マザーの言う”小さな事”、ジョブズの謎、わたしが書けない時
「時間は限られているのだから、
他人の真似事をして、自分の時間を無駄に過ごしてはいけない」
(スティーブ・ジョブス)
「小さな事に忠実でありなさい。そこにあなたの強さが宿るのですから」
(マザー・テレサ)
書いても無駄だなぁ・・とか言う声が充満してきました。そうやってへこんでは、また書き出してきた。
確かに書いたからといって何かを得れるわけでもなく、何者かに成れるわけでもないのです。
このサイクルを繰り返すわたしは、しかし、書く喜びというのが底に流れていて、書き終わると喜びで満たされるのも事実です。
書いた成果物に価値があって欲しいという願いとは別に、書くこと自体にある何かがわたしを癒す。
わたしのこころは、さまざまに妨害するのだけれど、マザーという”細部”ということに触れたい。そしてアップルを作ったジョブズの不思議について触れます。
以下は、あなたにはかなり読みにくいでしょう。すみません。
(以下、書き方を無視して打っています。多少、後で最低の修正はしましたが)
一晩置いて、この2つをまた見た。
他人の真似事をしてもだめなのだとしたら、個性をどうしたら出せれるかとなる。
でも、個性はすべて削ぎ落してもどうしても残ってしまうものだともいう。
どうだっ、これがオレだー!なんてものじゃない。
じゃあ、それはなにかと言えば、とても微かな、思考を落とさないとつかめないもの。
マザーに言わせれば、神は細部に宿る。
”わたし”という傲慢な観念が支配している状態じゃない。
その”細部”に全集中する。
細部って、目の前に現れているものから、すーっと入って行ったもの。
思考ががりがり言うような時、この侵入、同化、溶け揉みは起こらない。
観察者であり検察官であり裁判官である、”わたし”という感覚が思考を使って邪魔をする。
そんなことしたって意味ないよ。
そんなこと誰も望んでいないぜ。
ああ、おれは我が落とせない。。。
ということ自体も、我がいっている。
”ほんと”のわたしは、思考が立ったとたんに見えなくなる。
だから、マザーは「小さな事に忠実でありなさい」と言ったんだろう。
彼女は大きな存在を感じて、それが命ずるままに行為していったんじゃないか。
道端のアリにさえ、そこにスーパーが現れていると感じた。
そういう”小さな事”を畏怖をもって接した。
だから、わたしたちはなかなか細部を扱えない。
ああ、これはアリだと判断し解釈していってしまう。
文章を書く時、わたしはすごく忙しい。
何が言いたいかを考え、どう書いて行ったら伝わるかなんて考える。
間違いや飛んでしまってるところを直す。
あなたが受け取れるような、工夫も(すこし)する。
思考がばんばんでている。
とてもじゃないけれど、”お筆書き”のようにさらさらと天から降りて来たものをそのまま書く、という状態にはほど遠い。
もし、モヤモヤしたり、くよくよしたり、先の見えない不安や苛立ちに罹っているのなら、
一度、すべてを捨てて座り直すしかない。
願い、執着、虚栄、恐れ、そういったフレームを薙ぎ払うやり方はいろいろあると思う。
それこそ教会に行って祈るのもいいし、禅を組むのも、ヨガをするのも、お香をたくのも。
リラックスでも癒しでもなくて、わたしという思念が溶けてしまうことをする。
ずーっと神の歌を歌ってもいい。
でも、そう”しよう”という意図を持ったこと自体、一過性の自我脱落で終わってしまう。
また、生活の中でもくもくと黒雲が立ち上がってしまう。
興奮と落ち込みとが繰り返されて来た。
いや、違うんだと直感が言って来る。
おまえの場合、ただのお筆書きとなるまで、どんどん、どんどん、書き出すのだという。
で、昨夜からもんもんし出したわたしは、パソコン開いて、こうして書き出している。
ほんとはノートに手書きの方がうんと理想的だ。
でも、こうしたもやもやもデジタルで残しておきたい。
お筆書きにはほど遠いのだけれど、しかし、我はそれほど主張していなくて、
たぶん、思考がヒントを与えながら、こうしてパチパチと打つ続けている。
句読点や脱字は後で直せばいいやと無視をして、ひたすら思考がくれるヒントを書き写している。
きっと完全なるお筆書き、中途半端なお筆書き、まったくお筆書きでない状態というのがあって、
わたしがパソコンのキーをするする打てる時は、中途半端なそれ。
でも、それが今のわたしなんだから、観念で否定することもないと気にしない。
理想はと、思考が主張しているけど、
今のわたしで出来る精いっぱいの”お筆書き”ならそれで良しとするしかないし、それで良いのだと思う。
彼女が言った「小さな事に忠実でありなさい。そこにあなたの強さが宿るのですから」とは、
そんな状態が来るまで待てなんて言っていない。
宿りをすこしでも感じれたら、その時の宿りで進む。
わたしの”あなたの強さ”はとても弱い。
弱いけれど、それが「小さな事」そのもので、それが「神が宿る細部」だということ。
どんどんどんどん、こうして書いていることは、ほんとに面倒くさい。
わたしの中の思考層がほんとにくだらない。
でも、そう思っているという”小さな事”を大切に受け止めてみる。
それ以上でも、それ以下でもなく、そうれはそう思っているという事実だと。
こんなふうに、誰にともなく聞いてもらっていると、こころがすーっと落ち着いてゆく。
キーを打っている目の周りの筋肉や肩や指のそれ、あごの筋肉も落ちて行く。
目も口もあごも、首も肩も指も腰も落ちて行く。
すとーんとこころが静かになって、そこに穏やかな、なんでも平気な”わたし”が残ってる。
もうそうなると、こうして書き出したかった情念も不安も怒りもなにもが無くなって行く。
ああ、これがプチお筆書きの前哨戦だな。
書くことは思考を伴うけれど、思考を落とそうと思考する限り、そこからは抜けれないことだってわかる。
思考はわたしの大事な機能でしかない。
思考がわたしを支配していた状態から、思考がわたしに仕えるというところへとシフトした。
ここまで、書き出させると、ほんとにわたしは”しあわせ”な状態なんだな。
誰に認めてもらえなくとも、みんなから無視されようと、平気だ。
誰の目もきにしていなくて、
それは、そうだという事実でしかなくなる。
わたしは、じぶんの中の”わたし”に触れたんだろうか。
心地良い。
わたしはもう世界を制御しようとしていなくて、わたしがわたしであるという。
そうして、思考がすごくトーンダウンしたとき、依然としてこれを打ち続けてくれる思考が底流で働いている。
我や執着がかなり落ちて、そして必要最低限の思考機能が残っている。
過去にも何度かそういう状態がじぶんに起こっていて、そういう時、わたしは思考よりも先に行為していた。
口がもっとも適切なことを、しかも、大胆にいっていた。人たちのこころの流れがよく見えた。
目、あご、ひたい、頬。頭皮、首、肩も腕も指先も、すっかり脱力していて、こころにもこだわりがない。
マザーが「小さな事」といったのは、その小さな事を感じて受け止めるには、解釈や判断を思考にさせないということが分かる。
それをそうだと受け止めればいいのだけれど、それには、人それぞれの儀式がいる。
マザーはひたすら祈った。
わたしは、ひたすら誰の目も気にせずに、キーを打つことが必要だ。
そうして、静かなわたしとなったとき、そこに見えて来るものをわたしは取り入れて、それが言うままに行為するしかない。
怪しいはなしだ。
けど、スティーブ・ジョブスはいつかの未来を見てしまったということがある。
彼はそこで見たものに強烈に魅入られた。
ああ、、、あれが欲しいっ!
iphoneを見てしまった彼は、部下の試作品にはもう満足できなかった。
こんなんじゃだめだ、こんなんじゃない、こんなのクソだと言い続けた。
ぜったいに妥協できなかった。
それは、はっきりとこう成るんだ、こういうものが将来にほんとに存在するんだと分かっていたから。
彼は見てしまった。そして短命という代価を差し出した。
「他人の真似事をして、自分の時間を無駄に過ごしてはいけない」という言い方はほんとは、逆なの。
「自分の時間が限られているんだ。だから、他人の真似事という低レベルの自己満足ではなく、ほんとの真似事に時間を費やすんだ」と。
彼は生を駆け抜けた。
もちろん、未来のスマホを今に実現したからといって大したことではない。
自分はすぐに死んでしまう。
「小さな事に忠実でありなさい」。
けれど、きっとジョブズは、スマホをこの世に引き寄せて来て実現するなんていう”小さな事”に、忠実に身を捧げた。
世間はすごいと言ったのだけれど、先を見てしまったのだとしたら、ほんとは猿真似でしかないことも知っていた。と思う。
でも、猿真似というとても小さな事にさえ、命を掛けてみせた。
小さなちいさなこと。
わたしも、それを紡ぎたい。
(半お筆書き、終わり)
あなたもご存じかもしれません。
もやもや、苛立ちと絶望に近い感覚をノート、2、3ページになぐり書く。
できれば、モーニング・ノートといって、毎朝、無批判に書き出す。
観察者をはずして、なんでもいいから書き出す。
誤字脱字はなおさず、他人に見せることもしないのです。
”わたし”そのものをすべて抱きかかえてあげる。
それは本人しかしてあげれないこと。
すべてすべてとこころの深いところまで受け取って行く。
いつもは人目を気にし、虚栄を張り、〇〇すべきだと言い張る思考をはずして、そこに感じて行く。。
そうした時、素になったわたしたちは、神が宿るという”細部”に初めて気が付くのだと思う。
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