見出し画像

頑張れ人間!

文:小林新

自分が人にやられて嫌なことはしてはいけません

と言われることがあった。小さいとき。

でも今はどうなのかな。と思っている。

子供の頃はそれで良かったのかも。良し悪しの感度がはっきりしていたから。

でも少しだけ大人になってくると、今までなんとなく正しいんだろうなと思っていたことに違和感を覚えたり、これがいい、これでいい、これやだな、だめじゃん?みたいなものの判別を細かい出来事でもするようになってきて、自分の中で軸というか芯みたいなものが固まってきたと感じる。自分の中での「普通」。

でもその自分の感覚が、近くにいる他の人や、社会的に?多くの人に?それがいいとされてい
る(であろうと個人的に思っている)こととズレみたいなものを感じることがたまにある。

小さな小さな例で言えば、洋服屋さんなどでの「接客のあたたかさ」
僕は人見知りの方だし、服は1人でじっくり見たいタイプなので、何をお探しですかなどの声かけをされると話さなきゃいけない方にもっていかれて全然買い物に集中できないし、結果店員さんに勧められた服を思ってもなくイイですね!かわいいですね!とか言って買わないまでも乗っかってしまう。

でも店員さんからしたらお客さんが入ってきて話しかけないのは、お仕事マナー違反?的な感じだろう。話しかけた方がいいに決まってる。それはもちろんわかる。
だからここで僕が店員で、人にやられて嫌なことをしてはいけません精神をを引っ張り出して何にもアクションを起こさないと怒られてしまうだろう。でもそれがお客にとってはいいのかもしれない。何を求められているか分からない。

髪の毛屋さんでも、もちろん話しかける美容師さんと喋りたくない僕。

他にも、

親切にお年寄りに席を譲るのか、老人扱いされたくないだろう立つっていう運動をさせた方がいいだろうと思って譲らないのか。

相談に乗った友達にアドバイスをするのか、go my wayでいけとそのまま見守るか。

みたいなところで人それぞれだと思う。
そういう道徳の授業みたいなやつは個人的に結構好きだ。

結局何が言いたいかというと、いや言いたいことはないんだけれど、ここ半年くらいの間に、人間同士の、正しいと思っていることと正しいと思っていることのちょいとしたぶつかりを感じたり見たりする機会があって、「普通」「正しい」の軸がみんな違うことを強く再確認させられた。

真っ向から対していた場合やっぱりわかり合うのは難しい。「なんで分からないの?」「うちらが絶対正しいよ」と言ってしまったり思ってることが表に出てしまったらもうけんかみたいになってしまう。議論をするときに少しでも気に食わないと全部嫌いになってしまう日本人特有のやつになってしまう。

ちなみに僕は割と人の意見を受け入れるタイプではあると自分で思っている。逆にいうと自分の意志が薄いのと、話していてどうでもいいと思ってしまう。興味や気が薄れてしまう。だからあまりぶつからない。この軸もいろんな人とずれているのかな。

多数派がいつも正しいとは限らないし、少数派の意見を受け入れ過ぎてもいけないこともある。

自分が正しい、なんて誰も言ってはいけないのかもしれない。思ってもいけないのかも。
でもそうしたら自信てどうやって持つの?って。

ひとそれぞれなんて、そんなこと全部わかってても、感情があるから受け入れられなかったり怒ったり、仲間だと嬉しくなったり。

結局うまくいかないときは、人間だからしょうがない、で片付けてしまえるのが悔しいな。

人間だから完璧になれないのか、人間だから完璧になれる可能性があるのか、、

頑張れ人間!

⚠️全く病んでいるとか溜まっているとかではないです。


#日記 #人間て面白い

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?