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自分はもう元には戻らないだろうとわかる


ジョーン・トリフソンという女性は、かなり”危ない”人でした。

アルコール中毒、ドラッグ中毒・・・なんでもござれだった。

わたしは、彼女ほどに破壊的ではないけど、時に苛立ったり怒ったりしている。

怒りは、社会では単なる感情反応と見なされ易いけど、危険なシロモノです。

怒りは、カンフル剤として男に高揚感(自己肯定感)を与える自己生成の薬物といえる。

わたしは、コーヒーやタバコと同じくらいに怒りにも依存してきたでしょう。

で、依存が突然止まってしまうという話です。

彼女が書いたことを話したい(『つかめないもの』)。長いです。引用ばかりです。



1.ジョーンのある日


『見かけの上では、私は40年近く前に過度な飲酒をやめる「選択をした」ように見えます。

10代後半からの10年間、私は依存的な飲酒とドラッグの大量の乱用に明け暮れました。

雑多な摂取物の量と当時の危険な行動のことを考えれば、死なずに今でも生きていることが奇跡です。

死んでいても、殺されていてもおかしくない場面は何度もあり、

誰かを殺してしまっていても何の不思議もない状態でした。

しょっちゅう意識を失っていて、凶暴になることも多く、

目が覚めたら留置所にいたり、病院にいたり、まったく見覚えの無い人とベッドにいたりしました。

そしてある日、ふいにそれももうおしまいだと分かったのです。』


『まったくの偶然だったのですが、何かの診療を受けに病院に行ったとき、

アルコール依存とドラッグ中毒を専門に扱う医師兼セラピストに出会いました。

その人のことを前に誰かから聞いていたこともあって、

私はアルコールとドラッグから抜ける手助けをして欲しいとその場でお願いしました。

彼女は引き受けてくれました。

その瞬間に何かが変化し、もう元に戻ることは無いのだろうということ、

酔っ払いとしての日々が終わったことがわかりました。』


なぜかそうと分かる、ということがたしかにある。

ジグソーの1つのピースが、あるべき所にカチリと音を立ててはまる時があります。

でも、なぜそうと分かったかをいつもわたしたちは説明できない。

彼女も”わかった”のでした。



2.ジョーンのセラピスト


『そのセラピストは依存症を、私にはどうすることもできない病気としてではなく、

さまざまな理由で私が無意識に選択している行動として扱いました。

その選択を私がどう行っているのか、飲酒から私が何を得ているのかに気づくことは可能だというのが彼女の考えでした。

それが自覚できれば、自分をだめにしないための違う選択が出来るし、

それまでアルコールに頼りながらしていた肯定的なこと、

たとえば創造性を発揮するとか抑圧を和らげるといったことをするための、

新しいやり方を身に付けることもできると言っていました。』


『わたしのセラピストは、断酒は必ずしも一生続ける必要は無く、

過去にアルコールに依存していた人であっても、

原因となっている隠れた問題にセラピーで取り組めば適度な飲酒ができるようになると考えていました。

一緒に1年間取り組んだ結果、わたしの生活は劇的に変化しました。

はじめのころは飲酒から完全に離れていました。

しばらくしてから、セラピストから許可をもらって、ほどよい飲み方に挑戦してみました。

つまづくことは何度かありましたが、ほぼ完ぺきにうまくいったように見えました。』


原因となっている問題が隠れている。でも、わたしたちはそれに気が付かないようにしています。

自分がしている行動の原因を見たら、惨めな自分が暴露されてしまうんじゃないかと恐れる。

でも、もし「隠れた問題」にあなたがいったん気が付いたら、もう同じことをあなたは繰り返せなくなる。

自分の無知を知れば、もうあなたは無知ではないと仏陀が言ったように。


良いも悪いも、いったん知ってしまったら(受け入れてしまったら)、あなたはもう元には戻れないのです。

というか、もう同じ人間ではない。

外見は同じように見えるんだけど、認識システムの1つがもう別物へと変わってしまってる。

だから、このセラピストは、断酒することよりも、

なぜジョーンが過度の飲酒に溺れるのかの原因や背景を本人に気づかせるように促した。


やがて再び飲酒にはまっても、その時のジョーンはまた違う原因や条件下にあるのです。

わたしたちは、時々刻々と変化してゆく流動的な「ナマモノ」です。

昔から、万物は”生々流転”なんだという。もちろん、こころも。


自分が気に入ったロールモデルを探して来て、みんなは何かを得ようとしています。

出世したがる人、スピリチュアルという霊的世界で出世(覚者となる)を願う人、

筋肉鍛えてパーフェクトなボディを手に入れようとする人、SNSでたくさんのフォロワーを得ようとする人。。

何かに成りたいということを思ったのは、先にあなたがロール(役割となる)モデルを見たからです。

それを得ようとする。でも、モデルはあなたには再現されない。

心身も育成史も関心も感受性も好みのプロセスも、すべてが全く違うからです。

それは、”彼”にしか当てはまらない。

いわゆる依存症の脱却ノウハウも、万人には当てにはならないようです。

きっと、セラピストは、ジョーンを見て、ジョーンにあった話し方やアプローチを自然と取った。

ジョーンが劇的に変転したということは、ジョーンも自分自身を「何かに成ろう」とか「何かを為そう」とかいう型にはめずに観察できたからでしょう。



3.ジョーンのその後


『その後30年近く、飲むことはほとんどなく、飲酒について考えることすらほぼありませんでした。

麻薬類については、それ以降一度も摂取していません。

大量に酒を飲んでいた時にはタバコを何箱も吸っていましたが、喫煙も完全にやめました。

新しい人たちと友人になり、まったく酒を飲んだことがなかったり、

飲んでも適量しか飲まず、乱用性のドラッグにいたっては見たこともないような人たちと知り合いになりました。

私は武術を学び、禅の修行をし、大学院で文芸の学位を取り、

瞑想リトリートセンターに住みながら働き、気づきと非二元についての本や記事を書きました。

ほぼ30年の間、しらふの人生を生きたのです。

夕食と一緒にワインをグラス1杯だけ飲むこともまれにありましたが、その次に飲むのは何年も経ってからでした。アルコールは問題ではなくなりました。』


『飲まない日々がずっと続いたあと、閉経にともなうホルモンバランスの激変や、母の死による感情的な混乱のどこかで依存的な飲酒が再開し、断続的でしたが数年のあいだ続きました。

それは戻って来ることなど絶対にありえなかったパターンでした。

そのときの飲酒は、数十年前とは違い極端なものでも自滅的なものでもありませんでした。

昼も夜もなくバーで一日中飲んでいたわけでもありません。

強い酒をドラッグやタバコと一緒に大量に平らげるようなこともありません。

殴り合いもしていなければ、前の晩の記憶がまったくない状態で留置所で目を覚ますこともありませんでした。

毎晩ではなく、ときどきワインをグラス数杯飲む程度で、自宅でひとりでの飲酒でした。

ときにワイン1杯だけで終えることもありましたが、たいていは2杯で、3杯飲む晩もありました。

たまにですが、ワインをボトル1本空けてしまうこともありました。

それまでの自分の基準から言えば、間違いなく依存的で過剰なものに感じられました。』


『それから数年のあいだに、飲酒を完全にやめようと何度か「決心」しましたが、断酒は続きませんでした。

「私」が采配を振るっていないということは明白でした。

ただ、そうして飲酒が起こっているあいだずっと、気づきがそのすべてを努力なしに見守っていました。

飲みたいという衝動、その衝動の身体内での感覚、

飲酒に賛成したり反対したりする思考が言うこと、酒を買うときの感覚、

ワインを開けるときの感覚、最初の1杯を注ぐときの感覚、

最初に口にしたときの感覚、1杯飲んだあとの感覚、

ときどき2杯目を飲むときに何がそうさせているか、翌朝何を感じているか、といったことに気づいていたのです。』


ジョーンは、「私」が采配を振るっていないということは明白でした、と象徴的な言い方をしている。

非二元論では、「私」という概念をほとんど重視しません。

そんなもの(私という個人)は、実在してないと考えるからです。



4.非二元の世界


普通だったら、「私」という実態がいて、断酒しようと決めた、でも、出来なかったと考えます。

ああ、、なんて自分は情けなくダメダメな人間なんだっと嘆く。

自分という存在を前提にしている。

非二元論では、思考がささやく「私」という確固たる存在なんてあなたの中には無いのだといいます。

あなたとわたし。わたしと世界。そういう二元的な見方を否定する。

あなたはわたしでもあると、世界はわたしでもあるとします。

わたしという主体感は、ふっと考えが浮かんではくるけれど、しばらくしたらどこかにまた消えて行く現象でしかない。

記憶を思い出してはまた、「私」は許せないとかあれが欲しいというのですが、その思考はほとんどちゃんとした根拠も無ければ継続性も無い。

思考は、確かに、浮いて来てはまた消え去るモノです。


ジョーンは自己に対する気づきを促すセラピストに出会って、腑に落ちた。

思考や感情も記憶も単に”わたし”全体のほんの一部でしかなかったと。

こうして、思考や感情=わたし、というフレームから外れた。

ああ、これだって。

それまでの「私」はだめだめだったんだけど、セラピストに言わせれば、ダメではなくて、そう行動するあなたという存在全体の中の1つの事実しかなかった。

ジョーンは、単に自分の思考や感情を観察していたのではないのです。

ナマケモノでも根性が無いとかではなく、そう行動する原因や条件があれば、誰だってすることでしかなかったのです。

で、その原因や条件というのは本人が静かに見守って見てみるしかない。

「私」はいつもぎゃぁぎゃぁ言うんだけど、そういうのは横に置いておいて、

「気づきがそのすべてを努力なしに見守ってい」るようにした。

再度、飲酒が始まっても、ジョーンはそれを良い悪いと評価せずに見ることに注力し続けた。

「気づき」とは、わたし全体による意識、とでも言えばいいでしょうか。



5.努力によるものではない


『この過程ではとても興味深い発見がありました。

たとえば、1杯目のワインを飲んだあとの感覚は心から楽しめた一方で、

もっと飲んだとき、特に2杯目で終わらなかった場合はそれほどいい気分ではないということが分かりました。

それにもかかわらず、何度も何度も、何かに駆り立てられて私は飲み続けました。

飲み続けたときの感覚は実際楽しめるものではなかったのにです。

こうして断続的に飲酒を繰り返している時期に、私は1週間無言で過ごす瞑想リトリートに何回か参加したのです。

リトリートの最中、意識がとても明晰になっているとき、

ワインをグラス1杯飲んで意識をぼんやりさせるという考えそのものが望ましくないように思えただけでなく、その考えに対して本能的な嫌悪感をはっきりと感じました。

そのときそこにあったのは、開かれたありかた、繊細さ、敏感さで、それを曇らせるのは嫌だったのです。』


ああ、、それはよく分かる。

お酒を飲まないのか、晩酌しないのかとよく人に聞かれて来ましたが、わたしも鈍くなるのが嫌です。

飲んで心身をリラックスさせたいという人は多いのですが、わざわざ脳を鈍らせることはわたしには自虐的過ぎる。

こころに明晰さ、注意深さがあることの方がわたしには自然です。


『こうしたことすべてに対する好奇心と起こっていることに対する信頼がありました。

自分の飲酒についての自然な懸念はありましたが、

数十年前のようなまったくコントロールの効かない激しく破壊的な飲み方に戻ってしまうのではないかという恐れは一度も感じませんでした。

そこに戻りつつあるのではないということは、間違いなくわかっていました。

どのようにわかっていたのかは説明できませんが、わかっていたのです。

チョップレバーが大好きになることは絶対に無いし、

自分が高校の数学教師になることも絶対にないと何の疑いも無く確実にわかっているのと同じ確かさでした。

ただわかっていたのです。』


『そうやって断続的に飲酒をしながら、それが起こっているプロセス全体に気づいているという状態が数年続いたあと、もう飲まないという決意がやって来ました。

この決意は、うまくいかなかったそれまでのどの決意とも全く違うものに感じられました。

それは思考意識からでも、飲酒を巡る葛藤を抱えている自分の一部からでもなく、

非二元的な気づきから、どんなことも問題としない無条件の愛からやってきている感じがしました。

今回の決意は、「私」には問題があってそれを解決しなけれなばらないという思考に根差した二元的な欲求ではなく、恐れを土台にしてもいませんでした。

葛藤や分離の無いところから来ていました。

その感覚の違いは言葉では正確に表現することができませんが、

特徴的なのはたしかさ、つまり疑いの欠如で、

それは自分ではひねり出すことも操作することも絶対に出来ない感覚でした。

この経験は1973年に最初にアルコールを絶ったときとまったく同じ種類のものだったのです。

セラピストに初めて出会った時、何かがすっかり変わってしまったことが何の疑いも無くわかりました。

やめようとして失敗してきたそれまでのどのケースとも違ったのです。

自分はもう元には戻らないだろうとわかりました。

こうした類のたしかさをひねり出せる人、こういう変化を起こすことができる人はどこにもいません。

どちらの場合も、自分の努力によるものではないのは明白でした。』


「すべてに対する好奇心と起こっていることに対する信頼がありました」と彼女は言っています。

これってなかなか普段の生活で経験しないのではないでしょうか。

かなり思考を脱落させ、こころを外に開いてないとわたしたちには難しい。

思考を落とした、いわゆる「今・ここ」ということなのですが、刻々と起こる気づきに彼女は喜んでいる。

何かを解決しなければならないという「私」はいないし、

他者批判や他者期待することから起こる孤独感、分離感も「私」には無かったといっている。

「あるがまま」という感じだったと。



6.セラピストは何をかんがえていたのか


『過度の飲酒をやめる手助けをしてくれたセラピストは、断酒は選択だといっていました。

力を持っているのは人であって、アルコールではないと信じていました。

それに対して、アルコホーリックス・アノニスム(AA)は、

アルコールに対して自分は無力だということ、自分を超える力(神)だけが自分を救ってくれるということをまず認めるところから回復への道が始まるとしています。

私のセラピストは、完全な断酒を生涯続ける必要は無いと考えていました。

いっぽう、AAは絶対に必要だとしています。

これは2つの異なるモデル、異なる地図、異なる指導手法ですが、依存からの自由を目指しているのはどちらも同じです。

ただ、概念化の方法、実践方法が違うだけです。

どの地図に惹かれるか、どの地図に出会うか、どの地図が効果を生むかを自分でコントロールしている人はいません。』


『そして結局のところ、なぜ飲酒をはじめたのか、どうやって飲酒をやめたのか、

それからどんなことについても、それがどのようにあるいはなぜ起こるのかということを、私たちは本当は知らないのです。

原因と結果というストーリーは、ことが起こった後に作り出されたものにすぎません。』


『他の多くの人たちと同じように、私も見かけの上では喫煙と飲酒をやめるという選択を自分でしたように見えます。

でも私がそうしたとき、何がその「選択」のきっかけになり、何がそれを可能にしたのでしょうか?

以前失敗したときはうまくいかなかったのに、うまくいったそのときにうまくいったのはどうしてでしょうか?

その決意が非二元的な気づきからやってきたもののように感じられ、

そこに疑いの無い確からしさがあったとき、何が転換したのでしょうか?

誘惑を感じた時にその決意を守ることが出来たのはなぜでしょうか?

ワインをグラス1杯だけ飲んで終わるときもあれば、2杯目を注がずにいられないこともあったのはどうしてでしょうか?

注意深く見てみると、原因をひとつに絞ることも、簡単に説明することもできないと気が付きます。

あるとしたら、それは無数にあって辿りようもない原因と条件が作る織物です。

これは、私も他のたくさんの人たちも飲酒と喫煙をやめることができたのだから、誰でも同じことが出来るという意味なのでしょうか?』


非二元論は誤解を生みやすいです。

主体が居ないのなら、何をしたっていいんだ、責任とらなくていいのだと。

いや、あなたが無責任な人なのだとしたら、あなたはそれ以外の選択はできないのです。

あなたが責任感ある人なら、無責任を選択できない。

無数の糸に織りなされているあなたは、その時選択はすでに為されているとも言える。

「それは無数にあって辿りようもない原因と条件が作る織物です」という言葉を、もし、人が事実として受け入れたのなら、もう決めつけも断定もできなくなる。

せいぜい、あなたに出来るのは、その時々「私」がそうだと信じれることを精いっぱい尽くすということしかない。

できれば、感謝しつつ。。



7.さいごに


ずっと他者とじぶんを比較する、そして他者に期待するというクセ?がわたしにはありました。

同級生と比較したし、母や上司や妻や同僚に対していつも何かの期待というものがありました。

他者比較はいつまでもじぶんをダメダメ男にし、他者評価を求めることからは期待したものが得られないと怒りと孤独が生まれてゆきました。

いつも、主体感満載なわたしの思考は、記憶を参照しては他者の分析に精を出した。

そして何か素敵ななにかのモデルを目指した。

自他に対するこのクセから逃げれないので孤立(分離)と不能感に悩まされて来ました。

今ということにしあわせを感じにくく、解釈ばかりで行動もしないオトコです。


いいえ、わたしなりにしあわせを感じるときはたしかにあったのです。

山の稜線に朝日が昇る、空が一面に真っ赤になって日が沈む。

雨がざぁーざぁーじぶんをびしょ濡れにする、アリが炎天下列をなして歩く、

赤ん坊が泣き、鳥がさえずり、桜が満開となる。。。

そのとき、わたしは思考はしていなくて、ただ今にある、だけでした。

思考が紡ぐどんなストーリーも無い瞬間で、そんなとき、わたしは裸で今を感じてた。


わたしだって、様々な自己啓発本も読みました。

良いこと書いてあるんです。

哲学書も宗教書もスピ系もそりゃあ素晴らしいことが書かれていた。

感動するのですが、真夏のコーラのように、飲んだ後、もう忘れてしまう。

それをじぶんで実践できません。スカッと爽快、で終わっちゃった。


人の成功体験や忠告はあまり参考にならなかった。

いままで、あなたもいろんなロールモデルを探して来たのだとしたら、もうここで終わりにしてもいいのかもしれない。

そして、わたしたちは自分の内側をじっと見守るフェーズに移っていい頃なのでしょう。

どう在らねばならないということはないのです。

が、しかし、他者をいくらみても自分の着ている織物は見えては来ない。


もちろん、非二元論自体はとても面白いのですが、しかしそれも他者の言葉でしかありません。

抽象的な非二元論を振りかざさないジョーンは、とても興味深い。

ジョーンにとって、非二元論は確かに血となり肉となっている。

わたしは、そう思うんです。



P.S.


かつてはアルコール中毒、ドラッグ中毒、ヘビースモーカーで若い時にはかなり荒れていて、強迫性の障害がありレズビアン、政治運動などにも参加してきた…と、かなり激しい人生です。

その彼女が、「今この瞬間」しかないこと、「今起こっていることがすべて」であり「完璧」であると繰り返し語る。


「わたしが気づいたのは、苦しみや混乱が現れるときはいつも、意識が思考の中で迷子になり、空想の世界に魅了されてしまっている、ということです。

そのとき意識は『それ自体が海全体だ』ということを忘れ、ただひとつの波と一体化して生き残ろうとしつつ、その波としての成功を追い求めている。

『海を離れて存在する波はない』と悟り、『自分』と『今の瞬間のこのできごと』のあいだに想像上の分離がないとき、苦しみは終わり、悩みも問題も消え去ります」


ほんとはあなたは海自体なんだけど、その表面に波立った波の1つを自分だと思い込む。

わたしは波だと思い込んでしまうので、隣の波と背比べし落ち込む・・。

わたしは今ここに生きて在り、ただこの瞬間にいる。

そこに身を任せ自分を開いていくと、なんのへんてつもなく見えていた「この瞬間」のとてつもない輝きに気づくと言います。

波はなくならないのだけれど、カチリとピースが落ち着くところにはまる。

わたしは、広々とした海だったんだと。

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