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「どうして学校に行かなきゃいけないの?」と子どもに聞かれた時の答え方

 子どもに「どうして学校に行かなきゃいけないの?」と聞かれたら、あなたはなんと答えるだろうか。
 新学期が始まって、元気に登校する子どもたちの姿が見られるようになったが、一方で「学校がしんどい」という子どもたちもいる。考えてみれば、多くの大人も日々、生きづらさを抱えているのだから、子どもたちが言葉にできない「もやもや」を抱えていないはずがない。
 中央大学法学部の遠藤研一郎教授が監修した『12歳までに身につけたい 社会と法の超きほん』は、「いろいろな人が暮らす社会の調整役=法」という考え方に基づいて、子どもたちが抱えているであろう多くの「もやもや」に対する答えを提示している。

遠藤研一郎監修『12歳までに身につけたい 社会と法の超きほん』(朝日新聞出版)
遠藤研一郎監修『12歳までに身につけたい 社会と法の超きほん』(朝日新聞出版)

■どうして学校に行かなきゃいけないの?

 例えば、冒頭に挙げた「どうして学校に行かなきゃいけないの?」という疑問。「義務教育だから」という答えは適切だろうか。実は、「義務」を負っているのは子どもではなく大人。保護者は「子どもたちに教育を受けさせる義務」を負い、子どもたちは「教育を受ける権利」を持っている。

 では、保護者に「義務」を負わせるくらい学校に行くのが大切なのはなぜか。知識を得るだけならインターネットでも足りるかもしれない。だが、友だちと会ったり、給食を食べたり、クラブ活動に参加したり、といった事柄は、「学校に行く」ことに含まれる重要な要素だ。自分とは違う意見があることを知ったり、興味のなかった分野に新しい発見をしたり。それをきっかけに、夢ややりたいことが見つかることもある。学歴は必須のものではないが、学校に行かないと、将来の選択肢が狭まってしまう可能性は否定できない。これが、社会問題となっている「格差」にもつながっていくのだ。

 誤解してほしくないのは、「子どもに教育を受けさせる義務」は「イヤがる子どもを無理やり学校に行かせる義務」ではないということだ。正しくは、「子どもが安心して学ぶ環境を整える義務」。学校内にいじめや人間関係のトラブルがあるなら、まずはそのトラブルを解決するために、教師や保護者など周囲の大人が働きかける必要がある。フリースクールのような、子どもが学ぶための別の場所を探すことも選択肢の一つだ。

 子どもは、自分で学ぶ環境を整えることはできない。逆に言うと、教師や保護者に助けや協力を求めることは、子どもの大切な権利なのだ。

■多数決で決まったことは絶対なの?

 クラス内で何かを決めなければならないとき、意見が分かれてしまったらどうするか。「多数決」を行うのが普通だろう。集団の中で納得する人が最も多い意見に決める「多数決」は、議員を選ぶ選挙や、法律を決める議会でも採用されていて、民主主義の社会では一般的だ。

 ただ、多くの票を集めて決まったからといって、絶対に正しいかというとそうではない。

あらゆることを多数決で決めていいわけではない。個人に関することを中心に、多数決には向かない事柄だってある

 多数決だといつも少数者のほうに属してしまう「マイノリティー」の人の意見や希望は、聞かなくてもいいのか。いつも同じ人が負担を強いられるとしたら、決め方を見直す必要がありそうだ。

 そもそも、多数決で決めてはいけないことだってある。例えば、男子のほうが人数が多いクラスで「そうじ当番は女子だけにやってもらう」という案を多数決にかければ、女子が不利になることは確実。少数者に一方的な負担を課すことになる。

 明日、自分が学校に着ていく服の色をクラスの多数決で決める、と言われたらどうだろう。「みんなが似合う色を決めてくれるからいいんじゃない?」などと納得できる人は少ないはずだ。個人の自由に関することを決めるには、多数決は向かない方法だと言っていい。

 多数決を採る場合、重要なのは、事前によく話し合うこと。互いの意見をじっくり聞くことで、それぞれの意見のいい点と悪い点がはっきりする。結果、意見を変える人も出てくるかもしれない。最終的な結果が同じになったとしても、みんなの「納得感」は違うはず。多数決も「絶対」ではないということだ。

■大人の言うことはいつも正しいの?

 自分がやりたい!と思うことを、ことごとく「ダメ」と言われることで、もやもやを抱えている子どもも少なくないだろう。実は、自分のことを自分で決める権利=「自己決定権」は、子どもも大人も、生まれながらにして持っている「権利」だ。

大人にも子どもにも「自己決定権」はある。個人の自由が制限されるのは、社会全体の利益が守られないときだ

 例えば、自分が好きな洋服を着ていたら「男の子(女の子)みたいだから」と親に反対されたという場合。

 多数決のところでも少し触れているけれど、本来、いつ、どこで、どんな服を着るのかは、本人の自由。「自己決定権」に含まれている。「表現の自由」としても、保証されていると言っていいだろう。家族や友だちの意見にかかわらず、好きな服を着ていいし、反対される場合にはその服を着たい理由を説明し、納得してもらうことも大切だ。

 ただ、制服など、その場のルールがある場合は別。もちろん、ルール自体の理由や必要性に疑問が生じる場合もあるが、「自由」は、その前提である「他の人に迷惑をかけないこと」が守られない場合、制限を受けることもある。

 仲間と集まって公園でキャッチボールをしていたら、近所の人に「危ないからやめるように」と言われたという場合。友だちと公園で遊ぶ自由は、みんなに認められている権利。でも「危ない」と感じた人がいるということは、公園に来ているほかの人の権利を奪っているかもしれない。小さい子どもたちにボールがぶつかる危険はないか。ベンチでゆっくり本を読みたい人の邪魔になっていないか。見回してみよう。個人の自由は、社会全体の利益を守るために制限を受けることがあるのだ。

 ここで、「大人の言うことはいつも正しいの?」という質問に戻ろう。

 日本では18歳以上が成人(成年)。18歳未満の人は「未成年」といって、「親権」を持つ保護者のもとで守られるべき存在とされている。判断能力や社会経験が十分に備わっていないとされているからだ。「親権」は、未成年である子どもの成長を、保護者が支える義務であり権利。子どもの教育や財産管理などを行うことは、法的に認められている。とはいえ、子どもの意見を無視して親の好みや思いを一方的に押し付けることは、子どもの「自己決定権」を認めないことになる。なお、親の言動が行き過ぎて、子どもの心や体を傷つけるようなことがあれば、「児童虐待」とみなされることもある。

(構成/生活・文化編集部:上原千穂)

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