ダ・ヴィンチ・恐山こと品田遊さんウロマガ本第2弾発売決定!!! 『キリンに雷が落ちてどうする』より「はじめに」を特別に公開!
はじめに
(『キリンに雷が落ちてどうする 少し考える日々』より)
「手拍子」が嫌いだ。
コンサートで楽曲が盛り上がってくると、どこかから手拍子の音がする。聴こえてきたな、と思ったときにはもう遅い。破裂音はパンデミックのように拡大し、またたくまに本来の演奏をかき消さんばかりの勢いになる。
手拍子は、客席の誰かが手を叩き始めたのを聴いて「そういうものなのか」と思った人により発生する、なし崩しのムーブメントである。拍手という発信の形をとっているが、受動性の塊だ。そこで手拍子をしなければならない理由は誰も知らない。胸の前で往復する腕はまるで自分のものではないみたいで不気味だ。
今日も誰かの作ったリズムに乗って生きている。レスポンスありきのコールばかりが投げかけられている。悪いニュースを見たら「許せない」と思い、かわいい猫を見たら「ほっこり」して、武勇伝には「スカッと」する。出力そのものにあらかじめ反応が織り込まれているようだ。そんな社会にはなんだか「モヤモヤ」する。いや、このモヤモヤだって誰かの作り出したリズムではないのか。気がつけば自分も手拍子を打っている。
日記を書くときは大抵夜だ。真っ白なエディタの前にはなんの音も流れていない。キーボードの上で広げた指を揺らしながら今日のできごとを振り返る。何も書くことがないなと必ず思う。やがて遠慮がちに指が落ちて、トン、トンとキーを叩き始める。少しずつ文字が並んでいく。リズミカルにはいかない。日記を始めて四年以上になるけれど、一時間がかかってしまう。まったく書き慣れないが、それでいいと思っている。
自分が生み出した不揃いなリズムに耳を傾けるとき、擦れてできた小さな傷が癒されるのを感じる。あったこと。考えたこと。感じたこと。それらは言葉にする前から常に「外側」にさらされていて、気づかぬうちに変形し、あるいは忘れられている。白紙を囲むまっすぐな四辺はその脅威から一時的に身を守る壁になる。だから私は今日も手拍子の聴こえない部屋に逃げ込む。