77818541-色で平和的な行進のデモ群衆の中のイラスト

「多様化と画一化・マイノリティとマジョリティ」

多様性の意味するところは「世の中にはいろんな人々がいる」ということだと理解しているが、いろんな個性の人々が混沌としているということは、「いろんな考え方がある」ということだろう。私自身、会社員時代の社員研修で、そのことを実証するような体験をしたことがある。それはこういうことだ。10人が1つのチームとなり、一つのテーマでディスカッションした際その一つのテーマに対してメンバーの10人全員がそれぞれ異なった意見や考えを主張したことに驚いた。10人いたら10通りの考えがあるのだ、と悟った。もちろん、テーマによっては意見が合致する場合もあるし、合致する方が多かったが、「10人いたら10通りの考え」には関心した。ミーティング、会議の重要性を改めて考えなおした。私はそれまで、みんながみんな、一つの話題には同じ考えを持ち、その考えや答えは統一されるものと考えていた。つまり、私の考えと皆の考えは一緒。みたいなものだ。私の常識がくつがえった時で、それはまさに脳に革命がおきた様だった。

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当時、多様性という言葉はまだ世の中にそんなに浸透していなかったように思う。つまり日本の学校教育そのものが多様性を受け入れていなかったように思う。言葉は悪いが、皆、同じような人間が学校教育によって大量に量産された時代が長く続いていた。さらに踏み込んで言えば、画一という言葉を当時私は知らなかった。画一という言葉は「統一」と形容されていたのかも知れない。多様性が「マイノリティ」と表現されるのであれば、画一性は「マジョリティ」と表現されるだろう                 一言に画一性と言っても、何も人間ばかりにかたよった話ではない。日本の街づくりはまさに画一化されており、どこに行っても同じような家が立ち並び、風景はどこに行っても大体変わらず、オリジナリティが全くない。まさにこれが我々日本に生まれ育った日本人の本質の現れなのだ。      私が最近になり思うのは、多様性またはマイノリティという形容に少し騙されてはいないだろうか?

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例えば、あくまでも一例だがファッションなどで強烈な個性を出している人をたまに見かけるが、やはり、いつの間にか群れをなしているし、誤解しないで貰いたいし差別でも何でもないが、LGBTの方々も何だかんだで群れを作り、サロン、オンラインサロンも結局は群れでしかない。        他の民衆が受け入れているのかは分からないが彼ら彼女らはいつの間にか普通に群衆に溶け込んでいる。間違って彼ら彼女らを批判しようものなら(批判する気はないが)いっせいに攻撃の的になりネットやメディアや坂上忍にやり玉にあげられ総攻撃を喰らうことになるだろう。こうなるとどちらが マイノリティなのか分からなくなる。

つまり、マイノリティの初めの出初めは、まだ社会的認知度が乏しく圧倒的に少数派なのだが、数か月、数年もしたら民衆も慣れてしまい、いつの間にか受け入れ、いつしか画一化されていき多数派の仲間入りとなっていくのだ。                                

私が思う多様性、マイノリティの人々は当初は、もの珍しく民衆にとっては特別な存在なのだが、やがて民衆が慣れてくると、画一化、マジョリティ側に溶け込み、その特異なオリジナル性がその中で薄れていき、やがて画一化、マジョリティ化しその中に自然に溶け込んでいきマイノリティでも何でもなくなる。自然体として、特異性がなくなるのだ。しかし、それでいいのだ。なぜなら日本人は画一的に生きたほうが生きやすく、そして楽だからだ

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そうしてまた、新たなマイノリティが現れる、といった永遠のスパイラルなのだ。誰かが間違った発言や行動をすると、いっせいに攻撃し、それをかばう人などほとんどいない。これが画一化なのだ。            学生時代は圧倒的な多様性、マイノリティ側だった人間が、就職と同時に別人のようになり、急に画一化され、マイノリティのかけらもなくなる。  企業は企業で、個人の個性を求めていながら、実際は個性に抑圧をかけている。もちろん全ての企業がそうとは言わないが離職率がそれを物語っている。しかし、本当に個性的で個性豊かな才能を持った人も存在する。ただ、にわかマイノリティが多いのも事実で、このにわかマイノリティが新たな日本の文化なのかも知れない。

ただ、ここ数年で、マイノリティの人々が生きやすくなったのは事実だ。

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