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ジュリアの文章 ― 細部へと目を向ける(1)


他者の文章を読むことで、わたしたちは自分自身を客観視するのだと思う。

そしてから、書くのですが、マネをするのとは違うのです。

創造は、あらたにでっちあげることとは違って、自分の内にあるものをすくい上げて来る行為でしょう。

ここにご紹介する描写は、彼女という存在がよく浮かび上がっています。

文の細部が彼女の品格を担保している。

が、じっさい、ジュリアが細部をどのようにして選びだしているのかが気になる。

どのシーンも神が宿っているところを彼女が探し当てているように思う。

神は細部に宿るというけれど、実は、神には特に宿りたい場所があるでしょう。

そこらじゅう、ぜんぶに入っていますっ、なんてことはない。神もいろいろ忙しい。

ジュリアはきっと、脱力し淡々とこれを書いたでしょう。

さらさらと、ちょっと悲しい気分で。

ここが細部だよと促されるままに・・。



(以下、抜粋です。ジュリア、勝手引用、ごめんなさい)


細部を見ることは、つねに癒しをもたらしてくれる。

それは特定の痛み(恋人を失う、子どもの病気、打ち砕かれた夢・・)への癒しとしてはじまるが、最終的には癒されるのは、すべての痛みの根底にある痛みだ。

リルケが「言葉で言い表せないほどの孤独」と表現した、誰もが抱えている痛み。

注意を向けることによって、私たちは人や世界とつながる。

そのことを私が学んだのは、他の多くを学んだときと同じように、偶然によってだった。


最初の結婚が破綻したとき、私はハリウッドの丘の上にぽつんと立つ家をもらった。

私の意図は単純なものだった。

離婚の痛手をひとりで切り抜けようと思ったのだ。

最悪の痛みが去るまで、誰にも会わないつもりだった。

ひとりきりで長い散歩をし、苦しみ抜くつもりだった。

ところが、実際に散歩をしはじめると、予定どおりにはいかなかった。


家の後ろの道を登り、2度曲がったところで、私は灰色のしま猫に出会った。

この猫は鮮やかなブルーの家の猫で、その家には大型の牧羊犬が飼われていたが、猫はきっとその犬を嫌っているにちがいなかった。

私はたった1週間の散歩で、そうしたことをすべて知ったのだ。

私と猫は孤独な女同士、いっしょに出かけるようになった。


私たちはふたりとも、近所の柵に絡みついて咲いているサーモン・ピンクのバラを気に入っていた。

また、ふたりとも、係留を解かれた船が桟橋を離れるように、薄紫色のジャカランダの花が散るのを見ているのが好きだった。

アリス(ある午後、家の中でそう呼ばれているのを聞いた)はよくそれを、爪でひっかいていた。

ジャカランダの花が終わるころには、ぱっとしない羽板状の柵がバラ園の周囲にはりめぐらされた。

そのころまでに、私は1マイルほど遠くまで散歩をするようになっていて、他の猫や犬や子どもたちと友達になった。

サーモン・ピンクのバラがしおれるころには、丘の上のほうに、ムーア式の庭をもった家を見つけ、

その家で飼っている強烈な色彩のオウムに心惹かれるようになった。

人の目を惹く派手な色をした頑固なそのオウムは、別れた夫を思い出させた。

こうして、痛みが貴重な経験になっていった。



細部に気を配ることについて書いているのに、痛みについて長々と書いてしまっていることに、わたしは気が付いている。

これは偶然ではない。

他の人にとっては違うのかもしれないが、痛みは私に注意を払うことを教えてくれた。


心が痛んでいるときに、たとえば、将来が怖くて考えられないときや、過去が思い出すのも辛いとき、私は現在に注意を払うことを学んだ。

私が今いるこの瞬間は、つねに私にとって唯一、安全な場所だった。

その瞬間瞬間は、かならず耐えられた。

今、この瞬間、誰でも皆つねに大丈夫なのだ。

昨日は結婚がだめになったかもしれない。

明日は猫が死ぬかもしれない。

でも、今、この瞬間は大丈夫なのだ。

私は息を吸い、吐いている。

そのことを悟った私は、それぞれの瞬間に美がないことはありえないと気づくようになった。



母が亡くなった晩、電話をもらった私はセーターを持って家の後ろの丘を登っていった。

雪のように白い大きな月が、ヤシの木ごしに昇っていた。

その晩遅く、月は庭の上に浮かび、サボテンを銀色に洗っていた。

母の死を振り返ると、その雪のように白い月を思い出す。

祖母の思い出はガーデニングと結びついている。

毎夏、自分で作っていた小さなプリントのドレスから、片方の褐色の乳房がこぼれ出たこと。

やがて失うことになる家から、ポプラの木に続く急な斜面を指さし、

「仔馬たちはその木陰がお気に入りなの。私があの木を好きなのは、緑の葉っぱがきらきら輝くからよ」と祖母が言っていたことも覚えている。



(引用、終わりです。)

もう一度読みたいとあなたが思う文章には、どこか郷愁があるといった人がいました。

わたしは男性だし、ネコにもバラにも関心がない。

そんな経験は無いのに、わたしはふと思い出してはまた彼女に触れに来てきまう。

惹かれるということは、わたしのこころの底に流れてる何かが彼女と供に振動したがっている。

その何かは”孤独”じゃないかと思う。

ひとりポツンとなった者が世界とどう再び手を繋ぐのかということなんだと思うのです。


ジュリアは、相手が悪かったとか、自分がいけなかったんだとかいう話はせず、ひたすら細部に起こった事実を拾い上げて行く。

彼女は、思考をメインに使わずに書いている。と思う。

思考を使ってしまうと、批判や判断が出て来てほんとのことが分からなくなるから。

星の王子様が言った、「心で見なければものごとはよく見えないってこと。大切なことは目に見えないんだ」という言葉をわたしは想う。

これは、わたしたちのじんせいのゴールデン・ルール。

ほんとのことは目に見えないから、こころで聞くしかないけれど、聞くには細部に目を向け、自分がそこに溶けていかないといけない。

そうすれば、思考を落として触れることができる。


細部がたいせつよというジュリアが、じっさいどう表現しているかをあなたに知って欲しかった。

だから、長い引用をさせてもらった。

いけないんだけれども、これがひとの喜びと悲しみと切なさをよく現わしている。と思うのです。



P.S.

映画監督のマーティン・スコセッシと結婚しましたが離婚。ただ、彼の映画作品に協力をしている脚本家でもあります。

やがて、アルコール依存症や薬物依存症になったことで妄想症や精神病となってしまい、文章を書くことができなくなる。

症状が寛解し、アーティストとして自由に生きるために、創作活動をする上で必要なものを友人にアドバイスするようになる。

と、それが好評となってスクールを始めることになりました。

それらをまとめたものが、ジュリア・キャメロンの『ずっとやりたかったことを、やりなさい。』でした。

コピーを綴じた簡易版を地元の書店に置いてもらうことからスタートし、

約30年かけて全米で400万部、世界40カ国で翻訳されるロングベストセラーとなっています。

あなたにご一読いただけたら、嬉しい。

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