生活、トゥエルブナインの純度

同級生はみんな新生活を始め、新しい土地で不慣れな自炊に四苦八苦しているのだろうか。サークルとか入って、少し大人びた先輩に憧れ始めたり、新歓ライブで盛り上がったりしているんだろうか。徳島に残ってしまっている僕は、それを知らない。怠惰な生活の延長を続けて、それ故に彼らとの(想像上の)ギャップに気息奄々としている。特殊な学校に来てしまい、あと二年はこの土地で生活をする。同級生はみんなこの土地から出て行った。悲しみより妬みが心を覆っている。ゴールデンウィークにでも奴らのアパートへ上がり込んで、無賃宿泊で旅費を浮かそうかと考えている自分がいることにひどい惨めさを感じる。大学のオリエンテーションとか楽しいんだろうなぁ…新生活の夜は明るいんだろうなぁ…レポートすら苦じゃないんだろうなぁ…履修登録考えるの楽しいだろうなぁ…と考えている。そんな彼らに対し、二年も同じメンツでいるからオリエンテーションなどなく、新生活など1pmも知らず、レポートは毎週大量に発生し、ほとんど必修の僕は、こうやって蛆のように溜まったレポートを消化する合間の休憩時間に嫉妬でひたひたのnoteを書き殴っている。歯に衣着せぬことをこの場でなら声を大にして言える。つまりは、環境のハンディキャップが足りない。徳島には何もない。何もないことは、別にいいことなど一つもない。インターネットが救いだと、それだけしか言えない。中学生の時にこの学校を選んだのは中三の頃にこの学校の文化祭に来たことが大きな理由だ。物理実験室のカーテンを全部閉め切って、ヤラナイカを爆音で流して、先輩たちが踊っていた。狂ってた、完全に。だから入学した。しかし、コロナが(不完全に腐り切っていたであろう)僕のアオハルの前に立ち塞がった。文化祭や体育祭は中止、縮小し、バニーガールの仮装をしたムキムキの先輩をハロウィンパーティーで拝むことぐらいしか面白いことがなかった。普通科高校生とは圧倒的に違う自由度を活かしきれなかった僕の三年間は身を腐らせ、そよ風一つで線香花火のように落ちて、ぐじゅぐじゅに潰れてしまった。

生活は人生の核だろうと思う。誰かがいることは幸せなのかもしれない。一人でいるのもそれは幸せなのかもしれない。しかし、それは変わらない生活のなかでは仮説にしか過ぎず、強引な変化の中で奥華子も歌っていたんじゃないかと思う。変わったから変わらないものを探したくなる。戻りたくなる人生が欲しい。戻りたくなる生活が欲しい。それを作るのは今の生活だ。限りなく100パーセントに近い今だ。過去になっていく今をどれだけ戻りたくなれるか。想像していた未来に漸近していく今、過去から徐々に離れていく今、トゥエルブナインの純度で追い求めていく今を、生活を、僕は書くことしかできないけれど。それでいい、それがいい、と言い聞かせてしまえる生活も幸せなんだろうか。

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