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思いやり ― 素敵なじいちゃんに成る


関西に越して来て1年経ち、玄関を出る際の動作が激変した。

先にわたしがドアを開け、かのじょが通過したら、ドアを閉めている。

ドアを開けてやると、かのじょは「どうもありがとう」と都度、他人行儀に言う。

わたしも、「なぜじぶんがこうするか分からない」と毎度、言う。

意図なしに行為してしまうわたしがいる。

急に親切な人間になっちゃったんだ?そんなこと、ありませんっ。

背が小さく、ポトポト歩く人を守ろうとしている?かも。。

ほんと、じぶんが分からないほろほろ。



1.わたしたちは日本食だけじゃない


渋谷や新宿には観光に来た外人が多くいる。

彼らを捕まえて日本食をfreeで奢るから撮らせてというYouTuberが多い。

最近、わたし、よく見ている。

日本人のわたしが食べても、海鮮、トンカツ、うなぎ、寿司、しゃぶしゃぶ、焼肉、てんぷらは美味しい。

彼らははじめて食べた。感動するその様が褒められたようで心地良い。


彼らは、先ず、食材の新鮮さと多様さに驚く。

ご飯と卵のうまさに驚く。

魚は多種多様でナマでも食べる。肉も様々な部位を使い分ける。

もちろん、マグロや和牛のうまさに驚愕する。とろけるぅ~。

小鉢に盛られてくる付け合わせの野菜、味付け、触感を楽しむ。

日本のソースや出汁なんかほとんど知らないから、驚く。

食材の組み合わせに驚く。細かな気配りに感動する。

配膳してくれる係の人の親切さに驚く。


で、そういうワンダーにさらわれる彼らを見ていて、今度はわたしが驚く。

欧米の男女のカップルだと、男性の女性への心遣いが半端ない。

男は、中堅ハチ公並みにおそばに仕え控え目だ。女性を見守ってる。

ああ、これだっ!

わたしがドアを開ける際の雰囲気と同じだった。

関西に移住すると、男は欧米化するんだっ。


女性は、男性の存在を意にかえさずモリモリたべる。堂々と自分の感じたことを言ってる。

男性を無視しているわけではないのです。

わたしはわたし、あなたはあなたなのだ。

ああ、彼らは根っからの個人主義なんだな。

きっと、彼らの世界では、客は客、従業員は従業員と割り切っている。

お客様にまで心寄せて感動をとか、いう感覚は無いでしょう。


わたしは、「思いやり」という言葉は、好きじゃない。

たいがい、他人に対する配慮を言う。

わたしは、男でしかも、夫なので、かなりそこは気が利かない。

「思いやり」という言葉をテレビで聞くと、その落ち度を指摘されている気がする。


「思いやり」という日本語は、「思う」と「遣(や)り」という語を合わせた連語だそうな。

「遣」は「遣唐使」とか「派遣」という熟語で使われるように、「つかわす、差し向ける」という意味。

だから、「思いやり」とは、「自分の思いや気持ちを(誰かに)差し向ける」という意味合いだという。

「あの人は今、何を望んでいるだろうか」、「自分がもしあの人の立場だったら、どんな気持ちだろうか」と想像する。

で、その想像をもとに気を遣ったり、言葉をかけたり、手を差し伸べたり、励ましたり、共感したりと、”思いのこもった”行動をとる。


会社でも家庭でもご近所でも、これが暗黙に強く推奨される。

で、ここの気合なり脳の機能が足りないと、激しく非難される。

女だからとか、妻だとか、子どもだもんなとかいって、舐めているとけっこうひどいことになる。

共感力が無い!って。

某国の勝手放題な花札元大統領なんか、日本では絶対、首相にはなれない。


「思いやり」という語は、人間関係における日本文化の特徴の1つだという人もいる。

なにも和食ばかりを食べてる民族ってわけじゃない。

日本人の場合、集団から逸脱することを恐れる。

集団優先にして、胸の想いを凍結し易い。

ずっと、良い子にして優秀にしていると胸は怒り出す。。



2.自分へと思いやるひと


かのじょは「いい人」、「やさしい人」です。

他人への思いやりはするの?って聞いてみた。

ううーん、、わたしはあんまり他人にはしてないかな。自分自身へしていると言う。

「いい人」「やさしい人」であることで、人間関係をよくしようとしているわけではないのです。

酷いことを言う人間がいて、それに傷つく時、かのじょは自分との対話を始める。

自分に声掛けし、想いを聞いてあげる。

傷ついたことを受け入れる。

不甲斐ない自分を認めます。悔しいことを許します。

あの人はそうするしか無かったのね、といいます。

許すというのとは違います。

あなたはそういう人ですねと、非難も切り捨てもせずにただ認める。

わたしは、そんなことするあなたが迷惑だけど、あなたは仕方無いのねって。

そういうステップの先に、相手への思いやりも、結果として出て来る。


自分の悔しさ、無念、怒り、恐れ。

相手の粗暴さ、無責任、弱さ、非情。

場合によっては、数か月、あるいは数年、ずっと反復して考えています。

自分が納得するまで。腹がくくれるまで。

自他の非を受け入れると、自分が救われるの、という。

自分との対話しか、自分を救えないわともいう。


「あの人は今、何を望んでいるだろうか」、「自分がもしあの人の立場だったら、どんな気持ちだろうか」と想像する。

その「あの人」が、「わたし」にスルリ置き換えられている。

これをさんざんするするひとは、逆に、「わたし」を「あの人」にスルリ置き換えられるでしょう。

かのじょの場合、思いやりは、自己への思いやりであり、結果として他人へのそれとなる。

自分自身をイマジン出来ない者は、他者のことも想像できない。

病的なほどに他者を軽蔑しこき下ろす元花札大統領は、実は自分のナイーブを感じていない。

だから、平気で人を攻撃できる。



3.ホッファーのこだわり


エリック・ホッファーは、「自己認識を深く」と言い続けた男です。

「たいていの問題は当人の自己認識の甘さに起因することが多い」と指摘している。

で、「感受性の欠如はおそらく基本的には自己認識の欠如にもとづいている」という。


ひどい言動するパワハラ上司は多いけれど、問題はそこではない。

自分を知り受け入れるという自己認識工程が落ちてしまってるから、その上司はひどい言動が取れる。

ハッキリした言葉を使っている割に、自分の考えも無い。

110円入れたら、いつもジュースがポロンと下から出て来る自販機みたいな、人間機械になっている。

人間のカタチをしているマシーンにわたしたちは、憤慨する。

が、それは、こちらがおバカ過ぎです。

機械に人情を期待して苦しむより先にせねばならないことがある。

かのじょは、辛い時せっせと自己と対話する。

高い感受性は、少女のままに保たれている。


ホッファーは、「思いやりは、それが自己認識を深くする」ともいっている。

自他へ眼差しを注ぐと、一層、自分への認識が深まると。

思いやりは、他人のためではないのです。

たとえば、ボランティア活動をすると、自分が救われますという人は多い。

他者を無批判にサポートする。

と、他者に向かってたその光が反射して来て、そのままの自己を認めるのです。


ホッファーは、「思いやりは、おそらく魂の唯一の抗毒素であろう」とも言う。

怒り、恨み、妬み、蔑み・・。

こういった毒素は自身を蝕むのですが、唯一のお薬が「思いやり」だと言っている。

「情けは人の為ならず」と母は言って来た。

なんども、そう自分に言い聞かせて処方していた。


「世界で生じている問題の根源は自己愛にではなく、自己嫌悪にある」。

スターリン、毛沢東、ヒットラーは多くを殺しましたが、意外にも、これでしょう。

パワハラ上司が、なぜ粗暴な言動を繰り返すのか、他者を蹂躙しても平気なのかの答えといえる。

彼らは、部下に八当たりし、バカにするのですが、そもそも自分が嫌いでしょう。


自分の内面と話さないので、ほんとの自分が望んでいることが履行されません。

ずっと願いを聞いてもらえないので、心は激怒しています。

でも、自我は聞いているつもり、分かっているつもり。聴く気もない。


人格が分離しているので、言動に一貫性も無く、責任も取れません。

一貫性のあるパワハラ上司を見たことが無い。

当たり易い部下に当たってしまうので、いつも、他責にして解決できないままなのです。

自己に聞く方法も知らない機械。

胸は自我に怒っているのですが、自我は手近かな部下のせいにし、すり替える。

自己嫌悪は収まりません。

自分が嫌いなら、胸がどう感じているのかなという感覚が持てません。

「この胸は今、何を望んでいるだろうか」、「自分がもしこの胸の立場だったら、どんな気持ちだろうか」と想像することが出来きないのです。

その内、お天道様の天誅(てんちゅう)が下る。

罰することは、専門家であるお天道様に一任すればいいのです。


わたしは、アメリカに「思いやり」を強調する人がいたとは想像していなかった。

「他人を思いやる気持ちは、精神の均衡が生み出す静寂の中だけで聞こえる「低い小さな声」である」。

先日、ふと見ると、かのじょが目をつむり頭を下げ、じっとしていました。

その日あったことをそっと抱きしめていた。

「自己欺瞞なくして希望はないが、勇気は理性的であるがままにものを見る」。

背が小さくて非力でへなちょこですが、かのじょは勇気の人。

やがて、コウベを上げきりり立ち直りました。

腹に落ちたのでしょう。


わたしが素敵なじいちゃんに成るには、思いやりということに決着を付けなければならなかったのです。

わたしがじぶんの胸を「思い遣る」。

そしたら、あなたを見守るということがもっと出来るようになるでしょう。

それには、ずっと気が付いていました。

時が来ました。



P.S.


ホッファーは「沖仲仕の哲人」とよばれてきた。船の荷を揚げ下ろしする労働者のことです。

波乱の人生。正規の教育は受けていません。

やがてカリフォルニア大学バークレー校の政治学研究教授になった。

けど、ずっとしていた沖仲仕の仕事は65歳になるまでやめなかった。

我が聖典、ウィキペディアにも書かれていますが、極めてユニークで劇的な人生でした。




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