シン青春の門

青春編

        

せみが鳴いている。ミンミンゼミがうるさい。木立ちの隙間から朝日がキラキラと差し込んで枯葉で覆われた地面がまるで上下左右に揺れているようだ。

 ほんの数年前まで汗をびっしょりかいてセミを取りまくっていた。今ではなんでそんなことに夢中になれたかがわからない。考えればあれはまだ小学生時分だった。

ここはカブトムシもクワガタも沢山いる。あの頃来てれば良かった。しかしここはバスで来るしかないほど遠いからやはり無理だった。そもそも高校のふもとにこんなに虫がいることを知るよしもなかった。

毎日近くの小さな公園ばかりを探しているからセミしか捕れなかった。カブトムシなどをついに見つけられない公園だった。小学生の行動範囲ではクワガタなどの捕れる穴場を見つけるのは簡単ではなかった。友達に聞いても虫カードで遊んだり、虫の専門店で買うことはあっても自分で捕りに行く友達はいなかった。

 

 

今日は夏休み恒例の学校主催の進学特別セミナーがあるのでバスに乗って不承不承高校へ出てきた。

「あんた来年は大学受験じゃなかね、ぐずぐず寝てる場合じゃなかでしょ。バンドなんかもやってる場合じゃなかでしょ」

母親にたたき起こされて出てきたのである。

 

 学校は山そのものである。100年以上昔に小高い山の上部を切り開いてできたのでふもとからの高さは20メートルはあるだろう。

 山の斜面の正面に取り付いた石段を登ると、もはや古ぼけた3階建ての鉄筋コンクリートの校舎がありその裏にグランドが開けている。ピラミッドの中腹で平たく切り取ったような台形の敷地であった。

 2階の教室からは遠くにボタ山も見えていたが、もはや緑に覆われていた。ボタとは石炭を掘った際に出る売り物にならないくずである。

 閉山の嵐が吹き荒れて既に50年を経過していた。本来は不毛の土砂の集合体であって雑草も生えなかったが、さすがに雑草の生命力は強く、小高い山一面を覆っていた。

 

 小学生の時に一度だけ三人の仲間とともに冒険に行った思い出がある。恐怖の体験だった。ボタ山の近くには当然炭坑の開口部がある。斜面では無く垂直に掘られた縦坑である。

 廃坑であるうち捨てられた縦坑の鉄の大きなやぐらは赤茶けていて、触るだけでもボロボロと表面が崩れる。太い鉄格子で閉じられているもののその底の見えない深い穴はその晩の良男の夢に出て唸らせるほどの恐ろしさがあった。

 友達の一人が錆びた古いパイプを見つけてきて格子の間から投げ落としたが、もう長い時間が過ぎて底には着かないのじゃないかと思った頃、漸く何かに当たって跳ね返っているのだろう。

 カーンカーンと音が反響してきた。底知れない深さに震えを感じた覚えは今も消えない。

 

 

 斜面は木々に覆われている。

 正門の反対側の道から登っていた。

そこは四角い山の尾根に当たる部分であって、松やはぜなどの林の間隙を抜ける広めの獣道のような小道であって、石段などは無く滑りやすい。体育館の裏に通じる道である。

 小砂利まじりの土が露出している山道である。

落ち葉でさらに足が滑る。

 学校の敷地をぐるりと囲む、車がようようすれ違える四辻の道と山のふもとの間にへばりついている2階建ての小さな文具店があった。お好み焼きも食べられる。

 だから角店と呼ばれていた。その店の左側の横を抜けて裏に回ると山道があるのだ。角店の反対側も道沿いにところどころまだらに田んぼがある低い山肌の続く田舎道であった。

 向こう側だけに電信柱が数本並んでいて電線が繋がっていた。殆ど車の通らない砂利道で、女子生徒は気味悪がってこちらの道からは登校しない。

運動部の練習は違っていた。女子生徒たちもランニングで駆け回る。正門の石段を駆け下りて学校の外周を幾度か回りそして斜面を駆け上るのだ。

 

だから運動部に属する女子生徒は角店も知っている。形ばかりの文具品が置かれていたが、お好み焼きが食べられてジュースやコーラや冷たい麦茶も飲める。菓子パンもあった。だから当然買い食いをする。

角店に出入りするのは圧倒的に男子生徒が多く、たいていが野球部や柔道部そして相撲部の連中が入り浸っていた。4人しか座れない店でほとんどが立って飲み食いをしている。

 テニス部など男女が半々のクラブなどは不思議に出入りしていない。

そんな店に行かずともカップルができるので必要なかったのか、テニス部は男臭いクラブとはなぜか仲が良くないのである。男ばかりのクラブは女子生徒がいないやっかみがあるのだろうか。

 

良男は夏休みのこの日までこの斜面の道を登ったことは無いが、友人と帰り道に幾度か降りたことがある。正門を降りるよりも近道なのだ。

たいていは柔道部の連中が角店の店内から不穏な目つきを投げかけてくるので角店には入ったことが無い。良男はテニス部でもない。

 そもそもクラブそのものに属していなかった。クラブが出会いの場と知っていたらテニス部に入っていただろう。

 目的も無く進学校という理由だけで親が勧めるままに入学した高校である。

 否、勧めると言うよりは中学教師も同級生も目指すのがあたりまえだった。

 

無目的に茫然と日々を過ごす者も少なくない。落ちこぼれは良男だけじゃない。

とりとめもなく猥談をし、たまに隣町で映画に行き書店で立ち読みをする。隣町の気の緩みから本を万引きするものもいた。なぜか捕まった話は聞かなかった。

 放課後に学校の制服を着たままパチンコにも行っていた。襟のカラーごと裏返してあたかも背広のようにして入るのだ。見え見えの偽装なのでバレバレだが店員が黙認しているだけである。

 

 ある日曜日、バンド仲間と三人で行ったパチンコ屋の中で、若い生物学の教師にばったり出会った。

 決まりが悪く3人揃って「あ、先生こんにちは」と挨拶してしまったのはまずかった。そんな挨拶をされたら周りの観客に教師であることがバレバレである。私服で来ているのだから無視していればよいのに咄嗟に反応してしまった。

教師は口を尖らせ斜め上を見ながら良男たちを無視した。

翌日の月曜日の授業でその教師が言った。

「えーか、お前らどこでも挨拶すりゃ良いってもんじゃねーぞ。わかったか」

「パチンコ屋の中では挨拶はするな。俺の目にはお前らは見えないからお前らも俺が見えるはずは無いよな」

 ぽかんとして次には笑いがこみ上げてきて押し殺した。クラスでは少しばかり歓声があがったが教師のひと睨みで収まった。教師の会合で公にされたら、停学まではなくとも謹慎処分はあるだろう。粋な教師で人気があるのは当然だろう。

 

 面白い講義をする教師でもあった。

ある日いきなり

「ええか、お前たちも色気づいているから教えておく」

男子だけのクラスだから言うのだろうが、教室はざわめいた。

「赤ちゃんは妊娠してから十月十日で産まれると世間じゃ言われるが、この一月は旧暦の一月じゃから28日で計算する。つまり290日じゃ、今で言うと9ヶ月と20日目になる。

20日もずれとるから浮気してできたんじゃと疑って離婚した馬鹿もたまにおるから、お前たちに教えとく。

生物学は受験にだけ役立つんじゃない。他のことはケロッと忘れるじゃろうが、これだけは忘れんじゃろう」

言い終わると教師は楽しそうに笑った。

良男には現実感のないことで隣席の哲夫を見やると歯をむき出しにしえ大笑いをしていた。教室中が笑っていた。

 めずらしく斜面を登っているのは、学校一番と評判の美少女を駅前で見かけて、ついつい後をつけて歩いていたためである。

学校へ向かうようだからセミナーを受けるのだろう。私服の膝丈のワンピースが眩しかった。締まった腰から下はフレアースカートで良男にはまるで映画の中の舞踏会のドレスのように感じていた。娘はいつもの左右のお下げではなく髪が肩までに達っしておりそのストレートな美しい髪に、良男はうっとりとした。

 

黒田麗子とその名を知っていた。男子生徒の間にはいつもその名が行きかっていた。

形の良いすんなりしたふくらはぎは瑞々しく、キュっとしまった足首を見ながら良男は夢遊病者のように付いてきたのである。いつもの正門への登校路ではなくいきなり角店の左方向への道へ麗子が曲がったので良男は尾行をためらったが、やはりそのふくらはぎを眺める誘惑には勝てなかった。どうせセミナー開始までは時間が余る。

麗子はすたすたと良男の前を歩いていく。良男の尾行には気づく風も無い。

角店の前で立ち止まりいきなり振り返ったので、良男は決まり悪く道路に視線を落とした。

視線を元にもどした瞬間、麗子のふくらはぎが角店に入っていった。

 

 いや、角店の向こうの山道に行ったのだろう。良男はそう思って走り出した。

少し斜面の道を駆け上ったが麗子の姿はなかった。

やはり麗子は角店に入ったのだろうか。道を戻り道路から角店を覗いたがおかみさんの姿が見えるだけで麗子の姿は無い。

不思議に思いながら良男は山道を再び登り始めた。そしてセミの鳴き声に囲まれて校舎にたどり着いた。

 

セミナー開始までは30分もある。大きな半円をした漏斗状の大教室の一番後ろに席を取った。すぐ後ろに出入り口がある。トイレも近い。食堂も近いのだがあいにくと今日は夏休みで営業していないだろう。いつものように一番に食堂に駆けつける楽しみは無いわけだ。

いずれにせよ哲夫と博が来たら「ええ席じゃ」と褒めるに違いない。授業中に抜け出すには最高の席である。

やはり親に叩き出されたのだろう。ほどなく哲夫が来てすぐにぼやいた。

「えらい日じゃ、学校が夏季セミナーのお知らせなんぞを郵送で送るもんじゃから親が知ってしもうたわ」

良男「お前、日頃勉強せんから自業自得じゃ」

哲夫「あれ、お前もじゃろーが」

良男「えへへ、ま、そうだな。それを言やー博も同じじゃ。それともどっか他に遊びに行ったかの」

哲夫「そりゃないじゃろ、俺らがおれば来るって。彼女もおらんし行く宛てもなかよ」

良男「そりゃそうじゃ、俺たちもてんもんな。バンドをするともてるちゅうのは、嘘だな」

哲夫「だけん良男は甘い顔しちょるけん、お前を好いちょる女子がそこそこおるらしかぞ」

いつもの哲夫の愚痴で会話は途絶えた。

講義開始まで後10分ほどになったときに博が汗粒を顔中に吹かせてやってきた。一番前の教壇下から俺たちを探している。見つけた博の顔がぱっと明るくなり急いで登ってきた。

博「やあ、俺の席を取っといてくれたんだ。ありがとう」

哲夫「いや、この段は誰も来んよ。下の段もその下もだ。やる気のある奴はもっと前列だよ。ここはお邪魔虫の段だ」

博「ちぇっ、そうだよな。俺ら落ちこぼれじゃ」

哲夫「落ちこぼれじゃが、博は進学せんとか」

博「行きたかがのう、俺んちは余裕がないからのう」

良男は身につまされて無言であった。

 

博は中学では学年で一番だったと言うが今では下から数えたほうが早い。それは良男も哲夫も似たようなものだった。地域一番の進学高校に来たとたんに周りのレベルが上がり中学では上位でも高校ではいきなり真ん中から下になってしまう。

それでも一番を取る奴がいるのが3人には驚異的なことであった。

下がるとやる気を失いさらに下がる。そんな連中は決まって運動部で発散している。しかし良男たちのようにバンド活動に嵌まったり、ふらふらと茫然と日常を送る者もまた多い。

 

 良男は黙って聞いていたが気を取り直して言い出した。

「おい、黒田麗子を知っているよな」

博が身を乗り出して食いついてきた。

「当たり前じゃん、それがどうしたとよ」

良男は今朝の出来事をこそこそと二人に吹き込んだ。

哲夫は考えこみ言い出した。

哲夫「お前らよ、あの角店の噂を知ってるか」

「なんだ噂って」

おもわず良男と博は声を揃えてしまった。

にやにやと哲夫は笑い重々しく語り始めた。

哲夫「あのな、他言するなよ」

「わかってるからはやく言え」

博は急かした。

「あの店はおばさんがやってるだろう?」

ふんふんと二人がうなずく。入ったことが無いがそれくらいは外から見て判る。うっかり入って野球部や相撲部と鉢合わせしたら何を言われるかわからない。3人に限らず一般生徒にとっては鬼門なのである。

「あのおばさんはまだ40歳そこそこだろう」

「それで?」

良男たちはじれったい。

哲夫「あのな、やらしてくれるらしい」

博「え、やらすって何か?あれをか」

哲夫「そう、あれをだ」

博「ただでか?」

哲夫「あほか、ただってことはあるかい」

良男は何も言わずに聞いていたが下腹部がもぞもぞした。

博「その部屋が2階かな。すると麗子はなぜあの店で消えたんだ。2階に行ったのか」

3人はいやな予想をして顔を見合わせた。

博が言った。

「麗子は2階で男の相手をしているんじゃろう」

哲夫は言った。

「やめろよあの子に限ってそんなことするはず無かよ」

しかし3人の妄想は膨らむばかりである。麗子の行動を疑うしかなかった。

3人はショックで打ちひしがれた。良男は言った。

「別に俺たちの彼女でもなし、どうでも良いじゃないか」

「まあな」

と博。

「そりゃそうだ、しょうがなか」

と、哲夫。

「ところで黒田麗子のことを俺たちは何か知ってたかの」

博の質問に哲夫が答えた。

「なんでも麗子は親とは暮らしてないらしい。そう聞いたことがある。麗子の周辺の女子に聞いたが口が堅かったんでそれ以上はわからん」

一番好いてるのは俺だろうな。そう思うと心が締め付けられる。

博も哲夫も俺ほど麗子を好いとるわけじゃないだろう。

良男は気を紛らわすように口を開いた。

「あーあ、もうどうでもよかじゃん。それよか今日の帰りどっか行こうぜ」

「そうじゃな。しかし俺は金が無かけん映画も無理じゃぞ」

いつものように博が嘆いた。哲夫はまだこだわっていた。

「そん前にまず角店ば覗かなあかんがな」

「そりゃそうだな」

と、良男は返した。

「そうじゃな。それはたいして金がかからん」

そう言う博の頭の中は金の心配で一杯なんだろうか。確かにあいつの家は貧乏とは知っていた。

 博のギターは哲夫から貰い受けた古い物だ。哲夫の父親のお古だから三十年も前のギターだ。

一度哲夫と一緒に尋ねて行ったが随分とボロ家だった。家というよりは掘っ立て小屋という代物を初めて見た。

 悲しそうな顔をして博は良男たちを迎えた。なんと窓にはサッシが無くて戸板を上に付いてる丁番でぶら下げていた。その丁番も古タイヤを切って釘で壁と戸板に打ちつけたものだった。室内にはかろうじて裸電球がぶら下がっているので夜は戸板を閉めても明るくはなるだろう。

これを見て、尋ねた二人も悲しくなったし随分と悪いことをした気持ちになったが、それ以来博は吹っ切れたように貧乏暮らしをしゃべるようになった。

 貧乏話に笑い転げていたがその後はいつも3人一緒に悲しくなったものだ。貧乏の理由は片親であるとかが普通だが、博の場合は少し違っている。九州の北部にある壱岐の島で漁師をしていた親夫婦が息子たち3人の進学のために思い切ってこの本土に移住したのだ。博は島一番の秀才だったのだ。兄も妹も学年で一番の優秀さであった。このために親は決断したのだ。

しかし島で一番は本土ではそれほどでもない。おまけに50歳近い漁師はことごとく仕事

先で失敗ばかりでなじめないのだ。

昔で言う日雇いをしながら夫婦で働いたが、無理して山の裾野の今の住まいの土地を買ったのがまずかった。目の前の畑つきと言う不動産屋の言葉が嘘で実は今の掘っ立て小屋の建っている20坪少々の水はけの悪い土地だけだった。すぐ後ろは小高い山で湧き水がそばにあり水道だけは引かずに暮らせていた。

 島では畑もやり、半分自給自足での生活で現金も殆ど不要だったのが、いきなり何もかも金で買わなければならない生活となった。

 消費生活に不慣れな母親は切り盛りが恐ろしく不器用であった。

 良男が尋ねたときに貧乏な生活に驚くと同時に鍋や日用品が随分と多いのに気づいたのである。押し売りが来ると断れない。人が良すぎるとも言えよう。島の暮らしでは人を騙すことは考えられなかったが、ようするに世渡りが下手なのだ。

 稼ぎも少ない家では3人の子供の学費を捻出するので一杯だった。

良男は運動部の連中が怖かった。

「柔道部とか相撲部とかおらんじゃろうな」

「まかせとき、あいつらはアホじゃからセミナーには来ん」

威勢の良い哲夫だが、実は修羅場では一番に逃げ出していた。

あてにはならん奴じゃからな、良男は一切信用しなかった。ところがたまに男気を発揮することもあった。度胸の無いのは3人が似たりよったりだ。

 しかし哲夫の次の言葉には信用が置けた。

「柔道部監督の白井が言いよったもん。7月一杯は休部じゃと」

哲夫は正式な部員ではないが、ちょろちょろと放課後の練習には参加しているので情報は間違いなかろう。

いい加減な部員だが、なんとなく許されているのは哲夫の物腰が太鼓持ちのようなお調子者だからだろう。

それでいて角店には出入りしないのは不思議だった。いや行ったことがある。しかし、正式部員からなんとなく疎外されるらしい。それきり哲夫は行かなくなった。そこに角店の怪しさがある。哲夫の疑いはそこから始まっていた。角店には何かがある。

「そうじゃ、柔道部に斉藤ちゅう腰抜けが一人おるから呼び出して白状させようぜ」

「おいおい、そいつが他の部員に垂れこんだらまずいぜ」

博もびびっていた。

「なんの、任せとけあいつなら俺の子分も同然だ。後で呼び出すよ」

 教師が入ってきた。じろりと3人を睨んだ気がした。

 一限目の講義が終わったので哲夫が廊下の電話に行った。

「斉藤だろ、吉田だ」

近くにいた生徒が数人振り返る。いやな目つきだ。3人に対する蔑視の表情も読み取れる。哲夫はかまわずわざとのように声を大きくした。柔道部に出入りしているので威嚇力はある。

「あのな、学校の裏門に3時にな、来いや」

さすがに急な言いつけなので嫌がっているようだ。

「つべこべ言うない、ほなな」

哲夫は電話を切った。

 良男は気が乗らない。哲夫に言った。

「まず俺達は隠れてるぞ。聞いたらすぐ奴とは別れて教えてくれよ」

「そんなあ、虫が良かなあ」

「俺らはお前になんも頼んでおらんぞ、お前一人の自作自演じゃなかか」

「まあ、そうじゃけど水臭いのお。わかった、そうするけん」

不満げな顔をして哲夫は意外に真剣な顔を正面に向けた。

 全ての講義が終わり、良男は博と校舎の蔭に隠れていた。3人とも角店でお好み焼きを食べる予定で昼飯を抜いている。空腹と暑さで気持ちが悪くなりそうだった。だから気が焦る。

 裏門の鉄扉は開けっ放しでどこから人が来ても見通せる。この門の向こうはスロープが続いていて車で登って来れるのだ。斉藤がミニバイクで現れた。

 哲夫が偉そうに話しかけている。斉藤がしきりに首を振って嫌がっているようだ。あろうことか哲夫は斉藤の後ろに跨り良男達のところまで乗りつけてきた。

「なんじゃ、話が違うじゃんか哲夫!」

これで2人とも面が割れてしまった。

 斉藤は3人に囲まれて随分と怯えた。

「俺は何も知らんけんな」

哲夫は容赦しなかった。

「お前のう、随分俺が目をかけてきたろうが。このあいだお前が朝鮮高校の連中に囲まれちょった時に救ってやったのは誰か覚えとらんちか」

「ああわかっちょるよ、だけん何でも聞きよろうが。でも角店のことは知らんけん」

 哲夫は斉藤が口を割らんことを俺たちに言いたかったんだな。しょうがなか。

「哲夫、判ったよ。何もないか、あるとすりゃ警察沙汰にもなることかもしれん。あんまり深入りせんほうがよかぞ」

「良男は麗子ば好いちょろうが、これでよかとか」

 心の中をすっかり読まれていたようで良男は赤面してしまった。

「ほーれ図星たい。麗子ば好いちょるぞ良男は」

 博まで調子に乗って言った。

「良男んためにこんだけ哲夫が骨を折ったんじゃな。角店でお好み焼きくらい皆に奢らにゃの」

 哲夫は味方を得て勢いづいた。

「そりゃーよか、おい斉藤、お前も奢って貰えるぞ。学校に来た途端に良男の表情がやけに真剣じゃったもんな、こりゃーよほど好いとるばい」

 こうなれば真相を知りたいと良男は思った。4人分のお好み焼きの金は惜しいが、麗子の真実を知るにはしかたあるまい。

「よーし一世一代の大奢りじゃ、そん代わり一番安いやつにせーよ」

「おおー」

勝鬨をあげるように3人が答えた。

 裏門を出るとすぐに塀に沿って左に曲がる。

道と言えるほどもない狭い歩き固めただけの細い塀沿いの道である。角店の横に抜ける斜面へと向かった。さすがに斉藤はバイクでもと来たスロープを降りて行った。

角店につくと哲夫が勢いよくガラスの引き戸を開けた。博と良男が続く、通りを回ってきた斉藤もバイクを茂みに隠してから入ってきた。

哲夫が聞いた。

「お前なしてバイクば隠すとか、もしかしてまた盗んだとや」

「馬鹿なこつ言わんでよ。人聞きの悪かこつ。俺ば見つけたら必ず余計なことを言いに来るポリがおるとよ、警ら隊におるけんパトカーで通りかかったら必ずこん店に入ってくるよ。俺のバイクば覚えとるもん」

「お前が悪そうじゃち、ばれとるの、ハッハッハ」

哲夫は笑い飛ばした。どっちかと言えば哲夫のほうが悪いだろう。確か哲夫が斉藤をそそのかしてバイクを盗んで元の場所に返しに行ったところを補導されたんだった。二人は一週間の停学になった。返しに行ったので未遂扱いになって軽い処分だった。それが原因で斉藤は怪我の功名で親がバイクを買ってくれたと聞いている。親とすればバイクごときで息子に前科が付くのはいやだろう。未成年で前科がつかずに良かったが。

「おばちゃん、お好み焼きば頼むよ、俺は豚玉ね、斉藤も頼めよ」

 斉藤は喜色一面であった。肥満っぽい体形からしても食うことが好きそうだな。良男は懐が心配になった。

 結局4人とも豚玉を注文した。良男は気が気でなかった。店の半分はコンクリートの床だがガラス障子の先は畳の小上がりとなっている。向こう端に2階へのはしご階段が見えた。

 麗子はこの店を出てすぐに別の教室に来たのだろうか。

 良男は思い切っておばちゃんに尋ねることにした。そう思った瞬間から胸がドキドキした。かすれるような声でところどころ裏返ってしまった。

「あの、今朝女の子が来ませんでしたか。8時半ごろです」

「あらどうしたの、あんたあの子が好きなの?」

くすくすと笑い出しそうであった。

 哲夫が真っ先に笑い出した。

「ハッハッハ、お前声が裏がえっちょるぞ」

 良男は動悸は高くなる、声は裏返るで喉がカラカラとなった。ぬるいコップの水を飲み干した。

博が言った。

「ああそうです。良男はあの子が好きです。これでいいかのう哲夫」

おばちゃんは言った。

「まあ照れなさんな、悪いこっちゃないけん」

続けて、

「あの子のことはプライバシーじゃから言えんよ。でも何にも後ろめたいことじゃないとよ。いい子じゃろ、変な噂ば立てたらおばさん黙っとらんよ」

その目には鋭い光が秘められていた。そして思い直して言い換えた。

「つまらん噂でも立てられたら困るから言うとくわ、あん子はわたしの姪たい、親は別れたとよ、麗子はお父さんと住んどるけん、ここでお母さんと時々会うとよ。お母さん麗子の弟と一緒に暮らしとるけど再婚しとるからね、訪ねるのもはばかれるったい」

 すぐに哲夫が口を開いた。機転の利く奴だ。少しおちょくれた言い方も絶妙だ。

「なんも言いましぇん。なあみんな、斉藤もわかっちょるな」

 みんな大きくうなづいた。

 4人は寡黙になり黙々とお好み焼きを焼き、食べつくした。おばちゃんが大盛りにしてくれたんで腹いっぱいになった。これでうまいこと言い含められたような感じだった。

 おまけに店を出るときに勘定を半分にしてくれた。ニコニコと満足そうな顔をしてバイクで去った斉藤の後ろ姿はまたも太ったような感じがした。

 判ってしまえば怪しくもない角店と麗子の関係である。しかし麗子のためにも、もはやこの話はタブーとなってしまった。付き合ってくださいなんて声をかけることも難しくなったような気がして良男は落ち込んだ。

 あの美しい麗子と話すこともできないまま高校生活は終わるのか。

 まだ頭上高く照る太陽がまぶしかった。

三人がとぼとぼと駅への道を歩いていると哲夫がいきなり言い出した。

「つまらんのう、おい、今晩俺んちに泊りがけでこいや」

「なしてや、バンド練習したくても今ギターは持ってきとらんぞ」

と、博。

 良男は気落ちして会話にも入らない。

「あんな、俺んちの近くに遠賀川があろうが」

「そらそうたい、ほんの5分くらいかの」

と、博。良男も漸く会話に復帰した。

「それがどうしたとや」

「あのな、遠賀川の土手があろうが、あそこの上の道路はの、土手の外の家の二階よか高いんよ」

「そら知っとうばい、だからなんちね」

「わしな、双眼鏡買うたんよ、高かったんじゃが夜でも肉眼より明るく見えるったい。土手にもアベックが来とるんよ」

良男は即答した。

「行く行く、お前んちに泊めちゃりや、朝までがんばろうや」

勉強をしに哲夫の家に泊まりこむと、博と良男は自宅に電話した。

もう日は落ちて街灯のない土手の道はうっすらとしか人影が見えないほどの暗さだった。

土手上の道をこそこそ歩いて家並みを見ていると夫婦らしい若い男女が2階の寝室らしい部屋にいた。窓は開けっ放しである。

 博が騒いだ。

「お、すごいぞ今からだ」

哲夫が慌てて言った。

「馬鹿。大きな声を出すな、しっしっし」

男はすでに白いパンツ一丁ではしゃいでいた。女は洗濯物だろうかしきりに畳んでいた。男はちょっかいを出すが女は男の手を押し返していた。

そして女の仕事は終わったのだろう、ベッドに行こうとした。

良男たちはもう喉がカラカラだった。貸せ貸せと双眼鏡を取り合っていた。土手をすこしばかり下ったところに移ったとはいえ気が付かれれば万事休すである。

 良男が運よく双眼鏡を覗いていたときに男はベッドに寝転がりながら仰向けにパンツを脱いだ。

 女がベッドにつくその瞬間天井の蛍光灯が無残にも女の手で消されてしまった。さすがの高性能双眼鏡でも真っ暗である。

三人は同時に嘆いた。

「あーあ」


※ 

当然のように大学受験に失敗した。しかも二年連続も失敗した。私立大学の滑り止めを受験しなかったのは私大の費用を親に負担させたくなかった為ではあったが、結果として二浪をする羽目になった。

 予備校から帰ると、喜んで飛びついてくる愛犬クロを連れて1キロ先の川岸まで行く。紐から外したクロは畦道なんぞは歩かない。まるで朝一番に子供が真っ白な雪を初めて足跡で埋めていくように、稲刈りの終った後の美しい蓮華畑を駆け回って喜ぶ。

背の丈は50センチほどの中型犬なので蓮華の花は胴体の半ばまで達している。一歩一歩をジャンプしながら走るときもあれば、なぎ倒すのもかまわず走り抜ける。クロの後にはピンクや紫に咲いていている蓮華の花が左右に倒れて一本の緑にピンク混じりのまだらな道が出現する。時々急に立ち止まり良男を振り返ることは忘れない。

クロは3歳の雌犬で、シェパードの血を半分持つ母犬から産まれた真っ黒な元気な犬だ。つまりシェパードの血は4分の一である。良男がクロの誘いに乗りふざけて追いかけると、良男を近くまでおびき寄せてあと少しで捕まるほどの距離になると身を走り去る。

は、自宅南側のレンガ塀の裏からすぐに始まり1キロ先の川岸まで続いている。米の裏作に麦を植える習慣はとっくになくなっていて、初秋の田圃は蓮華だけの畑となってのどかに一面に広がっている。

振り返ると自宅の後には標高369メートルの城山が白い雲を背景に聳えていた。低い山だが独立峰なので雄大に見える。

この山の裾野に国立の教育大学の建物群が斜面を利用して立ち並ぶキャンパスが見える。すぐ手前にキャンパスに接する国道があって車の通行量もかなりある。国道の手前にJR九州鉄道の鹿児島本線が並行して走っている。

この線路は掘り割りのように低いところを通っていて、列車は教育大学前駅の小さなホームを出てしばらく走らないと地上には出てこない。この駅は大学が移転してきてしばらく後にできた新駅である。

教育大学の門から出て国道へ出るとすぐ近くに三叉路があり南へ線路を橋がある。橋を渡ると右手に駅入り口があるが、ホームへ行くにはまるで川底に降りるようだ。

駅へ降りずに道を進む左右には小さな駅前商店街がある具合になっていた。商店街に続いて住宅の集落もある。そして右折した道の途中に良男の住む家がありその裏からは田圃が続いていた。

それらキャンパスや国道や商店街を乗り越えて猿がやってくることがある。ある日の朝、庭に解き放されていたクロが激しく吼えるので窓を開けると、庭の向こうのレンガ塀の上をひょいひょいと猿が渡っていた。田圃の間に散在する畑の作物を狙ってはるばるやって来るのだ。

城山の向こうは二つも山を越えれば玄界灘となる。

漸く追いかけごっこをして川岸までたどり着くと良男は息も絶え絶えになる。予備校生活の運動不足が、若い良男からスタミナを奪っていた。クロは平気でまたも川岸から蓮華畑へ戻り、縦横無人に走り回る。時にうずくまりおしっこをする。

川面の幅は20メートルも無いが、そこは1キロ近くもまっすぐなゆっくりとした支流であった。流れはやがて多くの支流を集め、釣り川と名が付いて宗像大社の脇を流れて玄界灘へと注ぐ。両岸は腰掛けるに丁度都合のよいおだやかな斜面でクローバーやタンポポの群生で覆われている。

良男は受験勉強に疲れていた。一向に成績は上がらない。クロとのひと時こそが最大の息抜きであった。

今日もあのが上流から川沿いの道をふらふらと歩いてくる。目的を持った歩き方でないのは一目でわかる。

サンダルを履き青い縞柄のワンピースである。20歳には届かないだろうその肢体は、良男にはまぶしかった。女子高生とはまるで違う大人の女の雰囲気を感じる。でもせいぜい高校を出たばかりだろう。なのに大人の雰囲気があるのだった。いや良男だけがそう感じただけかもしれない。

予備校からJR電車で帰り着き、すぐにクロを散歩に連れ出したのでおよそ4時頃である。日の入りは午後7時頃だろう、日はまだまだ高く、慣れている陽射しと言えどもまぶしくて良男は目を細めて娘を見ていた。

いつも見かけるのが偶然ではないと気づいたのは昨夕であった。自宅に下宿する前田が冷やかしたのだ。それまでは思いも付かなかった。

「いつもイソイソとクロの散歩に出かけるのは、あの娘が目当ての逢引だったんだな」

「え、なんのことだい。あの娘って誰のことよ」

「隠しても無駄たい。川でいつも会ってるじゃないか。どこまでやってるの、もう餓鬼みたいな顔しながら、やることはやってんじゃないの」

 

前田は信州の出身だ。私立大学の工学部へようやく合格したがこの田舎の分校を志望したと自ら話していた。志望したのは嘘で、まるで左遷人事のように回されたことは誰の目にも明らかだった。

東京本校を希望しても叶えられなかったのだ。2年間はここの校舎だが3年からは東京の本校へ進めるのだという。だからあきらめてこの田舎の分校に甘んじているのだ。

 

そもそも田んぼと川があるだけの田舎である。蛍を見ることができるのが唯一のメリットだろうか。

漸く一年ちょっと暮らしただけなのにここの言葉に早くも慣れていた。そして喜んで使っていた。積雪の無い気候を喜んでもいた。良男は歳が同じ前田と仲が良かった。若者はすぐに親しくなるものだ。珍しくクロの散歩に付き合って前田がこの川岸まで来たのは昨日のことだった。そして夕飯の席上、あの娘のことを持ち出したのだ。良男は母親も他の下宿生もいるので顔を赤らめて言葉に詰まってしまった。

 

いつも見かけるあの子を気になってはいたが、前田の言葉で初めて偶然ではないと気付いた。娘は良男に会うために、その時刻に良男に会いに来ていたかもしれないのだ。いやきっとそうだろう。犬の散歩とはいえども、寂しい川沿いの道に知らない若い男がいれば、訳もなく毎日若い娘が来るはずはない。

 

そう思うことは想像もつかないことだった。高校が共学とは言いながら3年間が男子だけのクラスであったので女の子と交際する状況がまったくなかった。まして自分を目的に女の子が会いに来ていたとは想像の域を超えていた。良男には麗子を遠くから後姿を見た甘酸っぱい思い出しかなかった。

 

中学時代は坊ちゃんだとクラスの男子達から扱われて男同士の会話からは外されていた。性のことは中学生時分に知ったが、友人と情報を共有できなかった。それらしい会話に夢中の級友の輪に近づくと、きっぱりと会話を打ち切られるのである。高校ではどんな話題にも外されることがなくなり、あらゆる知識も友人と共有できるようになったのである。

 

 おかげで中学ではそこそこの成績だった良男も、高校では普通レベルの成績の生徒として埋没してしまう副産物もあった。元々勉強は嫌いだった。授業を聞いていただけでなんとか過ごしていた。それでも先生からちやほやされていたのが高校では特に声も掛けられなくなってしまったのだ。さすがに世間は甘くなかった。同時に勉強に身が入らなくなってしまった。そして大学受験に失敗したのだ。国立大学はもはや無理なレベルまで学力は落ちていた。

家には6人の私立大学の学生が下宿していた。朝も晩も同じ食事を同じ居間で取る生活が半年前から始まっていた。それまでは市内に一家で暮らしていたのが、父が経営する鉄工所をを移転して住まいも引っ越して大きな田舎の古い屋敷を借りていた。

狭くなった街角の工場を拡張するために田舎に広い工場を建てたのだ。

余りに部屋が多いので近くにある大学の分校から頼まれて下宿生を受け入れたのである。引っ越してきた自宅は元は入院もできる医院だったせいで部屋が15室もあった。わずかでも収入を得るためでもあった。

 

 

畦道から、砂利道の狭い土手上の川沿いの道へ上り、口笛で呼び寄せたクロをようやく捕まえて首輪に紐をつけると、良男の耳にドクドクと自分の動悸が聞こえてきた。

いつもは土手に座り込んで川面を眺める振りをして娘が後を通り過ぎるのを待ち、そして後姿を眺めそのしなやかな腰とすらりとした足を見つめるのだが、今日は思い切って話しかけることにしていたのだ。昨夜はそれを思い、つい踏み出した想像をしていた。

クロの紐を持ち、ただ、立ち尽くして娘が近づくのを待った。

娘は行く手に立ち尽くす良男を認めて一瞬ひるんだように目を落としたが、その歩みはいつものようにあてどの無い散歩を続けていた。次第に良男に近づいてくる。あと5歩ですれ違う時には良男の動悸は最高潮に達したが、掠れがちになる声を振り絞った。

「あの、・・この先には何があるんですか」

良男は他にかける言葉を思いつかなかった。無意識に田舎訛りを消していた。

「あ、何もありませんけど」

娘の赤らめた顔は確かに狼狽していた。

「あそこに見える家の者です。よく会うなと思って」

蓮華畑の向こうに見える自宅を指差したが、どれを指すのかわかるはずも無い。

「ええ、いつも会いますね」

……

あとはなにを言うべきかわからない。娘も後ろに手を結んだきりで下を向いて、沈黙が二人を襲った。

さすがにここは男の出番であろうと焦るが、昨夜布団の中で考え、用意した言葉は一向に浮かばなかった。

「あの、良かったら座りませんか」

「はい」

すんなりと座ることに同意されてほっとすると同時に、良男はちくんと痛みを感じた。昨夜の妄想を恥じた。そして初めて女の子に声をかけて話ができることにほっとした。先に土手に座ると、横からクロが喜んで黒い湿った鼻先を良男のほっぺたに寄せてくる。尻尾が大きく左右に振られて、いつもと違う人間の登場に興奮しているようである。娘も良男の傍に間に拳固が5つほど入る距離に離れて腰を下ろした。滲み一つ無い白いワンピースが汚れるのではと良男は心配したが娘は躊躇なく座った。クロは反対側に回り遠慮なく娘のほっぺたにも鼻をくんくんと寄せる。嫌な顔もせず恐れもせずに、そこそこ大きいクロの頭をなでた。

良男は慌ててクロを諌めた。

「こら、大人しくせんか」

紐を引っ張るタイミングが遅れたのは、緊張のせいで動きにぎこちなかった為である。

「すごく綺麗な犬ですね」

「あ、そうかな、いつも母が魚のアラと野菜を煮付けてあげているからかな、もちろん塩っ気はないんだけど、喜んでよく食べるせいかな。ああそれから僕がブラシをかけてやるんだ。それで毛並みがツヤツヤするのかもしれない」

「可愛がっているんですね。幸せなワンちゃんですね」

「そう思ってくれたらいいね。初めてうちに来たときは寂しがり屋で大変だったんだ。母犬と別れるのが早かったのかな。座敷に上がりたくて土間の上がりかまちでキャンキャン鳴くんだよ。座敷に上げればおしっこを漏らすし大変な子犬だったよ」

「クロちゃんて言うんですよね」

八重歯をみせながら娘は笑顔になった。クロは回り込み二人の前に座りこんで二人を交互に見比べる。紐が娘の体に巻きついた。長くもない紐が娘の背中を回るのでその紐を持つ良男の左手は娘の背中に触れてしまった。ブラジャーの留め金が良男の拳骨に触れ良男はビクンとした。一度紐を放してクロの首から紐を。クロはまだ吐く息が荒い。良男の心臓も早く打っている。

「ど、どうして知ってるの」

「だって、大きな声で呼んでいらっしゃるでしょ」

「あ、そうか。よくここで会うもんね」

「あなた、よしおっていうんでしょ」

「え、どうして知ってるの」

「あなたを浄聖寺の通りで見かけたの、学生さんが沢山いる家でしょ。元の安藤医院の家でしょ」

 たたみかける娘の勢いに押されてたじたじとした。良男の理解する女はしとやかで男が声をかければ顔を赤らめてしまうものだった。兄弟にも親族にもとにかく男ばかりの家系で、ほとんど女の子とはまともに会話したことが無い。

「え、そうだけど。でも僕の名前をどうして知ってるの」

「昨日お友達がよしおって呼んでたでしょ」

「ああなるほどね。でもどうして僕の家のことに詳しいの」

「私安藤医院の看護見習いなの、あなたのお家は1年前まで安藤医院だったのよ。安藤医院が表通りに引っ越すまでね。私は医院の敷地にある寮に住んでるのよ」

「そういうことか、なるほど」

「私、中村美智子って言います」

「僕は児玉です。どうも」

良男は間の抜けた自己紹介をした。

 

何を口にしようかと昨夜あれこれ考えてはいたが、何も思い出せない。あることないこと自分のことばかりペラペラと話した。

予備校生であることは黙っていた。女らしい美智子を目前にして良男は緊張して饒舌になり過ぎていた。

とにかく1時間はそこにいただろう。時間の過ぎる感覚を完全に失っていた。良男の知ったことは美智子が錆びれた炭鉱町の高校を出て安藤医院に来て見習い看護師をしていること、看護師の学校に行き正式な看護師を目指していることだけだった。次にまた会うこと等は約束もせずにその日は別れた。

 

 

次の日、良男はどきどきしながらクロを連れ出した。

今日は来るだろうか、なんとなく怖くなって来ないかもしれない。そしてもう会えないのかもしれない。

ふとそんな思いに囚われると、やはりそうだろうなと自分で納得してしまう。一方で前田が言うように、明らかに良男を目当てに会いたくてふらりと川岸へ来ていたのだ。つまり良男に気があったのだ。そうも思える。ならば今日も絶対に来るだろう。もうどちらでもいいやと無理して考えるが、あの足先のクリーム色のサンダルに収まっていた白い形のよい小ぶりな指先をもう一度見て見たい。風に乗って漂ってきた美智子のほのかな香りを嗅ぎたい。いや今度は傍に寄り抱きしめてみたい。唇を奪ってみたい。やはりその思いにたどり着く。

 

相変わらずクロは元気がよい。クロが倒した蓮華は夜のうちに回復してまっすぐ立っていた。昨日クロがなぎ倒して造った道跡は見えない。

 

川岸への畦道の半分ほど過ぎたときに、表通りから川岸への道へと曲がる美智子の姿を見つけた。そこまでも一面に田圃が続いている。蓮華がやはり続いている。美智子と良男とをさえぎるものは何もない。その距離とその間の空気だけが良男達を引き離しているだけだった。美智子も良男を認めたようだ。良男は自分でも気付かぬうちに大きく腕を振り回していた。美智子も右手を耳の横よりも高く上げて振り返して来た。

良男の心は弾んだ。

美智子が近づいてくる。もう幼馴染のような美智子だった。

今日もワンピースだったが、柄のない白いそれは裾がふわりと気持ちの良い風に広がっている。まるで白雪姫のドレスのようじゃないか、良男はうっとりした。良男はワンピースがとても好きになりそうだ。

美智子の足取りは昨日までとまるで違う。つまらなそうに左右に目をやりながらふらふらと歩いていたのに、今は良男を見て良男に笑顔を向けしっかりとした足取りだった。良男もクロに構うことなくさっさと川岸へと無意識に急いでいた。

座ろうよ、と良男は美智子を促し、美智子は素直にしたがった。
 しかし二人の会話は弾まない。
昨日は次々と言葉を交わしたのに、今日は何を言うべきか二人には分からない。お互い初めての異性を意識したのか、言葉を失っていた。
 思い切って良男は突然美智子の肩を抱こうとした。二人の間にはまだ距離があり、美智子の首にようやく手が届くだけであった。
 良男は美智子の側に座りなおした。
昨日声を掛けただけなのに、もう二人は体の触れあいを欲していたのかもしれない。
 良男は美智子の肩を抱き寄せ、思い切って唇を合わせた。美智子は良男のなすがままであったが、左の瞼だけからツーと涙をこぼした。

 

 

もうこうしてこの川原の土手で会うのは何回目なのだろう。初めて声を交わしてそろそろ一ヶ月も過ぎるだろう、美智子は会うとすぐに土手に座り込む。良男は二人の間には隙間を作らずに傍に座る。後姿が人目につかないように少し土手を下がったところに2人で寄り添って座る。今では話をするかしないかの合間もなく、良男は美智子と唇を合わせる。美智子はすぐにとろんとなり体を預ける。

もう秋も盛りで日の入りの遅いこの地でもさすがに午後6時は暗くなり始める。二人の時間はあっと言う間に過ぎていた。もとより人も通らぬ田舎の川岸の一段下がった土手であり人目につく心配は無い。田舎とは言えど一年前に引っ越してきたばかりのよそ者であるので、とかくの世間体など気にする必要も無い。

良男は美智子の唇を吸い、美智子は喘ぐ。

 

そして美智子の舌が良男の口の中に進入してくる。恍惚とはこの表情なのだろう。目はうっすらと開いておりほのかな口臭が濃くなる。美智子は全ての肢体を良男に預けている。良男を信じて疑わない。

それでも美智子の体は震えていた。

今日も良男は美智子にそれ以上をすることはできなかった。好きなのだ。これを愛ということはたやすい。でも俺はこの子をどうするのだ。

すべての欲望を遂げて美智子の総てを己のものにすることはできる。美智子はもはや抵抗もしないだろう。美智子の部屋に上がりこむことだってできるだろう。良男はぎりぎりで自分を抑えていた。限界だな、そう思いつつそして、結局は俺はずるいのだと思い至った。そう言えば俺は美智子に好きだと言ったのは、初めてここでいきなり抱きしめてキスを迫ったときだけだったなと思い出した。

 

こんな自分を不甲斐ないと自責の念にとらわれてもそれ以上は、今日も乗り越えられなかった。漸く美智子の体を剥がすと、明日また会おうね、と掠れた声で言うのがやっとだった。

2人は立ち上がり、川岸に沿って美智子の歩いてきた上流へと道を進む。美智子が歩きながら体を預けてくる。良男は重く感じていた。どちらかと言えば痩せ形の美智子を重く感じるのは、美智子の人生をも背負っていかねばならないと重荷に感じるせいなのだろうか。

美智子は最後の一線を越えない良男をどう思うのか、すでに心を預け良男の悪戯な愛撫のすべてを拒まない。良男を信じて結婚を疑わないのか。女として自分からは言い出せないのか。それともそんなことはどうでもよいと思っているのか。それを聞く勇気が湧かなかった。このままではいずれ二人は体を交えるだろう。それを超えるとどうなるのか、良男にはわからない。川は相変わらずわずかな波音を立ててゆっくりと流れていた。

二年連続で受験を失敗した、もう国立は無理だ。来年は思い切って東京の私大にもぐりこもう、ランクを落とせば入れるところはある。そして美智子を連れて行こうか。でもどうやって暮らすのだ。親の仕送りをあてにしてそれは出来ないだろう。すでに父親の仕送りは宛てに出来る状況ではない。良男はすべて自活する覚悟であり、女を抱えて暮らせるはずも無い。一緒に行こうと持ち出せば、美智子は働いて二人の暮らしを支えると言うかもしれない。でも良男は言い出せなかった。自立への不安で良男は押し潰されそうだった。

 

クロがイソイソと尻尾を振りながら前を歩いていく。2人が抱き合っている時間は、傍でまるで見守るようにおとなしくしているのは不思議だった。飼い主のプライベートな時間は邪魔をしないようにと考えているかのようだった。

5分ほど川岸の道を歩くと表通りに出る。左折して5分もすれば美智子の寮である。寮と言っても医院の敷地の端っこに建つ2階建ての4室の小さなアパートである。そっと手を握り合って、目を合わせるのが2人の別れの常であった。さすがに医院の前では人目を偲んだ。

良男はぶらぶらと歩いて家に帰る。クロは来たときとはまるで違う犬のように大人しく良男を気遣いながら前を歩いていく。ときどき振り返り良男の顔を見る。

 

 医院の前を過ぎて5分ほど歩き表通りを左折し、さらに5分も歩けば自宅にたどり着く。クロを土間から入れて台所の横の柱に紐を結んだらクロのお休みの時間である。悟ったようにクロは自分の毛布の上にしゃがみこんだ。

良男は真新しく蛇口からクロ専用の桶になみなみと汲んでやる。井戸水なので新鮮で冷たく美味しい。

クロは立ちあがり喜んで長い舌を使って喉を潤す。飛沫で周りが水を撒いたようになる。

良男は川の水を飲みたがるクロをいつも諌めていたのだ。だからクロは帰って飲む水を、ことさらに喜ぶ。良男も冷たい水をコップに入れて一気に飲み干した。

 電話が鳴った、哲夫からだ。

「良男、元気か予備校は慣れたか」

「予備校も2年目だぞ、慣れとるかとはきつい冗談だぞ、お前こそ大学はどうじゃ、勉強は面白いか、パソコンは好きじゃったからちっとは勉強に身が入っとるじゃろう」

「すまん、俺の方はまあまあたい、それよか大ニュースたい、麗子がお前の近くに引っ越したぞ。まだ会わんか」

「え、おれんとこち?いつからね?なんでまた俺と同じときに同じところに引越してくるかのう」

「いや麗子は一週間前くらいの引越しだけん、朝はお前と同じ電車に乗っとるかもしれんな。こっちに勤めとるってぞ」

「麗子は進学せんかったとか」

「おおそうたい。八幡の会社に通いよる。お前も知っとるように、麗子はのう母親とは一緒に暮らさんとお父さんの家から高校ば通いよったらしか。親は離婚しとったとよ。角店のおばさんもな叔母さんだったち」

「なしてこっちに引越したん」

「母親がな、家を借りて呼び寄せたち。再婚しとったけどまた別れたそうな。なんでもな麗子の親父が浮気したらしく離婚したんじゃそうな、再婚の相手はDV亭主だったちゅう訳よ。つくづく運の悪いお母さんやな。これで親子水入らずの安定した生活じゃな」

「よう知っとるなー、どこで仕入れたんじゃ。なんでお母さんと暮らさんかったんじゃ」

「そら、いきなり二人の子供を抱えて生活費を稼ぐのは無理じゃろう、弟はお母さんと同居しとったそうじゃ」

 やっと麗子のなぞが少し解けてきた。

「お前のために調べとるんじゃ、ありがとう思えよ。まだ好きじゃろうが」

「あ、・・うん」

「なんか怪しかな、お前他に好きな女できたんじゃないだろうな。頼りなさそうなんで母性本能でもくすぐるんじゃろうか案外もてるんかもしれんぞ」

「好きかどうか自分でもわからんけど女の子と逢うたりはしとるけど、これで良いじゃろうかと悩んどる」

「どこまで行っとるんじゃ、キスはしたんか」

「まあな」

 哲夫が唾を呑む気がした。

「するともっとか」

「いやそん先は無いよ。俺は予備校生ぞ」

「関係ないじゃん、いまどきお前はカチカチの時代遅れじゃの」

「女が欲しいだけなんか、惚れとるんかが自分でもわからんのよ」

「そう硬く考えるな、どっちも正解だろ、好きだし欲しい、そんなとこじゃ。ああそうだ、角店の謎はな判ってきたぞ、2階を一時貸して稼いどったんじゃ。それだけたい。運動部の中には部屋を借りて女を呼びよったのがおるらしか。女子高の彼女を呼んだ奴もおったらしい」

「傍をちょろちょろしとって今頃になって知るちゃあ哲夫も鈍感じゃったな」

「せからしか、良男に言われたくはなかぞ」

「そりゃそうだな、ハハハ」

「まあ、麗子を見かけたら思い切って声をかけてみろよ。もうそのくらいの度胸はついたろ」

「逢ったら声をかけてみるよ。じゃあな有難うな。ああそうだ、博はどうしとる」

「博は住友銀行に就職したぞ、博多の支店におる。あいつなりに追い込んで勉強したけん高卒でも入れたんじゃ、たいしたもんじゃ。それからのう福岡大の夜間に通いよる」

「そうか、博は偉かのう。俺だけたい宙ぶらりんは」

 

 電話をを切った。美しい麗子と美智子を較べれば明らかに麗子が美しいだろう。でも美智子のあの朗らかな表情と声を思い浮かべると良男はうっとりとした。

 

 翌朝、予備校に行く列車を待ちながら大学前駅のホームを前から順々に後ろへと歩いてみた。すると後ろよりの5、6人ほどの行列の中に麗子がいた。グレーのスーツを着込んで大人っぽいがやはり長い髪はそのままでポニーテールにしている。やはり高校出たての若さがはちきれそうだ。良男は一人置いてその後ろに並んだ。ドキドキする。

 列車が入ってくる。降りる乗客はいないのでどどどとそのままなだれ込んだ。

図らずも混んだ電車の中でぎゅうづめとなり麗子の後ろにぴったりとくっついてしまった。良男は自分の手提げかばんを間においたが麗子のヒップが良男の手の甲に触れる。もうこれだけでドキドキとする心臓に気が付いた。

麗子のヒップにスカート越しに触れるだけでドキドキする。

麗子がいやそうに後ろを振り返る。良男はちょこんと頭を下げた。

麗子はちょっと目を大きく開いて口を開いた。混んだ電車で密着しているのでちょっと首を突き出せばキスもできそうだ。思いがけなく麗子は良男の顔を覚えていた。

「あ、東南高校の人よね」

「え、あ、そうです」

麗子「こっちに住んでるんですか」

「そう、高校卒業と同時にね」

麗子「私はこないだ引っ越してきたばかりよ」

「らしいね」

麗子「なんで知ってるの」

「そりゃ、君は有名人だからね。情報が入ってくるとよ」

麗子「いやあね、有名人なんて、どういう意味なの」

「男子生徒のマドンナだったからさ、知らない奴は東南高校のもぐりだよ」

麗子「ま、いいか、うふ。大学に通ってるの?」

「僕は予備校生さ、しかも2年目の見通しのつかん落ちこぼれ。ところで僕の名前は知らないだろ」

自分を卑下してふざけたつもりで言ったが、麗子の返事は思いがけなかった。

「知ってるわよ、児玉君でしょ。バンドばっかりやってる悪餓鬼三人組は女子の間でも有名だったっわよ。学園祭では目玉の演目だもの、あなたはギターもキーボードも弾いたりして人気があったわ」

「えー人気があったって初めて聞いたよ、成績が悪い落ちこぼれ三人組だったからな。バイクを無断で拝借して補導されて停学喰らったとか悪さはそこそこばれていたかもね」

 

 

小学校の体育館は天井が高くバスケットボールのコートが横に2面も取れる。

ここは成人式の会場である。

新成人がほぼ一杯に拡がって座っている。だが前方半分しか埋まっていない。演壇に向かって右側に男子、左側に女子とくっきりと分かれている。しかも真ん中に2メートルも隙間がある。ちょうど演壇上の講師はまるで正面に廊下を眺めているふうであった。

良男が会場に入ったときは開催の挨拶が始まったばかりで、男女がはっきりと別れているのを見て面食らった。東南高校の在校時代は男女てバラバラに座っていたものだった。ここは郡部だからと感じざるを得ない。女子の一番後ろに麗子が一人ぽつねんと座っている。引越してきたばかりでここには友達が一人もいないのだ。

良男は呼びかけた。

「黒田さん」

麗子は驚いた顔を良男に向けた。

良男は男子席の後ろに座りながら手招きをした。麗子は満面に喜びを浮かべて立ち上がりいそいそと良男の隣にやってきた。

 こそこそと話をすると、一斉に男子席と女子席から敵意のある視線が良男と麗子の唯一のカップルに集中した。

 

 

 いつものように混んだ朝の電車に、いつもの端っこの連結器側の場所に立ったまま納まると麗子はいきなり言った。いつになく小声である。

「おはよう、あのね、もう会えなくなるわ」

「え、どうして」

「私、結婚するの」

「え、結婚するの」

いきなりの麗子の言葉にそれ以上を言い返せずに黙り込んでしまった。

沈黙が二人を襲った。何分間も二人とも黙っていた。思いもかけない会話に周囲の乗客も耳をそばだてているようだった。若い二人のカップルは乗客の興味の的であった。10分間おきの田舎の朝の電車は、ほとんど同じ車両に乗る乗客たちで顔をお互いに知る関係であった。

 

 良男は漸くの思いで口を開いた。もう喉がかさかさだった。

「ああ、おめでとう。どんな人なの」

「会社の人よ、ごめんね今まで黙っていて」

「そんな、謝られても困るよ。僕は・・・」

「楽しく毎朝会ってお話してたのに。てっきり私を好きかと思ってたのに」

「あ、好きだよ、今も。」

良男はドキドキして返事をし、無力感にひしがれた。

「だったらなんか言ってくれればいいのに。それに一度も誘ってくれなかったし」

「でも浪人の僕は何も言えなかったんだよ。自分には資格がないと思ってしまうんだ」

「成人式の日だって、式場を出たら、じゃあね、でおしまいだったし」

「でも、あれから十日も経っていないよ、あの時はもう結婚が決まっていたんだね」

「ごめんね。でもね1年間近く毎朝会ってたのに、それだけだったよね」

 

麗子の目が光っていた。車窓から飛び込む光が麗子の目に反射していた。冬の車内は蒸し暑く窓も人いきれで濡れている。

 

 良男はまたも返す言葉を失った。毎朝麗子とのささやかな電車だけのデートの間、美智子との逢瀬を繰り返していた。同時に麗子との付き合いを進める気力はなかった。

美智子は現実であり、電車内だけの20分間の麗子とのデートは想像上にしか存在しなかったも同様だった。

美智子の濡れた唇の味わいが憧れの麗子を遠くに追いやっていたのかもしれない。高校時代にはあれほど憧れていた麗子を彼女にできたかもしれないのに、そのチャンスを自ら放棄したのだ。

そう思うとやりきれないが良男にはその選択肢は許されなかったのだ。なんら生活力の無い良男にはすでに会社員である婚約者には勝てるわけもなかった。貧しさと不和の家庭で育った麗子にとって安定した結婚生活ほど惹かれるものはなかったのだ。

 

 次の日から良男はいつもと離れた先頭の車両に乗り込んだ。もう麗子と話すこともできないほど落ち込んでいたのである。

 


○年後

 

あゆは金髪だ。

肩より少し下までの長さがある。目がくりくりと大きい。鼻はちっこくてつんと上を向いている。大柄なのに顔が小さくできている。くるくるっと髪を巻いてちょこんと止めてまるで銀座のママがヘアサロンに行ってきたみたいに上手にまとまっている。

 碧いカラコンに長いつけまつげ。

「まつ毛は2枚重ねかい」と、聞くと「1枚よ」と応える。

「女は大変なのよ、お化粧に身の回りに・・」

「うん、わかるよ、男にはできんな」

あゆはできたばかりのネイルに見入っていた。腕を伸ばして指を全部立ててうれしそうに眺めている。

「綺麗だね」

「わかる?私のお気に入りのネイリストなの、センスがいいのよ、いつも驚くデザインを考えてくれるの」

「そうだね、ギラギラしてないし、それでいて地味じゃない、なによりあゆのファッションに合っている。」

「さすがよっちゃんわかってくれるのね、彼女はね、まず私の服装を全部見てから少し考えてデザイン画描くのよ、これでどうでしょうかって聞くのよ」

「へーそこまでやるんだ」

「そうなのよ、私一度も駄目って言ったことないの、いつも一目で気に入るわ」

「それじゃ人気者だろう」

「そうよ 彼女にやってもらうには予約して、それでもお店で順番待ちすることがあるのよ」

 ファッションホテルの浴槽は広くて、二人は横に並んで浸かっておしゃべりしていた。

僕は早く来て風呂に湯を張っていたのでかなりお湯は冷えていた。ジャブジャブ熱い湯を継ぎ足しながら、あゆと僕は早くお湯が暖かくなるのを待っていた。

 あゆは僕を1時間とちょっと待たせたのだ。

不機嫌にあゆを迎えてやろうとしていたのだが、ドアチャイムを聞くともう顔がほころんだのが自分でもわかった。

「ごめん、待たせたわね。ネイル屋さんで待たされたのよ」

「うん、もういいいから、男はだらしないな、うんと怒ってやろうと思っていたのにな、駄目だ怒れない」

 僕は笑いながら、まずあゆを真正面から抱きしめた。

「なによおいきなり、焦ってんの?」

「いーや、寂しいだろうと思って抱きしめてやったのさ」

「ふーん、寂しかったのはよっちゃんでしょ、だめよ顔に出てるよ」

 まとめたはずの髪が少し外れ一部分がお湯に浸かっている、それが僕の左の腕に触っていてくすぐったい。僕の手はあゆの肩を抱いていた。若いせいか肩の筋肉がこりこりしている。肌にまとまわりつくお湯は弾かれたように流れ落ちる。丸い水玉がスルスル落ちていく。二十歳の肌に勝てるお湯はなかった。

 あゆはとりとめもなく話す。

「ブスのくせにさ・・」

 心に留めていたうっぷんのすべてを話す。

 僕はうんうんとうなずいていた。

 小ぶりだけど形のいいおっぱいがぷよぷよと浮いたり沈んだりしている。体育座りしたまま随分とお湯に浸かっていた。

背がとびきり高いのだが顔もおっぱいも小さくできているのだ、しかし肩は大きくて、なによりよく食べる。肩は大きいが腰は細く脚が長くスラリとしている。

僕の2倍くらい食べる。僕より6センチ低いだけなのでハイヒールを履いているときは背丈は僕と同じになる。

裸足で部屋にいるとさすがに僕より低くて抱きしめるのにちょうどよくなる。今日もピンヒールだったので部屋に入ってきたときはあゆの目の位置は僕と同じ高さだった。ピンヒールを履きこなして颯爽と歩ける女は少ない。あゆと腕を組んで街を歩くときに男たちから浴びる嫉妬と羨望の視線はいつも気持ちが良い。

 お風呂の後も絶対食事をしたがるだろう。このホテルは手作りの料理を部屋まで持ってきてくれる。カレーライスも定食でも800円なのはとても助かる。外観はパリの凱旋門の前にあるようなオシャレなホテルで、部屋の内装もシックで洒落ている。

 しかしルームサービスは日本的なメニューなので肩が凝らない。専門のコックを置くほどの客室数は無いのでおばさんの手料理なんだろう。肉じゃががあるのはその証明だろう。

 おばさんがおそるおそる料理のお盆をドア越しに渡してくれるのだが、いつもできるだけ僕の顔を見まいとするのがとっても可笑しい。

 僕は堂々としてるのに。いや、堂々と見せてるだけなんだが。

想像するにおばさんにとっては僕が“適齢期”なんだ。僕から見てもあゆと街をぶらつくよりも、このおばさんの方が似合うだろう。

 実際あゆをちょっとしたホテルの鉄板焼きレストランに連れて行った時、ウェイターが僕を見る目付きに皮肉とも侮蔑ともとれる光を感じた。あゆはまるでランウェイから降りてきたモデルのようで、大きな同じカウンターの裕福そうな初老の夫婦の妻からの悪意と夫の羨望の視線がチラチラと降りかかった。スラリと長い脚を惜しげも無く見せるミニのバルーンスカートは衆人の目を集めていたのだ。

 平然としたつもりだったが内心の動揺は大きかった。あゆの勝ち誇った態度は着飾った女特有の本能だろうか。所詮女の世界は美しい者の勝ちなんだ。

 帰り道のウィンドウに映る僕たちはどうやっても20年の歳の差は隠しようがなかった。ホステスに入れあげている野卑な中年男としか見えない。僕は事実だからと自虐していた。妻とは行ったことも無い高級な店で大枚をはたいて、惨めさを思い知るとは皮肉なものだ。

 風呂からあがってあゆはバスタオルだけで体を拭いた。バスローブがあるのに使わない。2枚目のバスタオルを胸から巻き付けたままだった。どうせ僕が剥ぎ取ると思ってるのかな。

「あゆ、お腹は空いてないのか」

「ああそうそう、おなか空いた、ネイルに夢中で忘れてた。ハハ、食いしん坊のうちとしたことが」

 あゆは自分のことをうちと言う。

「ここの食事は庶民的だがお腹がいっぱいになるだろ」

ほらとメニューを渡した。

「あー、オムレツもあったんだ、うれしー、そうだここで食べるのは二回目だよね、こんなにたくさんメニューがあったんだ。今ごろ気がついたハハ」

「やれやれ、早く決めろよ」

あゆは少ないがそれでも8種類くらいあるメニューを眺め回していた。手作りとわかる写真付きのメニューブックは一品が一ページも占めているので何種類あるのかすぐには分からない。

「オムレツとカツカレーとカツドン」

「えーそんなに食べるのかい、いいけど」

3つ頼んでも2千円ぽっちなので僕は平気だった。メジャーなホテルなら外で食べようと言うところだ。ただ、後からあゆが胃がもたれたとか言い出さないかと心配だった。

「だってよっちゃんも食べるでしょ」

「いや僕は食べないよ、今からあゆを食べるから腹は空いてるほうがいいんだ」

「ばっかねー、腹が減っては戦ができんでしょ」

 僕はにこにこした。

「そうね、後で苦しくなるのもいやだから、えーとね本当は生姜焼き定食でしょそれとモツの煮込み」

「えー煮込みなんてあるの?あゆはホルモンは嫌いだと言ってなかった?オムレツは食べないの?」

「ううん、煮込みは別なの、お父さんとねお店に行ってたときにね少し貰って食べてておいしかったのよね。オムレツはね昨日食べたばかり。好物は毎日食べない主義なの」

 えくぼを作って笑うあゆはとても可愛い。僕は思わずえくぼにキスした。

「やっぱり飢えてる、よっちゃんどうしたの。奥さんと喧嘩してんの」

 僕は黙って笑っていた。

「店って居酒屋だよね、子供のころから行ってたってことか」

「そうね、お父さんは建築現場の職人だもんパチンコもよく一緒に行ってたよ。もっともパチンコはお母さんのほうが嵌ってた、それがもとでうちが苦労してんのよね」

そう、あゆは親の作った借金を返している。それは過去ではなく今も継続しているらしい。ギャンブル依存症は治らないのだ。高利の借金は普通の仕事では返せない。あゆのこの仕事は親の「公認」なんだ。「早くやめたい」があゆの口癖だった。僕は優しくしていてもあゆの貧しさを利用している嫌な奴の一人に過ぎない。

「じゃあ、生姜焼き定食と煮込みだな、一人で食べるんだぞ、まあ残してもいいから」

僕は部屋の受話器を取りフロントに注文した。

電話を切ったらすぐに電話が鳴ったので驚いた。ファッションホテルで電話が鳴ると驚く。なんだか後ろめたい気持ちがぬぐい消しきれないせいだ。

フロントのおばさんからだった。恐縮した声が聞こえてきた。

「すみません確認させてください、生姜焼きは定食で・・煮込みはご飯がいらないんですか?」

「ああそうか、ご飯は生姜焼き定食のほうだけですよ」

あゆの顔を見ながら、お互いうんうんとうなづきながら、答えた。二人いるのに不自然な注文かもしれない。

あゆは定食のおかずだけじゃ物足りないのだ。いつも言っている。「うちの体見てよ、おっきいでしょ。うーんと食べるのよ」

 僕の愛犬だった大型犬がたくさん食べてうんちもでかいことを思い起こしていつも笑ってしまう。あゆのうんちを想像してしまうのだ。

 あゆは僕がトイレから出てくるといつも聞く。

「うんちした?」

そんなアッケラカンな性格に惹かれてしまう。

 さすがにバスローブをまとったあゆはお風呂で火照ってにこにこしている。顔がツヤツヤして光っている。

 僕もバスローブを着てあゆの隣に座っていた。

 二人にちょうどいい幅の、固めのソファーはこうやってくっついているのにちょうどいい。あゆの指先はできあがったばかりのネイルデコレーションでキラキラしている。繰り返して言う。よほど嬉しいのだな。

「いいでしょ、綺麗でしょ」

 あゆは自慢げだ。1時間もかかった。安かったのよ3千円なの・・・

「1時間で3千円じゃお店は儲からんのじゃないのか」

「そうね、今は競合店も増えてるから大変みたい。でも安いから混んでるのよ。特に私の指名する彼女はチョー人気なのよ」

「そうかー」

 納得しながら僕はあゆの指を撫でまわしていた。

あゆは指が細い、まっすぐな指で格好が良い。僕の指はごっつくなってしまった比べると色も随分違う。あゆの指は真っ白だ。

「きれいなネイルだね、でもあゆの指はきれいだからネイルなんていらないよ」

「いやよ、ネイル大好き」

「まあ、綺麗だけどね」

 あゆの頭に腕を回して引き寄せほっぺたを近づける、いい匂いだ。あゆは僕を見てにっこりする。

 食事が届いた。ノックされたので開けるとやはりおばさんが照れたように立っていて、どうぞと小さな声でお盆を渡してくれた。相変わらず下を見ながら。どの曜日に来てもお昼に来ても今日のように夜遅くてもいる。おばさんはここに住んでいるとしか思えない。フロントにもいるし食事を運んだりもする。案外このホテルのオーナーかもしれない。そうだとするとかなりの金持ちかもしれない。

 僕はありがとうと少し笑顔で言いながらお盆を受け取りドアを閉めた。あゆの前の小さなテーブルに置いてあげる。

「さあ、食うぞー」

叫んであゆは箸を取った。

僕はうれしくて仕方ない。あゆにご飯をあげているのは至福の時間だ。ふと、昔愛犬に食事を与えた時も同じように楽しかった光景が脳裏を過ぎった。

次々とあゆの小さな口に豚肉が押し込まれる。噛んでるひまもなく呑み込んでいる。大丈夫かなと思う。

「おいおい、あゆ、お肉は逃げないぞ、ゆっくり食べろよ」

「うーん、わかってるんだけど早く食べちゃうのよね、うち早食いなの」

 僕はやれやれとあゆの食べっぷりを眺める。

 何度会っても会話の続きからベッドに押し倒すタイミングがわからない。なぜか恥ずかしい、普通に話してる状態からオスとメスの状態に切り替えるのはなんだか恥ずかしい。

 あゆが拒むはずもないのに、なぜか「いやよ」と言われる恐怖感がある。

お風呂に入ってお腹を満たしてにこにこしているあゆを見ていると、今からあゆを抱いて組み敷くのは悪いことなんじゃないかと思う。確かに法律上は悪いだろう。いくら気心が知れて恋人のようになっても、お金をあげなくては二人の関係は終わるだろう。妻に生活費を渡さなければ結婚生活は成り立たない。所詮金でセックスを手に入れることに変わりはない。公序良俗に反するなんて綺麗事を並べても、胸に手を当てて「私は一切恥じることはありません」などと言える人は少ない。恥とは感じたことすらない人もいるだろうが。

 でも話してばかりでもなんだか変だ。

僕はソファーであゆの腕を取り、撫でたりさすったりしている。指先を撫でてネイルの仕上がりを見ているとあゆは喜んでいるようだ。

「綺麗だね」

「ね、そうでしょ、綺麗でしょ」

「あゆの指は何もしなくても綺麗だよ」

「うまいこと言うのねよっちゃん、なんにも出ないわよ、ネイルは好きだから止めらんないわ、フフ」

「ほら、あゆ、こっち」

腕を軽く持ち上げて僕はあゆをベッドに導いた。

「うんうん」

あゆは驚いたことに僕を拒まず立ち上がった。娼婦を買うのだから、驚く僕は変に違いない。

確かに僕はあゆが僕に従い、拒まずベッドに行くことに驚いている。

何度同じことをしても驚く。

まるで童貞の少年が感じるだろう感傷が、この歳になっても巡ってくる。

僕はあゆを組みしだいた。

あゆはふうと息をして目をつぶる。そして小さい唇にキスをすると合わせてくれる。どうしてこんなにあゆは優しいんだ。

規定のお金以外を受け取ろうともしない。いつも小遣いをバッグににねじ込んであげる。

「いやな奴には吹っ掛けるのよ」

そうなんだ、封筒に10万円を入れて渡したのに突っ返すあゆなのだ。どうして僕には優しいのだろう。

あゆとの行為はえんえんと続く、僕は薬を使うようになった。まだあゆはそれを知らない。まだまだあゆは初心なんだ。

こんな長い行為は久しく無かった。あゆとの行為を得るまでは長く忘れていた至福のセックスだった。

 あゆはまだまだ女としての喜びを知らない。僕が開発しようにも僕にはスタミナがない。 所詮薬を使っても肉体的に硬くなるだけで精神的なタフさが伴わない。

 夢中だった青年時代のタフさは無い。

でもあゆが充分に若い。

 僕が若ければあゆを手放さないだろう。嫁にはやらない。娼婦などさせない。でも僕はすでに歳を取った。なにより家庭を壊す度胸がない。

 あゆの脇から腕を入れて頭を下から抱き上げて力いっぱい抱きしめた。あゆは僕の頭を抱き唇を寄せてきた。

ああ、なんていいんだろう。僕は下半身の僕が融けるのを感じた。

僕たちは舌をからめて、ああ最後のときがくるんだなと予感した。

弛緩した感覚にそのままの姿勢でじっとしていた。

あゆはさすがに苦しいようだ。

「重かったねごめんね」

「ううん、いいの」

僕はあゆから降りて横にあおむけに転がった、布団もシーツも二人の上に無い。

 あゆに布団をかけて、その腕だけを僕は取り出し手と手を絡めて天井へと向けていた。

 ネイルが変わらず美しく輝いている。あゆのネイルを撫でまわした。

あゆも疲れている。生活につかれている。一日も早くこの仕事から抜け出したいのだ。

「もう仕事したくない」

「・・・」

 僕は返事に窮した。

二人は無言になった。

深刻な声であゆは話し始めた。

「ひろしがね、また警察に捕まっているの」

思いつめたような表情が浮かんでいる。

「今度は何したの」

「喧嘩して怪我させたみたい」

「もう未成年じゃないから、前科がつくぞ、少しお金を渡して示談にしてもらわなくちゃいけないよ」

「そうよね、でもうちはまとまったお金はないし」

あゆはこれまでお金の無心をしたことはない。もちろん娼婦としての払いは別だが。

「何発も殴ったのかい、相手は誰なんだい」

「居酒屋で別の客との喧嘩よ。ひろしも殴られてるけど相手が怪我してるから・・・二発くらいらしいの」

「20万円くらい渡せばだいじょうぶだろう。示談してくれないと前科がつくからね。相手も応戦してるから納得するだろうね。まあ交渉してみて様子を見よう」

・・・

「ああ、そうだ、それくらいは僕でも出してあげる」

「悪いわね、巻き込んじゃって、でも頼るかもしれない、彼の親も頼りにならないのよね」

「弁護士はこの程度でも三十万は取るだろうから、僕が交渉するよ」

 あゆは抱きついてきた。

「嬉しい、よっちゃんは頼りになる。ね、もう一回しよう今度はただよ」言ってからあゆはうれしそうに笑った。

「ひろし君が羨ましい、僕がいても本当の恋人はひろし君なんだよな、僕が口を挟むことじゃないとわかってるけど」

「ごめんね、十六で好きになってバージンをあげた人だから、周りからやめろって言われるけど、絶対真面目になってくれると信じてんの、うち」

「いいんだよ、僕はあゆを本当に幸せにはできない。それがひろし君にもできないとしても、僕はあゆにはオジサンなんだ。所詮僕は惰性になった結婚を捨てきれない、妻を裏切って外の女に癒しを求める卑怯なおっさんだ」

「そんなんじゃない、よっちゃんも好きよ、なんて言えばいいかわかんないけど」

 僕は愛おしくなって再びあゆを抱こうとした。

「ちょっと待って、お店に連絡しなくちゃ」

 あゆは延長しますと電話した。

 あゆはすぐに感じ始めた。僕には昔の力強さが無い。しかも二回目なので果てるまでに時間がかかった。

「このままよっちゃんと眠りたい」

「僕もあゆを抱いたまま寝たいよ」

あゆは娼婦じゃなく、このまま恋人としての余韻で眠りたいのだ。

 しかし今夜のあゆの残りを買い切るには朝5時までとして、6万円にもなる。

「ごめんね、よっちゃんからお金を貰いたくないけど」

「気にするなよ、今はなんとか払える身分なんだ」

 あゆに延長料金も含め三時間分の料金を渡した。

 僕たちはもう一緒にいられない。あゆは身支度を整えると店に電話を入れた。

しばらくしてあゆの携帯が鳴った。送迎の男からだろう。

「ああ、はい、すぐ出ます」

僕たちは部屋を後にした。

フロントで休憩と食事代の精算をして、暗い道路に出た。

玄関より少し離れて小型の車が待っている。

まるで暗闇に潜んで獲物を狙う猛禽のように感じて寒気を感じた。

「ああ、あの車だわ、じゃあねよっちゃん、まただよ」

「うん、もちろんだよ、あゆ、メールするからね」

僕はあゆを抱きしめてキスをしてやりたかったが、運転手の凶暴な視線を感じ躊躇った。

ああ、もっと自然にふるまえないのか、ぼくはもどかしかった。僕らはパートタイムラバーなんだ。いやラバーなんかじゃない、若い娼婦と中年の客に過ぎない。

スティービーワンダーのその曲名の歌が頭の中に響いてくる。僕がいつもことさらにその曲を口ずさんでいるせいだろう。

ひとりファッションホテルの部屋であゆを待つとき、iPhoneに入れたそれを聞いている。

僕は自分を皮肉でいじめている。

あゆが車の助手席に乗り込み、車は発進した。

僕のそばを走り抜けながらあゆは微笑し小さく手を振って僕をそこに残していった。

オレンジ色のホテルのネオン照明が道に落ちている。

俯きながら僕は駅へと向かった。

俯いた僕の目にワインレッドのリーガルのショートブーツが目に入る。あゆに会ってから僕はおしゃれになった。こんな靴など買ったことがない。いつもは黒のビジネスシューズだ。いつもスーツを着ているのが日常だった。今は黒いコーデュロイのジーンズだ。バックスキンのジャケットも買った。紺色の羊皮だ。スーツじゃない衣服にこれ程のお金をかけるのは初めてだった。このジャケットだけでいつものスーツなら3着も買える。

あゆに気に入られる努力をしている。あゆも喜んでくれる。

「よっちゃんばっかり素敵になるのね」

「あゆにも買ってあげるよ」

「うれしい、でも気持ちだけでいいの、そんなことまでされるのは悪いわ」

誰も行きかう人の無い道をたどりながらあゆとのとりとめの無い会話が蘇る。心に埋めきれない隙間を感じていた。

あゆの次の客はどんな男だろう。

 

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