下書きが下書きであるために
高校生活で継続して毎日やっていること言えばTwitterぐらいだ。Twitterとは数百文字の限られた空白の中で他人を含めた自分の個人的な感情を持ち寄ってそれぞれの魂を昇華させようという試みをしている尊いアプリである。僕はほぼ毎日、noteで書いている文章を掌サイズにしたみたいなツイートをちまちましている。一ヶ月後に見るとちょっと面白かったり、そうでなかったり、たりたり。ところで、noteにもあるがTwitterには「下書き」という機能がある。それはいわゆる、感情の保存場所だ。その時の、個人的で誰にも見せられないぐらいの普段なら押し殺されるべき感情が入り込んでしまった言葉たちの保管場所だ。それは「下書き」だからこそ持てる性質だと思うし、僕はそういった個人の話(それが例え自分であったとしても)や生活の延長の話が好きだ。そして、そういうのを大切にしていきたい、と最近思う。
Twitterを辞めた。上記の文章はTwitterをしていた時の下書きだ。これは下書きだからこそ良い文章なんだなと思っていた。今、noteの海に放流してしまったことでつまらないものになった。そういうことも大切なんだと思う。Twitterを辞めるにあたって、Twitterの下書きも全てツイートした。手放すべきだったんだと思えば興味を失うぐらいのものだった。そういう諦めがどんどん上手くなってきたと思う。寂しい。
そもそもTwitterを辞めたのは本末転倒だと思ったからだ。僕は本来、Twitterを未知の作品への入り口や自分の感情の掃き溜めとして使っていた。Twitterを通して見識を広めたり芸術に心酔したり作品に精通したり感情整理したりしたかった。それが今じゃ、作品に触れることはおろか、自分の感情さえ上手く吐き出せなくなった。脳みそに入っていないくせに、他人の言葉を流し読みして時間を割いていることに意味を見出せなくなった。だから一旦、メモ帳に溜まった読みたい本リストを消化しようと思っている。約八十冊ほどある。まあ、二日に一冊読めば半年もかからない。それらを読み切ったら、もう一度Twitterを始めてみようと思う。要するに僕はまた別の気持ちでTwitterをやってみたくなったし、もっと他人の思想を深く知って今までの人生の中で誰かに傾倒するぐらいの嗜好を持つべきだと思ったのだ。
そんなことを思って突発的に衝動的にTwitterを辞めた僕は今、そうやって依存先から逃れなくてはいけないほど何かに焦っている。それは時間が過ぎるのが段々速くなっていると感じるからだ。一拍の空白が欲しい。音楽でいう休符が、生活というか人生において欲しい。けれどそんなに都合のいい休符は存在しないから、僕は最低限のリズムをとって欲しい音を拾っていかなければいけない。その音がいわゆる読書だったり、映画鑑賞だったり、創作だったりする。単音でもコードでも何でも良いから丁寧に響くものが必要なんだと思う。とりあえず考えるよりもまず行動しなくちゃ何も始まらないことを漸く理解しつつある。頭ではなく本質的に、もっと深い意味で。
下書きを下書きとして
下書きが下書きであるために
下書きを保存する。
下書きを削除する。
そのとき下書きは下書きのまま
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