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自分が読みたいものを書けばいい、という
1.幻の龍を探しに出かける
ああ、、あなたはなんて躍動感があるんだ、素敵だ、とわたしはあなたの歩幅とステップに感動する。
わたしはあなたが喜んでくれる内容を書きたいと思う。
がんばってみようとわたしは根性出す。
でも、相応しいネタなんて手持ちに無いことがすぐに分かる。
ああ、、わたしには才能は無いんだ・・と、今度はそっちに注意が向く。
頑張って書いても、ああ、、こんなの誰も喜ばないという声。
わたしは穴を掘ってるか、へこむしかなくなる。
そもそも「あなたが喜んでくれる内容」なんて、どんなものかをわたしは知らなかった。
いや、あなた自身もそれを言えないと思う。だから、きっと誰も知らない。
誰も見たこと無い龍を探しに行くようなものだった。
経験上、読み手を意識するとろくなことが起こらない。
2.幻の龍はやっぱりいるの?
『読みたいことを、書けばいい。』という本。田中泰延さんが書いてる。
正直に言うと、わたしは”本気”でそんなこと考えたことが無かった。
そもそも、わたしは「自分が読みたいこと」なんてよく知らない。
読めば、そうかどうかは分かったけれど、それは読んだ後だった。
書き出す時に、それがそうかどうかはわたしには分からない。
アマゾンのレビューを読みました。田中さんは、自分が面白くなければ他人も面白くないだろうという前提です。
わたし、ただなんとなく、書きたいことだけ書いていますという時がある。いや、大半がそうです。
素敵なあなたに贈りたいと言っても、じぶんが「書きたいこと」が起点になる。
わたしゃ、じぶんが書きたいと思わなかったら書けないですから。
いや、そうじゃないんだという。
書きたいことと、自分が読みたいこととは全然ちがうと。
きっと「自分が読みたいこと」を抽象的に考えても、玉ねぎの皮むきに向かってしまうでしょう。
でも、確かに「自分が読みたいこと」は、「ああ、これ読みたかったものだ」と後付けだけど存在している。
で、田中さんは、「自分が読みたいこと」を定義するよりも、
書き終わって、それが「自分が読みたいこと」なのか否かを判別する目を提供する。
3.凄腕の龍使いがいう
書くときの自分と読むときの自分とを明確に分けて考えられたら、他人が読んだときどう思うかが想像できるようになるという。
どうやるんだろ?
田中さんは、どんなに短い原稿でも必ず時間を置いて、原稿を寝かしてから推敲するという。
たしかに出そうとしたラブレターを朝見直した17歳のわたしは動転した。
あの時は、こっぱずかしくて地球の裏側まで穴掘った。
実は、この文章、見直して全体の半分以上を不要だと今朝バッサリ捨てました。
昨夜、ウネウネと書いていて持ち越したのでした。
ラブレター書いたことがある方なら分かると思う。(すみません、例が昭和過ぎて)
つぎつぎに「書きたい想い」がチェーンを作るから、どんどん書いてしまうのです。
でも、朝見直したら、すこしも素敵じゃなかった!「自分が読みたいこと」じゃないっ。
書いたラブレターを見てひどく赤面したのは、夜中のわたしではなく、チェーンの呪縛がはずれた翌朝のわたしだった。
わたしは、一人だという前提にいたのが崩れた瞬間でした。
思考は、いつも次々にささやいて来る。そうすると、それに引きずられて行く。その流れからはなかなか出れなくなる。
確固とした「わたし」なんて存在するんだろうか?
あの熱い(厚い?暑い?)想いは嘘だったの?
いいえ、それは思考のチェーンでしかなかったのでしょう。それを「わたし」だと思い込んだ。
かなり大胆に言うと、「わたし」という実体は無いんじゃないか。
ほんとは思考という働きだけがある。
その思考が、「わたし」を仮想的に定立する。実体のない「わたし」感を作り出しているだけなのかもしれません。
もちろん、あなたはそうだよね、とは言ってはくれないでしょう。
でも、もし、「わたし」とは、単なる記憶の集合体であり、バーチャルな仮置きの存在でしかないと考えると、一晩で見方が転換してしまった理由の説明が付く。
わたしの意見が、いつもころころ感情に修飾されて変わるワケも。
とにかく、ラブレターは必ず1晩寝かすことは、必ず朝食を食べると同列に大切なことだと信じてます。
「あなたが喜んでくれる内容」という追いかけ方は、「お空に咲く花が見たい」というぐらいに無意味です。
それよりも、「自分が読みたいことを書く」というフレームは、素敵です。
でも、あやふやで怪しげな「わたし」という存在が読みたいと思うもの。。。
ドラゴンってどうしたら捕まえられるん?
4.幻の龍はここにいる
レビューワーによると田中さんは、「自分が最初の読者である」ということを深く理解できれば、誰かに伝えなくて済むことも多いと気づくと指摘しています。
やばい!わたしは推敲をとめどなくするので、一度も「最初の読者」に成ったことがなかったのです。
もちろん、最初に読む人ですが、初めてこれを目にするという瞬間が持てない。
これじゃあ意味が通じないな、長すぎるな、とかいう声が止まりません。修理屋のメガネが外せない。
「深く」理解できればとも言っている。
けど、じぶんの見方が深くなったと判別できる指標がわたしの手元にない。
悟りでもしないと、そんなことは無理そうです。
いや、そういえば、「誰も読んでくれないんじゃないか」っていう目で見るという人がいた。
絶望して見た時、いろんなことが素直に見えたという。
たぶん、『読みたいことを、書けばいい。』と田中さんがいう時、自分を突き放して見れれるのかと問うている。
そもそも出来ないことをしようとしているという覚悟がいるでしょう。
「あのときのことを書く」というのも、自分を過去と未来で分けて考えているってことだと言う。
未来の自分と過去の自分をはっきり認識している。
わたしは一連の地続きの人格としてじぶんをみてしまっている。
『海辺のカフカ』は、15歳の少年が家出を決意するところから始まる。
少年は、行く先々で出会った人々に、田村カフカと名乗る。。
おじさん村上春樹が15歳の少年の瑞々しい感性を書く時、あきらかに過去の村上少年と現在の自分とをはっきり分けて認識していたでしょう。
実は、読みたい事を書き散らすのとは違うのです。
やっぱり少しは読み手の事も考える必要が大いにあるわけです。
そして、書きたい内容によって、書き方は変わるという。
それは、あなたがその内容を受け取る時は、その書き方の方が良いと感じるだろうからと。
5.龍と暮らす
ひとりの作家を続けて何冊も読みたいということがあるかと思いますが、
既に1冊読んであなたは「自分が読みたいもの」を設定したのです。
「自分が読みたいもの」とは、自分が既に触れたものを参照することになる。
ところが、「自分が書きたいこと」は、今自分の中に生じたエモーションなのです。
この興奮、この苦しみ、この喜びをあなたと共有したい!と書き出す。
自分が書きたいことと、読みたいことが一致しない理由はこれでしょう。
もちろん、「自分が読みたいこと」は、人によって違います。
わたしなら、イエスがガリラヤの地で実際言ったことが読みたい。『ユング自伝』の続きが読みたい。
浅田次郎の『壬生義士伝』や『蒼穹の昴』のような、膝折り涙を堪える話が読みたい。
『アルジャーノンに花束を』や、スティーヴン・キングの『グリーン・マイル』、ジョン・スタインベックの『ハツカネズミと人間』みたいな、胸がキューンとし涙なくしては読めないお話が読みたい。
こう書いてみると、わたしはシーンと静謐に包まれて泣きたい人なんだな。。
脱線しました。
何を書いてもいいでしょうが、そこの前提を田中さんはこうアドバイスしていた。
「事象(ヒト、モノ、コト)に出会った時、その事についてしっかり調べて愛と敬意の心象を抱けたならば、過程も含め自分にむけて書けばいい」
そして、田中さんは、自分が書いたものを自分で読んだ時に、おもしろさ、誠実さ、力の抜き方が揃っていることを要請します。
それを満たすのが、「自分が読みたいもの」となるといっていると思います。
特に、田中さんは一次資料を徹底的に調べるという。
そういう真面目さ、真剣さが彼の信頼の基盤を作っている。
これは、わたしが素敵だと思う文章を書かれている人たちに共通しているのです。
しっかり自分の気持ちを調べ、愛と敬意のイメージを抱いて書いていると感じます。
仮に龍を手にしても、村に戻って、村人と暮らさねばなりません。
ときどき短気起こすと龍は口から火を噴く、じゃ困ります。
わたしも読み手も、安心して委ねられる基盤が必要です。
ええ、今日の文章は間違いなく「わたしが好きなこと」を書いていますが、
「わたしが読みたいもの」かと言われると半分しかYesを言えません。
おもしろさがあるのか?ううーん、笑えません。
力は抜けているか?ええ、何度も直しながら段々とじぶんに向けて書いて行きました。あまりに長すぎて抜けてしまいました。
「わたしが読みたいもの」はまだ半分。
P.S.
女子はパン屋さんを、男子はそば屋やカフェを出したいと言う。
「わたしが提供したいパン」は、「わたしが食べたいパン」と一致するのかと言う問いになるかと思います。
意外なことに、「わたしが書きたい記事」と「わたしが読みたい記事」とは違いました。
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