価値観の着心地
「マイナス思考」、「繊細」、「気にしすぎ」というこの世のネガティブの結晶が自分だと思っている
だから昔から呆れてしまうほど人の感情を邪推してしまう
「どうせあの人はよく思ってないんだろうな」みたいな
ただ、大体そういう時、種明かしをすると何にもなかった
「いや、気にしすぎだって笑」という相手の深い懐で象られた刃で刺されて自我が殺される
そんな人生を30年近く送っていると、そういった感情にも飽きてしまうし、結果的に交友関係を狭めて、風の吹かない街で暮らすことになる
最近、ちょっとまた風の強い街に引越して蘇ったあの感情と向き合ってみることにした
おそらく、「マイナス思考」とか「繊細」とか「気にしすぎ」の正体は、単なる価値観の違いという言葉で片付くような気がする
「きっとよく思わないだろうな」という感情を抱いた時点で、おそらくその事象に対して「よく思っていない」のは私だけだ
それなのに「自分が思っているということは、あの人もきっと思っているはずだ!」と無意識に決めつけて、事の発端である自分が何故か傷つく
ほんとに意味がわかんない笑
意味がわからないけど、30年間身近で起こってるから仕方がない
きっと、価値観というのは服みたいなもんなのかなと思う
服というのは、基本的にはいろんな種類があって、その上いろんなサイズがある
それは、各々の人生の環境や経験や意思の上で形成された骨格や体型や趣味嗜好がそれぞれ全く異なるからなのだ
170cm60kgの人もいれば、190cm90kgの人もいる
おそらく全く身長体重が同じ人と出会うのはなかなか難しいことだと思う
やっとの思いで出会えたとしても、服の趣味嗜好が違ったらまた一からやり直しだ
そういう風に自分の着心地と全く同じ着心地を感じる人は決して多くない
価値観も同じで、これまでの環境や経験や意思はもちろん異なるのだから、自分のど真ん中にある価値観が他人のど真ん中になることはほとんどない
人のベストサイズの服を着て、「なんで俺のサイズに合わないんだよ!」って怒る人はいないのだ
合うわけがない、人の服なんだから
だから「あの人はこう思ってるはずだ!」と決めつけていた自分の価値観があの人に合うことはめずらしいし、そもそも当てはめていいはずがない
価値観が多種多様であることは当たり前であり、それだけ世界が広いということだ
世界を狭めて、同じ服が合う人に出会う旅もそれはそれでいいのかもしれない
深い懐で象られた刃で刺されることないし、そもそも同じ着心地ということは奇跡なのだ
そういう人と出会う人生も大切だけど、もしかしたら、「自分にはちょっと大きいけど、この服はこの服でいいよね」って人の服を受け入れる人生の方が幸せな気がする
自分が服を買う度、妻は「私も着れるかな?」と聞いてくる
そうそう、そういう人生だよ
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