婦』に関する裁判の大法院(最高裁)判決が昨年の秋にようやく出、民事裁判も再開されたので、裁判終了を待つ時間を日本で過ごすことにしたのである。定年後も続けていた週1回の大学講義も辞め、いわゆる「定年後」らしき時間を過ごせるようになったのは、鎌倉在住の知人が、しばらくの間海外へ出るからと家を貸してくれた幸運も手伝ってのことだった。執筆という仕事は続けるが時間を自由に使える人生のいっときに、鎌倉のひっそりとした風景がひときわ心にしみたのは、10年もの時間を世間の喧騒の真っ只中に置かれてきたからかもしれない。

 観光客の集まるような場所には未だあまり行っていない。その代わり、人の少ない寺や路地や裏山を、毎日歩いた。朝早く、あるいは昼すぎに出かけて目標の場所を目指して歩きながら、目に入った店でお昼を食べ、辿り着いた空間にしばし身を置いてはそこの空気を少し体につけて帰って来るような日々を過ごしている。残った裁判への出席のため韓国へ行ったり、仕事や用事のため東京に行ったりもするのだから、まるまる鎌倉にいるわけではないが、今や鎌倉は自分の中で「帰る」場所となっている。

 偶然入った店が、川端康成がトンカツを食べにきた店だったことや、その昔女性たちの避難所になっていた「駆け込み寺」――東慶寺に実は小林秀雄や野上弥生子が眠っていることや、漱石の「こゝろ」の冒頭に出てくる海がすぐ近くの海だったことなど、毎日が新しい発見の日々である。母親が異なっても愛情を育てられる姉妹を描いていて美しかった映画「海街diary」の海で深呼吸をすると、死んだ細胞が生き返る気がした。

 名前を初めて知った花海棠はなかいどうが咲き誇っていた妙本寺では、雨の中宝石を見た、と思ったし、その昔小林秀雄に恋人を奪われた中原中也が、一緒に花を眺めていた際「もういいよ」と呟いた気持ちが理解できる気がした。美しいものは、人を許しへと導く。

 ゆっくり流れる時間は人を回顧的にする。小林秀雄の墓の前にあった花を見たとき大学の学部1年の授業で流れていたモーツァルトの旋律を思い出し、その音盤をかけてくれた音楽の先生の少し黒かった顔が目に浮かんだ。少し暗かった教室を満たしていた旋律に心揺さぶられた19歳のある日の夕刻を思い出したのは、小林がモーツァルトについての美しい評論を書いていたからだろう。あの頃はまだ小林を知らなかったが、代わりに音楽評論家の吉田秀和を読みふけっていた。夕刻の暗い教室を思い出させたのも、寺の静けさの技だったはずだ。

 鎌倉市川喜多映画記念館という小さな映画館を見つけたときは、鎌倉がわたしに、思う存分思い出に浸るように、と言ってくれている気がした。わたしの学部留学生活を支えてくれたのは、音楽や本だけでなく、情報誌「ぴあ」を片手に訪ね歩いたいくつもの小さな映画館での時間でもあったからだ。巣鴨の三百人劇場や神保町の岩波ホール、池袋の文芸坐、京橋のフィルムセンターなどへ、わたしはよく一人で映画を見に行った。映画館の暗闇に身を委ねていた時間は「留学生」の自分から降りて、ただの自分に帰る時間でもあった。

 というわけで初めてなのに懐かしかった鎌倉の映画館で、先日「福田村事件」を見た。加害を余すところなく表現しようとする気迫がみなぎる映画で、集団差別が実のところ個人的な憎しみと連動することをもよく表していて、いい映画だった。

 ただ、朝鮮人という理由で殺される少女が英雄的すぎた。圧倒的な暴力に晒されると人は多くの場合悲鳴さえ声にできない。おそらく朝鮮人への贖罪意識がそう表現させたのだろうが、弱い者は弱いままに描いてほしかった。マイノリティとしてひっそり生きてきたはずの少女が、いざ死ぬ間際に独立運動の少女のようにならねばならないのだとしたら、悲しい。少女の凜とした抵抗の姿は、残された人々の期待が込められたものではあるけれど、強さへの欲望の裏がえしでもある過剰な期待は、弱い者への理解と許しを拒む。

 暴力に立ち向かう勇気以上に、立派なことなど何一つできなかった人の無力さややるせなさが記憶されてこそ優しい世の中になる気がする。被害者が加害者のことを理解できるのもそのような社会であってこそ可能なのだろう。暴力は、発生の主体ではなく構造が理解されて初めて防げると、ずっと思ってきた。弱い者が弱いまま死ぬことが許容されて初めて、残された者たちも、弱いまま、弱いことが傷にならない人生をなお生きていけるのだろう。

 暴力は、強いからではなく弱いからこそ起こる。福田村の人々が公権力を待たずに「自警」に出たように。弱いからこそ恐怖に打ち勝つことができない。殺されるのが怖いから殺す。殺すことは強さを必要とするし、そのような強さを求めてきたのが日本の近代とわかってきたのが、思えば留学の賜物でもあった。

 とはいえ、朝鮮での集団殺害に関わった記憶を持つ元教師が、その後の日常に支障が出るほどの深いトラウマを抱えてしまうのは、彼が傷つきやすい心――弱さを持っていたからなのだろう。福田村での集団殺害という暴力に加わらせなかったのも、彼が柔らかい心を持っていたからのはずだ。

「無用」とされながらも文学や映画や音楽などが大切にされてきたのは、多くの場合そこでの試みが弱いものを弱いままに描こうとしていたからだと思う。だからこそいい映画や音楽や本は、涙する瞬間をわたしたちに恩恵のようにもたらしてくれる。中原中也の心を溶かしたのも、散る花の儚い命だったのだろう。

 明治初期、岡倉天心はモンゴルと一緒に攻めてきた朝鮮を記憶し、近代朝鮮を侵略していい口実とした。そこにあるのは強者の思想と欲望で、以後、近代日本は圧倒的な暴力の道へ進んだ。そこで忘れられていたのは、弱いからこそ美しいものたちに寄せる気持ちだった、とわたしは思っている。

 人類の歴史で暴力が絶えたことはないし、現に今でも戦争は続いている。鎌倉の海辺でK POPのダンスを踊ったり、ハワイアンダンスを踊ったりしている人々の姿を見ながらつい涙ぐんでしまったのは、加害と被害の暴力にさらされたあと、平和を守る努力を続けてきた日本の戦後を目の前に見る気がしたからだった。

 本稿のタイトルを「鎌倉に暮らせば」にしたのは、サンプルとして送られてきたあるエッセイからの借用だ。そのエッセイが気に入ったからでもあるが、井上ひさしの戯曲「父と暮せば」を思い出したからでもある。圧倒的な暴力の犠牲者となった個々の「心」と向き合う前に国家の名を思い起こすようでは、わたしたちは中原中也の許しにさえいつまでも至れないのだろう。今回、『帝国の慰安婦』の文庫版の後書きを鎌倉で書けたのは、そういう意味でも幸いだった。


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