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『雨と花束』             あの夜を思い出す雨の日の朝 完


今回の体験を経て、
役者、またやりたくなっちゃいました。

私は高校の時のミュージカル、
大学のときの学生演劇で4年間しか演劇には関わっていません。のであまり難しいことはわかりませんが。

パンフレットに、
「まるで本当に自分に起きたことのように、
言葉を紡ぐためのアプローチを稽古で行いました。」と話されていて、すごく納得した。
どの人も、今言葉を紡ぎ出しているように、そして悲しい過去を思い出すように、言葉を詰まらせるシーンがあって、リアルだったのを覚えています。

というか、そもそも役者はそうあるべきなんですよね。稽古の一環で、自分の役でプロフィール帳を書く、ということをしましたが、役の気持ちを考えて、プロフィール帳を埋める、のではなくて、本当にその役がどう書くか。そこまで深く感覚を落とし込めていないと、文脈やセリフを落としこむことなんて無理なんでしょう、と思います。
その役のことを理解するのではなく、その役を憑依させる。彼らが生きている中の一つの切り取りのスケッチが舞台上で行われているだけで、そこで紡がれるセリフや動きには、本来台本なんてない。当たり前のことなのにね。

そう考えると、自分の今までの役の向き合い方ってとても違ったんじゃないかと思って、
また挑戦してみたいなって思いました。

そして、雨と花束。
どちらも好きなモチーフです。
そして最近私が考えていた二つのテーマ。

ここ数年、雨女になったかというほどタイミングが良くも悪くも雨が降る。でも雨は好き。
紫陽花も好き。雨の音、雨上がりの匂い、水たまり。たまに降りすぎて鬱陶しくなったりもするけど、嫌いじゃない。
そんな雨が好きな私だから、今回の雨のモチーフは本当に惹かれた。

ファフロツキーズが今回のキーワードでもあったけど、雨って、絶対にその場かぎりのものだと思っていて、同じ雨は二度と降らないし、降ってもそんな記憶はすぐ忘れられる。雫はそんなイメージから来たのだと思います。

そして花束。
私たちは、花の名前を持つ旅人の集まり、つまり花束だったんですね。
最近、「花束がすごく欲しい人」ってタイトルでエッセイが書けそうなくらい、花束についての「憧れ」についてよく考える。この話は後日しようかと思いますが、要するに花束って今や誰にとっても、綺麗で憧れなことの象徴。
そして、花束を贈る行為って、「その人のことを考えた時間」「誰かに愛された証明」だと思っていて。
これもすぐ枯れてしまって一生は残らないけど、花束をもらった記憶ってあんまり忘れないと思う。そういう、なんか特別な存在。
すみれさんはこんなイメージから来たのかなって思ってます。

そんな風に二つのモチーフは好きだし、
よく考えたりするので、それが繋がった
今回の作品は、とても素晴らしかった、
好きだったのです。

ふたたび、脚本を書いてみたいと思ったし、
演出をしてみたいと思ったし、
こんなに素晴らしいものを作る人たちの中に、
やっぱり入りたいと思いました。

照明はLED使ってたり、スピーカーも大きなもの少なくてベッドの裏に隠れてたりして。
今やパソコン一つで再生機を賄えてしまう時代なので、どんどん演劇空間の可能性が広がっている。
今回おもしろかったのが、物語の24時と現実の時間設定が合わせられていること、これは宿泊ならではだけど、とても面白かった。

あとは、その場所に観客がいるかどうかでシーンを上演したり、タイミングを見計らったり、観客の名前を覚えたりって、役者の方がやるタスクや考えなきゃいけないこともだいぶ多いんだと思う。
それを考えつく、プロデューサーさん、脚本家さん、演出家さん、衣装さん、音響さん、照明さん、役者さん、ホテルスタッフの方、制作さん、全ての方がすばらしいと思いました。

私の夢は、本屋さんで演劇の上演をプロデュースすることなんです。観客が没入できる空間っていうのは、やっぱり1つの物語の体験としての価値があるし、本との親和性が高すぎると思うのです。

いつかやりたいです。この声はまだまだ小さいですが、とりあえず声をあげておきます。
今回のように、自分と価値観が同じであればあるほど、創作物が演劇であればあるほど、
それが自分に作れなかったことがひどく悔しい。

そんな風にまで思える、最高の最高の最高の演劇体験を、どうもありがとうございました。

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