見出し画像

木曜日の夜、かれの歌


2010年あたりから、もう13年ほど書いています。

最初の1000日間は毎日書きましたが、それ以降は2、3日おきぐらい。

Upしようとする欲求はなぜか衰えない。

わたしは、じぶんがこんなに長く続くとは思っていなかったのです。

もっともっとおじいさんに成っても、きっとぽつぽつ書いているという謎の確信があるのです。


たぶん、わたしはあなたと話がしたいのです。

一方的に書いているように見えるでしょうが、そうじゃない。

ぐだぐだと長々書くのは、わたしのこの発話スタイルのせいです。

誰もこれが会話だと思わないとは思いますが、毎日あなたに話し掛けたい。

返事は、気配で満足します。

変わった話法ですかね?


だいたい木曜日の夜は、みんなのレスポンスが最低となります。

労働事故の統計を見ても、週もっとも疲労が溜まる木曜日に事故が多い。

木曜日の夜は、みんなの疲れがピークに来るせいですべてを休みたいのです。

飲みも騒ぎもせず、ブログも書いたり読んだりしない。

土曜日、日曜日が「休日だ」と言われていますが、ほんとに休んでいるのはこの木曜日の夜なのです。

木曜日に記事をUpしても、寂しい日で終わりがちです。


Upしない日でも、毎日書いています。

気に入らなければ、デスクトップ画面に置いておく。

数日経っても続きを閃かなければ、一時保管のフォルダに入れる。

捨てはしませんが、読み返さない。永久凍結となる。


毎日、ネタを考えています。

書くネタが枯れるというのは、それは気のせいです。

自分のミッションに沿ったものならなんでもいいわけです。

自分の悩み、自分やパートナーの日常、同僚のその日、ネット上の記事。

ずっと引っかかってたこと、疑問なこと。

無限に存在しています。

料理とスポーツ、政治や経済の話以外はなんでも触れます。

起承転結なんてわたしは考えてません。

ミッション(生きる願い)に関してこころ振るえたことならなんでもネタにします。


もちろん、何もこころに触れない日も確かにあって、

そんな時は、読んだ本のこと、詩、絵といったことに触れます。

という長いながい前置きでしたが、わたしも今日はネタが来ません。


大好きなタゴールを引用します。

日が沈み、たまたまタゴールの詩に関する短いつぶやきを見たのです。

ああ、、10年ほど前、わたしはかれに夢中になっていたのでした。

もちろん、『ギタンジャリ』も買って手元にとっておいた。

詩集を開くと、そこは24節でした。

ひどく汗ばむような暑い夏の日の夕方の、

汗や地上の埃が日没とともにすっと引けて行く景色が相応しい詩だと思います。



タゴールのうた ―24節

「一日が終わり、鳥たちはもう歌わず、風も疲れなえるとき、

闇のべールをわたしの上に厚くかけてください。

あなたが大地を眠りの夜具でくるみ、

夕暮れ 萎れた蓮の花びらをやさしく閉じるように。

旅路がいまだ果てぬまに、雑嚢(ざつのう)の食糧が空になり、

旅衣(ころも)はやぶれて埃にまみれ

精魂尽きた旅人から、恥辱と貧困を取り去ってください。

そして、あなたのやさしい夜の被(おお)いのもとに憩う一本の花のように、

旅人の生命をよみがえらせてください。」


わたしの13年ほどは、慌ただしく過ぎました。

そして、夜に死に陽に蘇りを繰り返しましたが、こんな敬虔なこころはなかなか来てはくれませんでした。

なんと潔いのかと思う。

ふかく深く落ち着く詩です。

この木曜日の夜に相応しいでしょう。

もちろん、タゴールは自身の壮絶な生を微塵もここには現わしていない。

だから、一層、かれを借りてなにかが深くわたしのこころに滲みて来るようです。

自我をあきらめ手放せば、きっとかれのようにお願いを申し上げるしかないでしょう。

諦めるって悪いことではないのです。

委ね、与えられるものに感謝できるのですから。

続く25節です。


『疲れた夜には わたしの信頼をあなたに託して

 あらがわず ぐっすり眠らせてください。

あなたへの礼拝の貧しい準備に

わたしの萎(な)えた心をかりたてないでください。

昼間の疲れた目に 夜の帷(とばり)をおろしてくれるのは あなたです

目覚めたときに、いっそうすがすがしい喜びをもって見られるよう 

視力を新たにするために』


いったいいつのことだったのか、わたしは忘れてしまいました。

わたしは幼子で母の胸に抱かれすやすや眠ったのです。

確かにその記憶がわたしにあるような気がする。

そんなとんでもないほどの安らぎをタゴールは願っているのかな?


今夜、すべてを手放してふたたびあなたが深いふかい眠りにつけますように。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?