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何のために創作を公開し続けるのか

私は文章を書くのが好きで、この通り自分の考えをnoteで公開している。また、少し前から小説投稿サイトで一次創作の小説も投稿している。
だけど、たまに何でそんなことをしているのかわからなくなってしまう。
ただ書くのが楽しいなら、一人で書き続けていればよかったはずだ。実際、そうしていたい気持ちもあった。
だけど、結局は誰かに見てもらいたかったのだろう。こうして、見ず知らずの人々に書いたものを公開することを選んだ。
でも、そうすると今度は、他のクリエイターと自分との違いが浮き彫りになる。
特に、今の時代はSNSのシステムにより、「数字」という誤魔化しようのない客観的な評価がつきまとう。いいねの数、人気ランキング………。
気にしないように、と思っても、自然と目につけば、どうしても比べてしまう。熾烈な競争のようだ。たまに、うんざりする。創作物に優劣はないはずなのに。
どうしてだろう。
そもそも、そういう争いに巻き込まれるのが嫌だから一人で書き続けたいんじゃなかったか。
一人だけの宝物にしておきたかったんじゃなかったのか。
それでもこうして自分の創作物を公開する道を選んだのはなぜだろう。
もっと、人気が出てバズって、何百人、何千人もの人に見てもらえるようになれば満足するのだろうか。
いや、キリがない。もちろん、それはそれで嬉しいけど、そもそも、最初は数人に見てもらって評価してもらえるだけでも嬉しかったじゃないか。もっともっと、と求めても際限がない。終わりない承認欲求の無間地獄。本当に求めてるのは、多分そんなんじゃない。
多分、私が本当に求めてるのは。
たった一人でもいい。誰かが、心の底から、この小説に、この記事に、出会えてよかったと感じてくれること。
この物語は自分の人生に必要だったと感じてくれること。
自分の書いたものがそういう人に出会ってほしい。そう思ったからネットの海に自分の物語を残そうと思ったのだ。
以前、ある漫画家の方のエピソードで、戦時中に徴兵された時に支えとなる本を持っていったという話を聞いたことがある。
それを聞いた時、羨ましいと思った。
戦争という極限の状況でも頼りにされる物語を生み出せたことが。
他にも、大病を患って入院する時に支えになる本を持っていった人の話も聞いたことがある。きっとそんな例は数限りなくあるだろう。
私の書くものも、命がかかっているような状況でも誰かの心の支えになってくれればいいのに。
そう願うから、この道を選んだ。
結局、なぜ創作を続けて公開し続けるのかの問いは、なぜ生き続けて人に関わろうとし続けるのか、という究極の問いと同じだ。
社会には自分より優れている人、自分の上位互換に当たる人がたくさんいる。
それでも、自分は自分以外の人間にはなれない。今とは違う自分になることはできても、「自分」から離れる訳にはいかない。
だから、いつかたった一人でも、他の誰かじゃなく、自分と会えてよかったと心から思ってくれる人との出会いを探すしかない。
こうして書いていることすらもこの広い世界では二番煎じでしかなく、同じことをもっと優れた文章で綴る人がきっとたくさんいる。
でも、限りある人生の中で、私の文章に出会うという偶然を引き当てた人。
蓼食う虫も好き好きというぐらいだから、他ならぬ私の文章こそが好きなのだと思ってくれる人。
私の書くものがいつかはそういう人に出会ってほしい。
孤独に生きられない人間である以上、そう願わずにはいられない。


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