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私の思っていた「書く」とは違う、違うんだよー!!


さいきん、人様の書いたものにいちゃもん付けてばかり。

いえ、コメント欄に直接書き込むことが憚れるってある。

勝手な妄想なので、言い過ぎていたならごめんなさい。ぺこり。



1.違うんだよー!!


sakuraiさんが吠えた。タイトルは、『毎日書いたって(3行日記)』だった。

毎日書くのは大変なことだろうと思っていたのにいつの間にか習慣化していたという。

「習慣化しやすい形に落としたからだ。

文章に長く向き合わず、寝る前の時間にちょろっと書くだけの日記。

日記なんだからそれでもいいとは思うけど、それは、私の思っていた「書く」とは違う。

違うんだよー!!…」。


いろいろ、聞いてみたいっ。

あやうくコメントを書き込みそうになった。あぶない、あぶない。

書き手は、1つ1つ、その手で掴んで行く。自問自答しながら進んで行くタイプの方なんだろう。

こちらのビューを押し付けるようなことは出来なかった。

けど、わたしの胸が何かを言いたがった。むむむ。

なので、ここに読み手として書いております。


じぶんだったらと考えた。

違う!っていう程のアラームがじぶんの中で鳴るってない。ほとんど、気が付かない。

たまに、わたしの過去記事を読んで行かれる方がいる。

どんな記事を読まれたんだろうかと、じぶんでもそれを読んでみることが起こります。

ほぉほぉ。。意外なことに、よく書けている。ちゃんと起承転結している。

プチな学びもあったりする。ふ~ん。。

他者が読んでくださるそんな記事を、じぶんはほんとは書きたかったんだろうか?

再読すると、微妙にじぶんがズレている。


人気なくとも、書きながらじぶんでワクワクしていたことを思い出せれるという記事もある。

書いた時のじぶんの想いがビビッドに再生される文。

でも、躍動感が置けてない文では、書いていた時のこころをもうわたしは思い出せない。

そうだ。きっと、わたしはじぶんの胸の過ぎ行く姿を見たいっ。


違うんだよーという時、わたしたちは自分の想いを捕まえられていないんだろう。

想いをクリアに見たり感じたりできていないでしょう。

でも、「それは、私の思っていた「書く」とは違う」と言っている。

書くという行為、プロセス自体への違和感を言っている。



2.この世の美しきもの


わたし、いつも好きほどに書いてます。

長文派のわたしを、ひとは勝手に書けていいよねって言うかもしれない。

でも、エッセイのような形式は決まりごとが無いのです。

じぶんの書きたいことと、書いたこととに距離が出やすい。

文字の海に想いがかき消され易い。

なので、じぶんで再読しても、当時の想いが再生できないことが頻発します。

長々と、思考中心に書いてたりするとなおのこと、想いが隠されてしまう。

ああ、、なにやってんだろ!


さいきん、知らずと短歌を詠む方をフォローしていることが多い。

短歌のように字数が決められると、書き手はそのワクの中で言いたいことを昇華しようとするでしょう。

あまりに短いから、かえって、読み手にクリアな情景が浮かぶようにと工夫する。

悲しかった、嬉しかったではイメージは湧かせられないままに、字数が終わるのです。

だから、どう言い換えたらこの気持ちが伝わるんだろうかって考える。

制約を制約と受け入れれば、無限の豊かさにチャレンジすることになる。

制約は、意外なことに書き手を自由にする。

皮肉だっ。

人生ぜんぱん、制約に気が付かないうちは不自由なのか。。


もちろん、読み手からすると、短歌は字数が少ないので、??が起こり易い。

なんだろ、これ?って思い、行間を埋めようと読み手の想像が羽ばたく。

散文の2度見はないけれど、短歌は最低でも3度見する。

1000年を超えて来た形式です。偶然伝わった形式だとは思えない。

情緒に流れ易きこころを、短歌は景色に委ねてゆく。

読む時、わたしたちは映像で見て感じている。

五感に入らないものは、伝わらない。

だから、短歌は「情景が浮かぶ」かを師匠はうるさい。

散文だとぐだぐだな感傷にしか過ぎないものを、五七五七七がキリリ守ってくれるわけです。

美しさに変えてくれる。自己を対象化する形式です。極地に誘うという形式でしょう。

短歌を書くひとは、あまり、この「私の思っていた「書く」とは違う!」ということはないと思う。

そもそも、たったの31文字に追い込んで行くプロセスがだから。



3.夜明け前の


文が長くなってしまうわたし。4000文字とか平気で書く。

文字数が多くなれば成るほど、収拾がつかない。

あちこち整合をとろうとすると、ほんとに言いたかったことも曖昧に成って行く。

短歌のように短ければ短いほど、起承転結の意味が重くなる。

4000文字も書いたからといって、もちろん、起承転結の要請は緩みません。

読み手を運ぶには、長文ならそうとうな力量がいる。

ほんとのこと言えば、わたしのように構成力が無い者は長文には向かない。


sakuraiさんが吠えたのでした。

自分の思っていた「書く」とは違うと。違うんだよー!って、吠えた。

わたしは、それが意外だった。

書き手の素が現れ、お茶目でなにやらかわいい。勝手にそう妄想した。

もう既に内に形式がそろっている。

偶然、3行日記を選んだとは思えないのです。

ご自身も、その短い散文形式の秘密を分かっているでしょう。

短歌に近いその形式が、ご自身の表現空間にぴたっと合う。


sakuraiさんはプロフィールに、こう書いています。

「書かなければ明日には忘れてしまうような些細なことを文章にするのが好きです。趣味はピアノの練習。」

日々はプロセスの中にあって、すべて流れて行く。

手元にとっておくことはできない。

なので、きっと些細なことがとっても大切なのです。

神は細部に宿るといいます。

日常のささいなことにこそ、神は宿るでしょう。わたしたちの全てが。


起承転結の要請と書いていますが、わたしは誤解していたことに気が付きました。

ストーリーが展開されていなくともいいのです。

きっと、物語ではなく、書き手のこころの動きが伝われば良い。

意外さ、気づきというけれど、こころの動きを読み手と共有するのです。

そのこころの動きが嬉しくって、わたしたちは日々を生きている。と思う。


モヤモヤする時は夜明け前なんでしょう。

夜明け前がもっとも暗いと言う。

違う、違うんだよー!!と言われると、なぜかわたしはほろほろしちゃう。


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